親にしてくれてありがとう!2008/1/9
 子どもが不登校や引きこもりになって、親から見たら乱れた生活をして、何かにつけて暴れたり、辛い病気の症状を出したりすると、親は「どうしてこの子はこのようになったのか分からない、この子は生まれてこなければ良かったのに」と思うようになる場合があります。親は子どもが一生懸命よい子を演じて、親の希望を叶え続けてきてくれた事実を知りません。親の都合が悪くなると、親は子どもにその責任を求めて、子どもを責めてしまいます。その子どもが生まれてこなかったら良かったのにと思うことがあります。
 子どもの立場から言うなら、生まれたときから親が自分を守り育ててくれると信じていて、一生懸命よい子を演じ続けて、親を喜ばし続けていました。不登校や引きこもりは子どもが成長の過程でいろいろな辛い経験をして、よい子を演じ続けられなくなっただけです。親からの期待に応えられなくなった自分を認識して、子どもは死ぬほど辛い思いをしています。実際に「生まれてこなければ良かった、なぜ自分を生んだのか」と親を責める子どももいます。不登校や引きこもりで辛い状態の子どもは辛くて辛くて、親の思いに沿う生き方がどうしてもできないのです。本当なら死にたいのに死ぬことすらできないのです。親以上に辛い状態にいます。
 不登校や引きこもりの子どもは生きているのも辛いから、かろうじてできる漫画やゲーム、テレビ、ビデオに興じています。大人から見たら現実逃避したこれらの遊びにだけ生きることができています。これらの遊びだけをしてやっとの事で生きています。遊びしかできないのです。子どもがやっとの事で生きている姿を、多くの親や大人はそれではいけないと非難しています。多くの親や大人はそれを怠けだ、現実逃避だ、もっと強く生きなければいけないと判断しています。生きるために必要なことをしないで遊びしかしないと考えています。そこには子どもの現実と大人の判断との間に大きなずれを生じています。
 親が一般常識に沿って不登校や引きこもりで辛い状態の子どもが快楽に興じる姿を問題だと判断する限り、親は子どもの辛さから子どもを守ることができません。子どもを元気にできません。親が一般常識を捨てて、不登校や引きこもりで辛い子どもが快楽にしか興じることができないという事実に気づいたなら、親は子どもの辛さから子どもを守ることができます。辛さが無くなると子どもはだんだん元気になり、親の思いに沿った行動をするようになります。親はこの子の親で良かった、子どもに「自分の子どもとして生まれてきてくれて有り難う。親にしてくれて有り難う!」と言えるようになります。

逃げ道を作る2008/1/29
 大人は障害に突き当たると、いろいろな知識を働かせてその障害を乗り越えようとします。その障害を乗り越えようとする意欲は人によってそれぞれでしょうが、乗り越えられなければ、その障害を迂回して行くという方法もあります。迂回路を断たれたり、退路を断たれた大人は死にものぐるいでその障害を乗り越えざるを得ません。そしてその障害を乗り越えられた人は勝者であり、乗り越えられなくて挫折した人は敗者になります。
 子どもの場合大人と違う心を持っていますから、大人と同じ対応をしたら大きな間違いになります。子どもの場合障害に突き当たると、その障害を乗り越える能力を持っている子供はその障害を乗り越えていきます。しかしその障害を乗り越える能力を持っていない子供はその障害を乗り越えられません。大人のようにいろいろな知識を働かせてその障害を乗り越えられませんし、その障害を迂回していけません。子どもは乗り越えられない障害に出くわすと、その障害から逃げなくてはなりません。障害から逃げて、成長を待って、その障害を乗り越えられる能力を獲得してから、その障害に向かい合うしか方法がないです。
 乗り越えられない障害に直面した子どもに、その退路を断ってしまうと、子どもは葛藤状態に陥ってしまいます。とても辛い状態になり、暴れたり、いろいろな病気の症状を出して動けなくなってしまいます。取り返しのつかないことになります。子どものスポーツなどでこのような状態の子どもをよく見かけます。ここでは不登校で引きこもっていた子どもが元気になり、家の外に出て新しい挑戦を始めようとしている場合を例にしてお話ししてみます。
 不登校の子どもが自発的な動きを強めて、子どもが学校に行くと言い出すと親はとても嬉しいです。親はうれしさから子どもが学校に行く対応を始めてしまいます。子どもが十分にエネルギーを貯めて問題がある学校に行けるようになっているときは、親が子どもを学校に行かす対応でよいですが、そのようなことはまずありません。今までの経験上、子どもが元気になってきてエネルギーが貯まってきたので、行かなければならないと思っている学校に挑戦してみようとしているだけの場合が多いです。
 そのように子どもを学校に行かそうとする親に対して子どもは不信感を持つようになります。または子どもがよい子を演じて、無理をして学校に行き、そこでまた心の傷を疼かすようになって、再び不登校引きこもりになってしまいます。多くの場合子どもはより辛い状態になる場合が多いです。このような場合の親が子どもを学校に行かす対応は、子どもが辛い学校に行こうとする挑戦の退路を断つことになるからです。
 不登校の子どもが自発的な動きを強めて、子どもが学校に行くと言い出したとき、親がはっきりと「学校に行くな」と言った場合、それは一見子どもの欲求を否定しているように見えます。この場合の子どもの「学校に行きたい」と言う言葉はその子どもの知識を満たすための言葉です。子どもの本心は「未だ学校には行けない」です。
 親が子どもに「学校に行くな」と言った場合、子どもの学校に行かなければならないという知識を否定して、子どもの本心である学校には行けないという思いを肯定したことになります。子どもの本心に沿っての言葉であり、子どもが学校に行こうとする挑戦についてはその逃げ道を作ったことになります。親の「学校に行くな」と言う言葉で子どもは安心して学校に行くか行かないかを決められます。子どもが学校に行くという挑戦をしても、学校に問題があったなら、安心してまた元気な不登校を続けられることになります。学校に問題がなかったら、子どもはそのまま学校に行き続けられることになります。

でもやっぱり学校に行って欲しい2008/3/1
 ある親の会で不登校の子どもを持つ親たちがいろいろと話し合っていました。その中に不登校になって半年の中学二年生の男の子を持つ母親の田村さんが自分の気持ちを、涙を浮かべながら延々と述べてくれました。子どもが中学校に入学してから授業時間中に生徒たちがいろいろな問題行動を起こして学校があれていたこと、田村さんの子どもも教師から不当な対応を受けたり、いじめを受けたので、二年生になってから学校に行き渋りだし、一学期の途中から学校に行かなくなった事実を述べてくれました。
 田村さんは今まで幾つもの親の会に参加して、自分の子どもの不登校を解決する方法を探していました。今まで母親が参加した親の会では子どもを無理に学校に行かせないで、そっと見守るのがよいと言われ続けていたようです。母親もそれを実行して、子どもに「学校に行きたくなければ行かなくていい」と言い続けていました。
 田村さんの言われた言葉からは自分の子どもの不登校をしっかり認めようと言う意志が聞き取れました。しかし半年もたっても子どもが一向に元気にならないのでどうしたものかと思っていると言いました。学校に行かなくても良いから家の中に引きこもっている子どもをどうにかしたいと思い、より良い対応を求めて田村さんはこの親の会に参加してきたのです。
 この親の会でもこの田村さんの思いに共感して、母親たちが自分たちの経験を述べてくれました。多くの親の意見によると「自分たちも同じ経験をしてきた」、「母親の対応は悪くない」、「まだ半年で結果を期待するのは早すぎる。もっと時間がかかる」という意見が主流を占めました。
 田村さんが「学校に行かなくても良い」と言っているときの表情には苦悩の表情が見られ、田村さんは無理をして子どもに「学校に行かなくて良い」と言っているのであり、その言葉には裏があり、その言葉の裏から「子どもに学校に行って欲しい」という思いがどことなく私には感じられたのですが、どの母親もその点を指摘する人はいませんでした。田村さんの子どもが母親から「学校に行かなくて良い」という言葉を聞いても、子どもが学校に行って欲しいと願っている母親の思いがすぐに子どもに伝わると私には判断できました。
 田村さんは「学校に行きたくなければ行かなくて良い」と不登校を認めていると言われました。けれど田村さんの子どもは幼いときから幼稚園や学校に行き続けています。学校には行かなくてはならないと習慣づけられていますし、学校に行かなくてはならないという知識も持っています。今の田村さんの子どもは「学校に行きたくない」とは言えない、思えない状態にあります。潜在意識では学校を回避しようとしていますが、顕在意識では学校には行かなければならない、学校には行きたいというように反応します。
 「学校に行きたくなければ行かなくて良い」という田村さんの言葉は、田村さんの子どもには「学校に行きなさい」という意味に理解されます。顕在意識では「学校に行きたくなければ」という条件は田村さんのお子さんには当てはまらないのです。田村さんがお子さんに本当に学校に行かなくて良いと思われているのなら、はっきりと「学校に行かなくて良い、家でお子さんなりに一番良い生き方、一番楽しい生き方をしなさい」と言ってあげるべきです。
 「学校に行かなくても良いけれど、引きこもりだけはやめて欲しいと願っている」という田村さんの言葉は、田村さんの子どもが学校に行かないで生きることを認めるけれど、家の中に引きこもらないで社会との接点を持ち続けて欲しいと田村さんの子どもに求めています。けれど実際上、田村さんの子どもが家の外に出ると友達にも会いますし、ほかの中学生をたくさん見かけます。近所の人からどうしたのと学校に行っていないことを質問されます。授業がある時間帯に外出すると、多くの大人は学校をさぼったり、学校から逃げ出してきた問題のある子どもだと理解します。
 このように社会の中にはたくさんの登校刺激がありますから、田村さんのお子さんには「家の中に引きこもるな」という言葉は、「学校に行きなさい」という言葉と同じ意味になります。田村さんのお子さんが家の中に引きこもらないで生活しようとしても無理なことを、田村さんは理解できていないようでした。
 私には田村さんのお子さんが学校に行かないことで、田村さんがとても大きな不安を感じて辛いことがよくわかりました。田村さんの不安からお子さんがもっと大きな不安に追い込まれていることもよくわかりました。田村さんのお子さんはとても辛くて、お子さんは生きるか死ぬかの境界線上にいらっしゃることもよく聞こえてきました。お子さんの辛さは田村さんの辛さとは比較にならないぐらいに辛いことを、田村さんにどうにかして理解してもらいたいと思いました。私は田村さんのお子さんを守るために、田村さんが心底から学校に吹っ切れて欲しいと思いました。
 私に回ってきた唯一の発言の機会に、私は田村さんが私の発言で苦しんでも、お子さんの心を代弁すべきだと判断しました。今までに学校でこのお子さんのように強くうずく心の傷を持った中学生がその学校でうずく心の傷を完全に癒して中学校に戻った例はありませんから、田村さんが持つ学校への思いを捨ててくださった方が、田村さんも楽になるし、お子さんも楽になることを伝えようと思いました。
「今までの経験から言って、お子さんのような状態から再び中学校に行けるようになることはないです。お母様の話を聞く限りでは、お子さんはとてもしっかりとしたすばらしいお子さんですから、お母様は学校へ行って欲しいと思わないで、お子さんを信頼して、お子さんが立派な大人として社会に出て行ってくれることを信じて、お子さんの動きを待ってあげてください。お子さんはご自分の将来を自分の手で切り開いて行きます。それはびっくりするぐらいですよ。」
と発言をしました。
 私の発言に田村さんはしょぼんと方を落として涙を流し始めました。涙声で
「そうなのですか?もう子どもは中学校に行くことはないですか?そのように言われても、私はやっぱり子どもに学校に行って欲しいです。ふつうの子どものように育って欲しいです。子どもが学校に行ってもらうために私は何でもします。そのために私はこうやって努力を続けているのではないですか?」
と言いました。
 私にはもう発言の機会がなかったので、声を出して言えませんでしたが、心の声で
「それじゃあ、お子さんが死んじゃうよ。お子さんが死んでも良いの?お子さんはこれだけお母様に助けてとサインを出しているじゃあないですか?今のお母様はお子さんを地獄に追い込もうとしていらっしゃるのですよ。」
と言いました。
 子どもの不登校でその子どもの親はとても辛いです。その親の辛さを癒すために不登校の子供を持つ親の会に参加して、お互いに辛い親の心を癒し合うという親の対応は正しいです。親の会で辛い心を癒して、新しい気持ちで子どもの不登校問題に向かい合うエネルギーを得ることはとても大切です。しかし不登校で辛い子どもは必ずしも親が親の会に参加することを喜びません。それは親が元気になって、子どもを学校に行かす対応を一生懸命繰り返すからです。
 子どもは母親が元気になって欲しいですが、母親が元気になったために、母親の対応からかえって子どもが辛くなるからです。親の会に参加したからには、母親は元気になるだけでなく、子どもの辛さも認識して帰る必要があります。子どもの辛さを受け取る心づもりで帰る必要があります。親の会に参加して母親だけ元気になって帰ってくる場合、その子どもは親の会について、「親の傷の嘗め合いばかりをしている」と言って親が参加するのを嫌がります。
 現実に不登校をしている子どもは、母親が感じている辛さより遙かに辛い辛さを感じています。生きるか死ぬかの狭間にいます。その辛さをゲームなどの刹那的な快楽で癒して、やっとの思いでその時間を過ごしています。その例えようのない辛さを刹那的な快楽で癒してかろうじて生きているのに、親や大人たちはその刹那的な快楽だけに注目して、辛い状態の子どもたちのあり方を否定されては、不登校の子どもたちの立つ瀬がなくなります。子どもたちはますます辛くなります。
 つまり親の会で少しでも楽になった母親は、家に帰って不登校の子どもをどうにかしようとする対応を取るのではなく、そのために母親が新たに辛くなっても、子どもの辛さの一部を母親が受け取って、子どもを少しでも楽にして元気にするのが親の会の役目です。母親は親の会で楽になったら、その分を子どもの辛さを受け取ると、結果的に母親の辛さは変わらないでしょうが、子どもがその分楽になり、子ども自身が不登校問題を自分で解決できるようになれます。


引きこもりに見られる二つの形
 引きこもっている子どもを周囲の大人が見たとき、”引きこもりは問題だ、引きこもりをさせてはならない”と感じる大人が多いです。子どもを引きこもらせてはいけないと考える大人が多いです。”子どもは友達や社会と関わって元気に成長するものだ、子どもの社会性を育てるのに必要なことだ”と考えるのが現在の常識であり、それを多くの大人が信じて子どもに求めています。
 引きこもっている子どもの立場から言うなら、子どもは好きこのんで引きこもろうとしていないです。子どもは本能として引きこもることを好みません。子どもは自分が属している環境に順応して成長しようとします。自分から友達を求めて社会に出て行こうとします。心が元気な子どもは、その子どもなりに自分から学校に行こうとしますし、友達と交わろうとします。
 子どもが引きこもる理由は、家の外に、子どもの部屋の外に、その子どもを辛くする物があるから、子どもはその辛い物を避けるために、辛くない家の中に、辛くない自分の部屋に引きこもります。家の外に、子どもの部屋の外に、その子どもを辛くする物がなくなると家の中に、自分の部屋の中に、子どもは引きこもらなくなります。子どもが引きこもるのは子どもに原因があるのではなくて、家の外に、子どもの部屋の外に、子どもが引きこもらなくてはならない原因があります。ただし子どもが引きこもらなくてはならない原因を、親や大人たちが理解できないから見つけられないだけです。
 引きこもっている子どもは、引きこもらないと辛くて辛くて死にそうになります。その辛さにより自分を維持できないから、辛さのないところに引きこもる必要があります。引きこもった状態で辛い自分の心を癒そうとしています。辛い自分の心を癒せたなら、引きこもっている場所でその子どもなりに楽しく成長できたなら、家の外の、子どもの部屋の外の、今まで自分を辛くしていた物に対して辛さを感じなくなり、引きこもりを止めてその子どもなりに元気に活動を始めます。
 引きこもっていても辛い自分の心を癒せないとき、引きこもっている場所で子どもは問題行動を起こしたり、いろいろな病気の症状を出し続けます。自分の部屋に引きこもっている子どもは、もうそれ以上に引きこもる場所がないから、子どもは自分の心の中に別の人格を作ってその人格に逃げ込むこともあります。その姿を周囲の大人が見たとき、いわゆる精神病になったと判断をすることになります。
 引きこもりには二つの形があります。一つは引きこもっている場所で子どもの辛い心を癒せて、エネルギーをためている子どもの引きこもりの形です。この子どもが引きこもっている場所を子どもの心にとって「安全な場所」と表現しておきます。もう一つは引きこもっていてもまだ辛くて、自分の命を維持するのに精一杯で、エネルギーをためられないばかりかますますエネルギーを失ってしまう引きこもりの形です。この子どもが引きこもっている場所を子どもの心にとって「安全でない場所」と表現しておきます。
 多くの大人が子どもの引きこもりを認められないのは、「安全でない場所」に引きこもっている子どもがますますそのエネルギーを失っていく姿を見て、その姿を全ての引きこもりの子どもの姿として考えています。「安全でない場所」に引きこもって苦しんでいる子どもを、引きこもりが問題だと判断する大人は何とかして引きこもりを止めさせようとします。その大人がする対応自体がますます引きこもっている子どもを辛くして、「安全でない場所」をますます安全でなくして、子どもは動けなくなり、問題行動を起こしたり、いろいろな病気の症状を出し強めていきます。
 子どもが引きこもる理由は、家の外に、子どもの部屋の外に、その子どもを辛 子どもの本能として、元来子どもは引きこもることを好みません。けれど引きこもる子どもは、その子どもにとって引きこもらなくてはならない辛い物がその子どもの周囲にあるから、その子どもを辛くする物がない「安全な場所」に引きこもろうとします。辛い状態の子供にとって、「安全な場所」に引きこもって、そこで辛い心を癒してエネルギーをため、自分の心の状態に合わせて、自分が蓄えたエネルギーに合わせて、「安全な場所」から出て行き、自分の部屋の外の、自分の家の外の社会と関わる関わり方が、その子どもにとって一番確実で早く安全な心の成長の仕方です。

不登校の兄と登校している弟
 ある母親に二人の子どもがいます。上は9歳の男の子で、現在不登校の状態です。下は6歳、小学一年生で、男の子にしてはとても優しい子です。毎日元気で楽しそうに学校に通っています。学校から帰ってきても、元気に友達と遊んでします。
 ある夜に弟がテレビを見ていました。そこに兄がやってきて一緒にテレビを見ていましたが、弟がトイレに行った間に兄が見たい番組にチャンネルを変えてしまいました。トイレから戻った弟が元のチャンネルに戻そうとして、兄弟げんかが始まりました。力は兄の方が強いので、弟は泣かされて母親の元にどうにかしてくれと訴えに行きました。
 このような場合、常識的には兄を叱ってテレビのチャンネルを弟が見ていたチャンネルに戻すべきだったでしょう。けれど母親は弟をしばらく抱きしめて「辛かったね。兄ちゃんが意地悪してごめんね」と言って頬ずりし、その後しばらく弟と遊んであげました。弟もしばらく母親と一緒に遊ぶと、その後自分の遊びを初めてしまいました。
 兄が弟を見るとついつい自己主張をして、弟がいじめられたと感じるようなことをしてしまいます。母親はどうして兄が弟にそのようなことをするのか、その理由を理解していました。つまり兄は弟を見ると、いわゆる登校刺激を感じてしまい、兄はイライラし始めて、登校刺激を与える弟に無意識に意地悪をしてしまうからです。その兄を叱って弟を守ろうとすると、兄はますます辛くなり荒れてしまうことを母親は知っていましたから、母親は兄の自己主張を尊重し、弟の辛さも尊重し、弟の辛さを母親とのスキンシップで解消しようとしたのです。
 それでは弟はいつも兄からいじめられているかというとそうではないです。時には弟から兄に嫌なことをして、弟から喧嘩を仕掛けることもあります。その理由も母親は良く知っていました。それは弟も兄が学校で経験した嫌なことと同様な嫌なことを学校で経験していました。弟が学校が辛くなったとき、兄にちょっかいを出して二人で喧嘩をしていました。そのようなときに母親は、二人の子どもが何か言ってくるまで知らない顔をして、子ども達に関わらなかったのです。その代わり子ども達が何か言ってきたら、子ども達の訴えを否定することなく、子ども達の話を最後まで丁寧に聞いていました。
 このように書くと兄と弟は仲が悪くてしょっちゅう喧嘩をしているように思えますが、実際はそうではないです。しょっちゅう二人は対戦ゲームをして、仲良くして遊んでいました。つまり基本的には、この二人の兄弟は仲がよいことを母親は知っていたのです。
 勉強に関しても、母親は二人の子どもに勉強をしなさいとは言いませんでした。それどころか勉強をしないで、兄は兄、弟は弟で、楽しく家の中で過ごしなさいと言い続けていました。ですから兄は全く勉強をしようとはしませんでしたが、弟は宿題だけはしようとして、兄がテレビを見ている側で、食卓の上で宿題をしていました。時々母親に分からないところを聞いていましたが、母親はその分からないところだけを弟に教えていました。
 弟が勉強をしたからと言って、母親は褒めたりご褒美を与えることはありませんでした。学校についても、母親は弟に「学校に行かないで家で弟なりに楽しく生活をしなさい」と言っていました。祖父母は子ども達の勉強の遅れを心配していましたから、母親の子育てに不満を感じていました。それは祖父母が二人の孫を気遣うからの心配で、その心配を母親にすることがあっても、「私の子どもだから、私が責任を取って育てます」と母親は言い続けていました。
 ある夕食後の茶碗や皿を片づける際のことでした。弟が母親の注意を聞かなかったために、お皿を一枚落として割ってしまいました。それを見た兄は弟に向かって「何やっているんだ!母さんが言ったばかりじゃあないか。聞いていなかったのかよ?このぼけ!」と、ひどい言葉を浴びせました。それを聞いた父親が兄に向かって、「言いたいことばかり言ってんじゃないよ。自分に迷惑がかかったんじゃないんだから、そんな言い方するな!」と大声を上げました。この言葉で場の雰囲気が固まってしまいました。
 兄はど〜んと食卓を拳でたたいて、自分の部屋に走っていき布団をかぶって寝てしまいました。すぐに母親が追いかけていって兄の頭をなぜながら、「辛かったね。ごめんね。よくがまんをしてくれたね。有難うね。」と慰めました。「なんで・・・おればっかり・・・こんなにお腹が痛くなるのだ。おればっかり息ができなくなるんだ?突然俺の胸が痛くなるんだよ!膝や腕がが痛くなるのはなぜだ?」と言って泣いていました。母親はずただ『辛いね』と背中をさすってあげるだけでした。

不登校と引きこもり2008/6/17
 これからの話は不登校状態の子どもに限定しての話です。不登校状態の子どもについて、学校や学校に関する物で疼く心の傷は、子どもに心の傷を疼かす物から逃げるという回避行動を取らせます。心の傷を疼かす物から回避できないときには、時に心の傷を疼かすその物、またはその心の傷を疼かす物を子どもに与えようとする人を攻撃することもありますが、多くは子ども自身の内面に向かっていき、神経症状(自律神経の症状)や精神症状(自傷行為を含める)などの病的な症状を出すようになります。時には自分の心の中に別人格を作って、その自分で作った人格の中に逃げ込んでしまう子どももいます。
 まだ公には認められていませんが、不登校状態の子どもは学校や学校に関する物で疼く心の傷を持っています。学校の建物、学校という概念、先生などで心の傷が疼いて、子どもはとても辛くなります。学校や学校に関する物で疼く心の傷がもう少し深まった子どもでは、友達や学用品、近所の人でも辛くなります。それらの不登校状態の子どもはその辛さを回避するために、学校や学校に関する物がない所に居続けようとします。
 子どもの家の外には学校や学校に関する物がたくさんあります。不登校状態の子どもが自分の家の外に自分の辛い心を癒す物を見つけられないとき、子どもは家の中に留まろうとします。子どもにとって家の中は長年住み慣れた、安心して生活ができる場所です。家の中には学用品や学校に行っている兄弟など、学校に関する物がありますが、それ以上に家の中は子どもにとって安心できる場所です。子どもの辛い心を癒す母親がいて、漫画やゲーム、テレビ、ビデオ、CDなどがあるからです。不登校状態の子どもが引きこもりやすい理由です。
 子どもの家の外に、不登校状態の子どもを辛くする学校や学校に関する物があっても、子どもが家の外にその子どもをとても楽しくするような物、例えば買い物、学校以外のクラブ活動、大好きな友達などがあると、子どもはその時だけ家から出て行けます。家の外にある子どもを楽しくさせるものが子どもを多いに楽しませられるときには、子どもは楽しそうにして家の外に出て行けます。周囲の大人から見たら、その不登校状態の子どもがどうして学校に行けないのか、学校に行こうとしないのか全く理解できなくなります。それだけ元気なら必ず学校に行けるはずだと理解します。その子どもが学校をずる休みをしているとか怠けて学校に行こうとしていないとか判断するようになります。
 不登校状態の子どもは家の中で学校に関する物を見たり意識しないと、普通の子どもと同じような生活が可能です。又学校に関する物を見たり意識したりしても、母親という子どもの辛い心を強く癒す存在があるので辛くなりません。所が母親が不登校状態の子どもに学校という概念を与えたり、学校に関する物を与えると、子どもは大変に辛くなり、母親に暴力を振るいますし、母親を拒否して自分の部屋に逃げ込みます。自分の部屋に閉じこもって出てこようとはしなくなります。いわゆる閉じこもりと表現できる状態です。
 子どもが自分の部屋に閉じこもっても、又は自分の部屋に閉じこもれなくても、子どもが依然として学校や学校に関する物を与え続けられて、子どもの心の傷が疼き続けると、子どもは親に向かって暴力を振るいますし、暴れて部屋の中を破壊します。子どもの性格として暴れられない子ども、親の力で押さえつけられて暴れられない子どもは、いろいろな神経症状や精神症状を出すようになります。場合によっては自分の心の中に別の人格を作ってその人格に逃げ込んで自分を守ろうとします。
 また年長の子どもでは、親が学校や学校に関する物から子どもを守ったとしても、その子どもがその時まで成長する過程で植え付けられた”学校には行かなくてはならない”という知識を思い出して、自分で思い出した知識からの学校や学校に関する物で心の傷を疼かせて、親に暴力を振るったり、部屋の中を破壊したり、神経症状や精神症状を出すようになります。
 上記のように不登校状態の子どもがどのように引きこもっているのか、どのような症状を出しているのかという観察から子どもの心の状態を理解することができます。親や大人達には気づかれていないけれど、子どもに加わっている心の傷を疼かす物の存在を知ることができます。多くの不登校状態の子どもでは、子どもの心の傷を疼かす物は学校や学校に関する物です。
 親が子どもから学校や学校に関する物を取り除いてあげると、そして家の中で子どもが目一杯楽しく過ごして心の傷を癒せたなら、子どもは親に反対されても引きこもりを止めて、”その子どもなり”に家の外すなわち社会と関わろうとします。子どもが必要と感じたら、学校に戻ったり、別の学校を求めて行動(本による勉強)するようになります。
 これらの子ども特有の、その子どもなりに自分の問題を解決して社会に出て行こうとする能力がある事実を、多くの大人は知りません。又教えられても信じようとしません。それは大人にない能力なので、大人には分からないからです。それ故に子どもは親から、大人から信頼されていないと感じるようになります。信頼されていないと感じている子どもは、親や大人に向かって「信頼して欲しい」という意味の問題行動をするようになります。
 それと同時に多くの大人は社会常識に縛られていて、”その子どもなり”という個々の子どもの特性から生じる心の成長を認められません。その大人の思いを子どもに押しつけて不登校問題を解決しようとする大人が多いです。粘土細工で人形を作るように、大人は自分の思うように子どもを作り直すことができると考えています。
 それは未だ心に余裕のない子どもにはとても受け入れられないです。不登校状態の子どもは、そのの子どもが持っている能力とエネルギーからその子どもは不登校問題を解決しようとしています。それ以外の解決法で子どもは自分の不登校問題を解決できません。不登校問題の解決には、個々の子どもの”その子どもなり”の成長がとても大切です。
 不登校状態の子どもの問題解決は、学校や学校に関する物で疼く、子どもの心の傷に注目することで可能になります。不登校状態の子どもの心の傷がどの程度に重症なのか親は知ることができません。分からなければ親は子どもの心の傷が最悪の状態であると考えて、子どもを子どもから見て安全な(学校や学校に関する物がほとんど無い)家の中に積極的に引きこもらせてあげると良いです。家の中に引きこもらせて、毎日の生活を可能な限り楽しませてあげて下さい。
 多くの大人は子どもが家の中で楽しく過ごすと、大人がそうであるように、子どもはその楽しさばかりに依存して、怠けて、一生その楽しみだけをして社会に出て行こうとしなくなると考えています。けれど子どもは大人と違ってそのようなことはありません。子どもは生活をいっぱい楽しんで心の傷が癒えると、その楽しさを卒業して社会に出て行こうとします。それが大人と子どもの心の違いです。不登校状態の子どもは引きこもって、可能な限り引きこもりの生活を楽しんだほうが、早く心の傷が癒えて不登校問題を解決できます。親もその方がありがたいはずです。
 不登校状態の子どもが安心して引きこもられるようにしてあげると、引きこもらなくてはならない子どもは安心して引きこもります。家の中で心の傷を疼かすこともなく心の傷を癒して、エネルギーを貯めていきます。心の傷が癒えてエネルギーが貯まってくると、親がもっと引きこもっているようにと引き止めても、それをはねのけて子どもは家の外の社会と関わっていきます。その子どもなりの生き方を求めて引きこもりながら動いていきます。そのような心の成長の仕方は大人にはない成長の仕方です。
 引きこもる必要のない子どもは、親が子どもに引きこもるように対応をしても、それを振り切ってその子どもなりに家の外の社会と関わっていきます。つまり親は子どもが不登校状態だと気づいたなら、子どもが安心して家の中に引きこもられる対応を取ることで、親が子どもに安心して引きこもられるようにすることで、子どもは自分の心の傷の程度に応じてその子どもなりに上手に引きこもったり、引きこもらないでその子どもなりに家の外の社会と関わり、その関わりをどんどん広げていってくれます。それが一番早くて確実な、不登校問題の解決法です。 

週刊文春7月3日号記事について
通学習慣
 「新一年生では通学習慣を身につけさせることに尽力する」という考え方です。これは子どもが未だ集団生活に加わるしつけ習慣が付いていないから、小学校に入った時点でつけなければならないと言う意味です。その言葉の裏には親が教育して、しつけをして子どもを集団生活に加わられるようにしておくべきだという意味を指しています。しかし新一年生の殆ど全ては幼稚園に通っていました。つまり小学校が幼稚園の延長上にある限り、幼稚園に通えていた子どもは小学校に通えるはずです。それはしつけや習慣の問題ではない物がある事に気づく必要があります。
 子どもの心や体の成熟度は幼ければ幼いほど子どもによって差があります。その成熟度の差、つまり子どもの集団に入っていくだけの心や体の成熟が不十分な子どもがいても良いはずです。小学校によっても異なりますが、目新しい小学校から子どもが受ける辛さが子どもの心の成熟度では解決できない場合、子どもは入学当初から学校に通うことを嫌がっても良いはずです。そのような子どもは幼稚園にも行きづらくて、無理をして通園をしていた場合が多いですから、わかりやすいと思います。時には一見幼稚園には元気で通園していても、小学校という新しい子どもの集団には行きづらくなると言う場合もあります。
 入学当初から学校に行き渋る子どもの中には、幼稚園で既に心に傷を受けていて(幼稚園でのしつけや管理が厳しくなっている)、既に幼稚園でも通園ができないか難しくなっていた子どもがいます。幼稚園に通園していても、無理をして通園していたのです。そこで新しい小学校に通うようになると、小学校には新奇刺激という新しい辛さの刺激を受けることになります。それは辛さとして子どもに表現されますから、幼稚園、その延長での学校で疼く心の傷の辛さに、この新奇刺激の辛さが加重されて、子どもは学校に行こうとしなくなります。この場合新奇刺激は時間とともに消失します。また、幼稚園やその延長上の小学校で疼く心の傷は一般的に浅い(傷つけた力が弱いし、傷が疼いていた時間が短い)ですから、ちょっとした喜びで癒され、治癒してしまいます。
この二つの場合とも、子どもの学校に行きづらいという問題は時間が解決してくれます。それも一般的に長い時間を要しません。またちょっとした喜び刺激を学校で感じたなら、その喜び刺激の方が学校から受ける辛さよりも大きくなりますから、子どもは問題なく小学校に通えるようになります。その喜び刺激として、子どもは本能として同年代の子どもの集団が好きですし、新しいことを知る喜びも持っています。これらの喜びが学校から受ける辛さよりすぐに大きくなって、子どもを無理に学校に連れて行かなくても、子どもは自然と自分から学校に行くようになります。親や教師を含めて周りの人が尽力しなければならないことは、子どもを学校に行かそうとするのではなくて、学校の中でその子どもなりに子どもの集団に加われるとか、新しい知識を得られると言うような、楽しい思いを与えてあげることです。

休み癖
 子どもは子どもの本能として、学校が楽しければ通学習慣をつけなくても自分から学校に行き続けます。親や大人から見て楽しく幼稚園で過ごしていた子どもの中にも、幼稚園をやっとの思いで卒業して(よい子を演じ続けていた)次に小学校に行ってみたところ、学校が楽しくないばかりか学校が辛くて耐えられないから、子どもは入学当初から学校に行こうとしなくなる子どもがいます。
 教師は自分たちの職場である学校に問題があるとは考えません。教師は一生懸命子ども達の成長を願って学校を、授業を維持していますから。そのような教師の思いが好ましい子どもは多いですが、そのような教師の思いが子どもを苦しめるようになっている子どももいることに教師は気づいていません。
 そこで記事の中の校長の言葉「早い時期に「学校へ行かなくて良い」意識が根付くと、親子共々それが日常になってしまう」です。学校が辛くて子どもの限界を超えたので、学校に行けなくなった子どもを、殆ど全ての教師はこの言葉のようにまたは休み癖がつくというように理解しています。
 この言葉自体は「早い時期に」という部分を除いて、辛い子どもの心を癒すという意味で間違ってはいません。教師が意味している休み癖がつくという意味では間違っています。ここで早い時期と限定しているのは入学当初を含めて低学年という意味です。小学校低学年でなくてもこの言葉は正しいです。
 学校が辛くて学校に行きにくい子どもにとって「学校に行かなくて良い」と親が思ってくれたらとてもありがたいことです。安心して、学校を利用しないで、その子どもなりに成長して社会に出て行けるからです。また実際にできています。
 今から40〜50年以上前と違って、現在は学校に行かなくても学校に行ったと同じ程度の、又それ以上の必要な知識を身につけられるからです。辛すぎて行けない学校に行こうとし続けて一生を無駄にしてしまうよりは、辛い学校と関わらないで成長した方が得な子どもがいるのです。
 親が子どもに学校へ行かなくて良いと思わない限り、子どもは学校へ行かなくて良いと思うことはできません。例え親が言葉だけで子どもに学校へ行かなくて良いと言ったとしても、子どもは親の言葉の端や表情、行動から、親が心底子どもに学校へ行かなくて良いと思っていないことに気づきます。子どもは行くと辛い学校へ行こうとし続け苦しみます。
 親が心底子どもに学校へ行かなくて良いと思えたら、子どもは辛い学校と縁を切って、その子どもなりの成長を、それも学校に行っている子ども以上に元気に成長をすることができるようになります。
 しかし教師はそれを認めることができないです。教師が一生懸命子どものために働いている学校に子どもが辛さを感じている事実を教師はを認められません。子どもが学校に登校しないのは子どもに問題があると考えています。子どもが学校に登校しない理由の一つとして、大人にはあるが子どもにはない”休み癖”という概念を持ち出してきています。
 大人である教師には休み癖があるから子どもにもあると考えて、入学当初の小学生について「早い時期に「学校へ行かなくて良い」意識が根付くと、親子共々それが日常になってしまう」と言うようになっています。教師は学校に行きづらい子どもに「学校へ行かなくて良い」という思いをつけさせたくないからです。それは結果的に教師は教師の都合で子どもの教育を行っている状態です。教師は子どもの心理を知らないのです。

母子分離
 子どもは胎児期から乳児期にかけて全てを母親に依存して成長していきます。乳児期から少しずつ母親から離れてその子どもなりの生活が始まります。子どもに自我が形成されてきて自己主張を感じるようになる頃には、かなりの時間を母親から離れてその子どもなりに過ごして、だんだん家の外の社会と、特に子ども社会と関わるようになってきます。それを母子分離と言います。この子どもの成長過程は人間ばかりでなく多くの動物にも見られています。
 母子分離不全と言う言葉はいろいろな意味で使われています。子どもの年代によっても異なった意味で使われます。ここでは幼い子どもの登校拒否、不登校について言われている母子分離不全について述べてみます。保育園や幼稚園、小学校に母親が子どもを連れて行っても、子どもが泣き叫んで母親に抱きついて離れようとはしない場合です。または子どもが保育園や幼稚園、小学校にいても近くに母親の存在を感じない限り、子供が泣き叫びだして保育士や先生方が困るという場合です。
 子どもの置かれている条件で異なりますが、小さな子どもの集団、保育園や幼稚園、小学校などと子どもは関わっていくとき、子どもが母親と離れられなくてこれらの集団の中に入っていけない場合を幼い子どもの母子分離不全と言います。子どもの自立性が育っていないという意味です。ほぼ同じ意味で子どもが母親から離れて生活する訓練ができていないという意味です。母親と子どもとの結びつきが強すぎて、子どもが母親から離れて生活できないという意味です。その原因として母親が子供に対して甘い態度をして子どもを母親から離そうとしないという意味での使い方があります。いずれにしても子供に問題がある、母親に問題があるという意味です。
 母子分離不全を指摘された子ども達を観察してみますと、子ども達は全て母親から遊ぶことが可能ですし、面識のない他の子供達の中にもその子どもなりに入っていけます。最終的には一緒に遊ぶこともできます。それでいて子どもが行かなくてはならない保育園や幼稚園、小学校だと入っていけない事実があります。母子分離不全と指摘されている子どもは、その子どもが行かなくてはならない保育園や幼稚園、小学校に問題があるという反応の仕方をします。
 また母子分離不全と判断された子どもは、保育園や幼稚園、小学校に一緒に行く大人が父親でも、祖父母でも、同じように反応して泣き叫び父親や祖父母に抱きついてきます。それは父親や祖父母が子どもに甘すぎるのではないです。子どもは保育園や幼稚園、小学校が辛いから、そこから逃げ出したいから、同伴した父親や祖父母に抱きついて離れようとしません。子どもと母親との結びつきが強すぎ離れられなくて、保育園や幼稚園、小学校に入っていけないのではないことが分かります。
 なぜ子どもが保育園や幼稚園、小学校に辛さを感じるかを知る必要があります。辛さとは感情(情動)ですから、その子どもなりの特有な反応です。保育園や幼稚園に入園するときに感じる辛さとは新奇刺激でしょう。今まで経験したことのない場所で子どもの集団に加わる経験をしていなかったという意味です。この場合は子どもが納得した状態で経験を繰り返すことで解決できます。子どもを強引に母親から引き離すことで解決しようとすると、子どもの心は傷ついてしまう(恐怖の条件刺激を学習してしまう)でしょう。母親と保育園や幼稚園で一緒に楽しく過ごすようにすれば解決します。
 保育園や幼稚園を終えて小学校に入学する場合には、子どもにとって小学校は新奇刺激だけではないです。入学時に小学校に入ることを渋る子どもは新奇刺激の他に、程度の差は合っても既に子どもの集団で疼く心の傷を持っています。無理矢理に子どもを母親から引き離すことで子どもの心は疼き心の傷を広げ深めていってしまいます。母親から無理矢理に離された学校の中に、子どもがどれだけ楽しみを見つけ出せるかと言う要素も、その後子どもが自分から学校に通えるかどうかを決定します。
 保育士や教師の立場から言うなら、自分立場子ども達のために働いている保育園や幼稚園、小学校の中に、子どもが母親に抱きついて入ってこないのは子どもに問題があると考えています。子どもと母親との間の結びつきが強すぎて、その結びつきを断ち切って子どもが保育園や幼稚園、小学校に入っていけないと考えています。そのように子どもを育てた母親に問題があると言う意味で、子どもが未だ社会性が育っていないから保育園や幼稚園、小学校に入っていけないという意味で母子分離不全という言葉を使っています。
 子どもの立場から言うなら、自分が加わらなくてはならない保育園や幼稚園、小学校に問題があるから、保育園や幼稚園、小学校に子どが入っていきたくないと表現しています。それを無理矢理に入って行かそうとするから、母親に抱きついて行きたくないと表現しています。母子分離不全ではなくて、辛さから回避しようとする単なる回避行動で母親に抱きついています。

親の意識を変える
 不登校問題で子どもが学校に行くようにと親にできる限りの努力をして貰うのは、親の意識を変えるのにちょうど良いとある教師が言っています。それはあくまでも教師の立場であり、不登校問題で苦しむ子どもの立場ではないです。
 不登校問題で苦しむ子どもは学校が辛いのです。辛い学校に子どもを行かせようとする親では子どもがますます辛くなります。不登校問題で苦しむ子どもは親に対して問題行動をしたり、病気の症状を出すようになります。
 学校について意識を変えなければならないのは「不登校問題で苦しむ子どもは学校が辛いところである。その辛い学校に子どもを無理強いして行かせても、子どもはますます辛くなり、その辛さは蓄積しても慣れがない」という事実を知らない教師の方です。
 親も「不登校問題で苦しむ子どもは学校が辛いところである。その辛い学校に子どもを無理強いして行かせても、子どもはますます辛くなり、その辛さは蓄積しても慣れがない」という事実をしっかりと認識して、辛い子どもを守ろうとするような対応を取る必要があります。
 現在のマスコメディアが発達が学校の存在意味を低下させています。子どもが成長して社会活動ができるようになるために、学校は必ずしも必要なくなっています。昔のように学校に行かないと文盲になるとか、一般知識が付かないとか、職業に就けないとかいうようなことは現在の社会の中ではありません。それどころか自分の意志で学校を利用しないで成長した子どもは、学校に行っている子ども以上に一般知識を持っています。積極的でとても力強い生き方をします。
 現在の学校は優秀な子どもの能力をどんどん伸ばす機能もありますが、昔ながらの学校制度に固執しているために、ある意味で子どもをある枠にはめ込み、、社会に対して無害化した、積極性や意欲のない大人を作るための学校にもなっています。現在の学校が子どもをある枠にはめ込もうと強制しだすと子ども達が苦しみ始めるという事実があります。

嫌なものは仕方がない
 不登校の子どもを学校に行かせようとしても、学校に行こうとしないので、「嫌なものは仕方がない」と言って、子どもが行くのを嫌がる学校には行かせようとはしない親がいます。それは不登校の子どもを学校に行かせない対応になりますから、不登校の子どもから見たら間違った対応ではないですが、不登校の子どもの心を理解する上では正しくないです。しかし必ずしも間違っていません。
 不登校の子どもも基本的には学校が好きですし、友達も好きです。けれど学校や学校に関するもので不登校の子どもは大変に辛くなり、学校や学校に関するものを潜在意識で回避しようとします。その学校を回避しようとする子どもの行動を嫌がると表現するのならそれは正しいです。しかし子どもが行くべき学校を嫌になると表現すると、その言葉の裏には子どもが悪いという意味合いがどことなく感じられます。
 不登校の子どもも基本的に学校が好きですし、友達も好きです。けれど学校の中でいろいろな辛い事件を経験をして、その結果学校や学校に関するもので辛さを感じるようになってしまいました。ただしその事件とは、その子ども以外の子どもや教師にとって大した事件でなかったので、その子ども以外の子どもや教師はその子どもが辛い経験をしたことに気づいていません。
 誰も気づいていないけれど、その子どもは学校内の事件の被害者であり、子どもには責任がないです。その子ども以外の人は、その子どもがなぜ学校に登校するのを拒否するのか、なぜ学校で辛くなるのか理解できません。そこで教師や大人達はその子どもに原因を求めて、その子どもの不登校問題を解決しようとします。

 「嫌なものは仕方がない」という場合には、学校には問題がないし、何かわからないけれど子どもが学校を嫌がっているという事実は仕方がない。その事実を解消しようとするとかえって不登校問題が難しくなるので、その事実を解消しようとしない。子どもが嫌がっている学校には子どもを行かさないという意味になります。子どもが学校を嫌がるという問題点があるが、その問題点には目をつぶるという意味なります。それは不登校を理解しない人たちから見たら、子どもをきちんとしつけしないで、子どもの我が儘を認めているとんでもない親だと誤解されてしまいます。

「早々に”学校放棄”をする親」
 この言葉は、子どもの不登校問題について、学校に行きたがらない子どもを、親が子どもが学校に行けるようにと努力をしないで、子どもが学校に行かないことを許してしまう。それは好ましくないという意味で、そのような親を非難する言葉です。子どもが学校に行けないのは子どもに問題があり、その問題を親が解決して子どもを学校に行かせるべきだという意見です。
 不登校の子どもは学校や学校に関するもので疼く心の傷を持っています。この心の傷が癒えない限り、不登校の子どもが学校に行くとその心の傷が疼き続けて、心の傷を深めて、広げていってしまいます。不登校の子どもの心を守るためにも、心の傷が浅い内からその心の傷を疼かすものから子どもを守ってあげる方が、子どもの不登校問題を解決する早道です。
 教師や学校に関係する人たちから見たら、不登校の子どもの存在は自分たちの汚点のように関しています。子ども達の心の状態はどうであれ、不登校の子どもが学校に来れば不登校でなくなりますから、外見上は不登校の子どもがいないことを望んでいます。不登校の子どもが無理をして学校に行った結果、学校を卒業してから子どもが大変に苦しい生活を続けると言うことよりも、目先の子どもが学校に来ると言うことを重要視しています。
 教師や学校関係者の言うように、親が不登校の子どもを学校に行かせる対応を続けると子どもは大変に辛くなり、親に暴力を振るったり、いろいろな病気の症状を出すようになります。その責任を教師や学校関係者は取ってくれません。それどころか親の対応が不十分だったと余計に親を非難する場合が多いです。親が全ての責任をかぶって子どもの不登校問題を解決しなければなりません。とても辛い対応を続けなければなりません。
 不登校の子どもの立場から言うなら、辛い学校から早く解放されて、心の傷が浅い内に心の傷を疼かす学校や学校に関するものから離れられて、その子どもなりに元気に成長して、自分の意志で社会に出て行った方がその子どもの将来を有意義なものにします。不登校の子どもの立場から言うなら、「早々に”学校放棄”をする親」であってくれた方が、元気に社会に出て行けるという意味で、その子どもの将来のためには有利なのです。 

情動耐性
 ある大学の教授が、「近年の子どもは情動耐性が育っていない」と指摘しています。本当にそうでしょうか?情動とは受けた刺激に対して感情を含めた体全体の反応の仕方です。それは潜在意識から生じます。意識的にできることではないです。大人になって自己コントロールができるようになると、情動の発動を押さえることができます。感情を抑えることができます。感情の真似は情動ではないです。学習した反応の仕方を利用しているだけです。
 脳の解剖学的な構造から子どもが幼ければ幼いほど情動の調節はできません。思春期以前の子どもは情動の調節はできないと考えた方が間違いがないです。強い情動刺激でしたら、二十歳代の子どもでも情動の調節は不可能だと考えた方が間違いがないです。大人になっても情動を調節する練習をしないと、とっさに自分の情動を、感情を調節するのが難しいです。
 情動は大脳辺縁系で処理されます。大脳辺縁系は二、三歳で完成し、それ以後変化することはまず無いと考えられます。情動を調節する機能は前頭前野です。前頭前野の神経繊維の髄鞘化の完成は二十代の後半になります。ですから人によっては二十歳代の後半まで情動の調節、感情のコントロールが下手な子どもがいてもおかしくないです。
 情動耐性とはこの情動を意識的に調節する機能を指しています。情動耐性が育っていないというのは情動調節ができないという意味です。情動調節について大人には可能でも、前記のように子どもが自分の情動を調節することはできないか大変に難しいです。情動耐性という概念を子どもに用いること自体が既に子どもの心を理解していないことになります。
 子どもの情動が安定していると言うことは、子どもに普段加わる刺激で子どもが情動反応しないという意味です。子どもの心が傷ついていないという意味です。「近年の子どもは情動耐性が育っていない」という意味は「近年の子どもは心が傷ついている子どもが多い」と言い換えることができます。それほど学校を含めて近年の子どもの環境は、子どもにとって辛い状況にあります。

社会性を学ぶ機会
 核家族化、少子化、地域社会の崩壊等から、異年齢の子どもと交わる機会も減り、集団で遊ぶ体験すら乏しくなった現代の子ども達は「社会性を学ぶ機会が少なくなった」と主張する人があります。確かに学校や塾に縛られている子ども達は社会性を学ぶ機会が少ないです。しかし不登校の子ども達は親から不登校が認められて、家の中でエネルギーを十分に貯めたら、不登校の子ども達は学校に戻る前に社会のいろいろな組織や催し物に自分の意志で参加して、そこにいる大人達と上手に交われるようになります。大人社会の中で生きるすべを学んでいきます。強く生きる生き方を学んでいきます。大人社会で必要な社会性、ソーシャルスキルを身につけます。
 同年齢の子どもの集団(学校や塾、習い事を含めて)だけに加わっている子ども達は同年齢の子どもの集団の中での生き方を経験していきます。子ども同士の間のソーシャルスキルを学習します。それは決して子どもが大人社会の中に出ていって役立つ経験ではありません。今から50年以上前の子どもの集団と違って、現在の子ども集団の中にあるものは競争であり、競争に勝つことが優先されています。その結果としていじめる子ども、いじめられる子どもが出てきます。現在の子ども集団は、例外もあるでしょうが、多くの場合昔のように自然を相手に子ども達なりに子ども同士が助け合い協力し合って、楽しみ成長していく子ども社会でないです。
 現在の子ども社会は大人に支配された集団であり、そこには子どもらしさを発揮する余地は殆どありません。子どもらしさと指摘されているといわれている場合でも、多くの場合関係する大人が指示して与えていて、子ども独自のものではないです。子ども達は大人に支配された集団で楽しそうに過ごしていても、心の奥底では葛藤状態にあります。その結果弱い立場にある子どもをいじめることになります。強い立場にある子どもに対してすら、いじめる側の子ども達は集団を組んでいじめをしてしまいます。
 現実の子ども社会を利用して伸びていく子どもは、子ども社会を利用して伸びて行けばよいです。その場合も決して社会性を学んだわけではないです。子ども同士の競争に勝った子どもというだけです。社会性を学んでいないばかりか、他の子どもをけ落とす方法しか学んでいませんから、自分が競争に負けたときにはその挫折感はとても大きいです。心に大きな傷を受けてしまいます。競争に勝ち続けてきた子どもが他の子どもにけ落とされたときには、け落とされたときの回復法を知りませんから、自分の力で窮地から抜け出すことができません。心の傷の疼きに一生苦しむことになります。
 現在の子ども社会で心の傷を受けてその子どもの将来を失うぐらいなら、早めに子ども社会から逃げ出したほうが良いです。子ども社会での経験がないか少ない状態でも、十分に子どもは成長できます。その子どもなりに十分のエネルギーを持って大人社会と関わることで、大人になったときに必要な社会性を十分に得られます。それは子ども社会の中で生活していては決して得られないものです。子ども社会の経験を省略しても、子どもは十分に成長して大人になり社会に出て行けます。

不登校の理由は本人も「よく分からない」
 不登校(登校拒否)の原因として文部科学省は以下のようなものを上げています。
A.学生生活に起因する原因として、生徒や教師との人間関係といじめ
B.遊び、非行型の親の養育態度による原因として、親自身の教育観が問題。親が子どもを学校に行かせることをあきらめてしまっている。家庭が崩壊状態であり,子どもの面倒を見ない。悪い友人と他罰的な親が多い。
C.無気力型の登校拒否の父母による原因として、父母が自覚に乏しく祖父母任せである。保護者の接し方に工夫が欠ける。
D.情緒混乱型による原因として、父親は接触が少ない。母親は過干渉
E.その他の原因として、意図的拒否など
F.複合型とは、前記の原因が複合的に関与している
G.その他としては原因が全く分からない
 多くの大人や教師はこれらの問題点を解決して子どもが学校に行けるようにしようと考えています。「家庭訪問を行い,学業や生活面での相談に乗るなど様々な指導・援助を行った」,「登校を促すため,電話をかけたり迎えに行くなどした」などで1/4以上の不登校の子どもが学校に行けるようになったと報告されています。しかし実際にはこれらの問題点を解決しても、不登校問題を解決できない子どもが多いし、学校に行けるようになった子どもも又その後から不登校になって全く学校に行けなくなっています。
 これらの原因は不登校の子どもの例を寄せ集めて、その原因と思われるものを拾い出しただけです。原因と思われたものが原因でなかったのです。どうして原因でなかったかというと、不登校の子どもは不登校になる前に、他の理由で学校に行きづらくなっています。心の中は既に不登校状態になっていても、子どもは無理をして学校に行き続けていますから、周囲の人からは不登校状態だと判断されません。この状態を登校拒否と表現できると思います。
 不登校の子どもは心が不登校状態でも、無理をして学校に行き続けていましたが、何かあるきっかけを契機に学校に全く行けなくなる、周囲の人が不登校と気づくようになります。文部科学省のいっている原因は、教師や多くの大人が考えている不登校の原因は、この心が既に不登校状態の子どもが学校の辛さに耐えきれなくなって、実際に学校に行かなくなるときのきっかけの場合のようです。
 不登校の原因を知るには、不登校の子どもが学校に行こうとしないときの姿を素直に観察すると分かります。不登校の子どもに学校や学校に関するものを見せたり意識させたりすると、子どもは瞬間的に表情が変わりいろいろな症状を出してきます。まさに瞬間的ですから、その時子どもがいろいろと考えて反応しているのではないことが分かります。
 無意識に反応しています。反射的に反応していろいろな症状を出していることが分かります。この刺激に反射的に反応していろいろな症状を出すことを情動と言います。不登校とは学校や学校に関するもので生じる情動反応です。学校に対する一種の感情です。不登校の子どもは学校や学校に関するもので辛くなるという感情を植え付けられたのです。 
 情動は脳科学的に詳しく研究されています。それによると、情動はほぼ3,4歳ぐらいまでの間に完成して大人と同じように機能をしています。情動が完成してからの情動学習は条件反射という形でなされます。条件反射にはパブロフのイヌのような接近系の条件反射(嬉しいことで学習する条件反射)とお化けを怖がるような回避系の条件反射(辛いことで学習する条件反射)があります。不登校は回避系の条件反射に属しています。
 不登校を生じる回避系の条件反射を理解するには、辛さに慣れはなくて、辛さには相乗効果があるという事実を理解する必要があります。教師や多くの大人は、子どもに学校で辛いことがあっても我慢して学校に来続けていると、その辛さに慣れて辛くなくなると考えています。大人は辛いことがあっても、その辛さを自分の意志で調節して辛さを克服できます。けれど子どもはそれができません。それどころか子どもが辛い状況にあるとき、又別の辛い経験をしたときには、その時感じる辛さはその子どもが辛くないときに感じる辛さよりも遙かに強い辛さになっています。それだけ強く恐怖の条件刺激を学習してしまいます。
 不登校になった子どもは学校内で辛い経験(例えば先生の学級運営、先生に叱られること、友達からからかわれたりいじめを受けたりする)をしています。その辛さが解消されないうちに次の辛い経験をすることでより強く辛さを感じています。その辛さが解消しないうちに又次の辛い経験をすることでもっともっと強く辛さを感じるようになっています。そのような経験の積み重ね結果、不登校になった子どもは最終的に耐えきれないほどの辛さを感じて、子どもの周囲にある学校や学校に関するものに恐怖の条件刺激を学習しています。
 子どもが学校内で経験し続けた辛いこととは、教師や一般の大人、同級生から見たらとても些細なことで、とてもその経験で子どもが辛くなって苦しんだとは考えられない程度のものです。ですから不登校の子どもが学校で経験し続けた辛いことがあまりにも些細なことなので不登校の原因とは考えられません。けれど不登校になった子どもではその些細なことの積み重ねの結果、辛さの相乗効果からとても強く辛さを感じています。
 恐怖を生じる条件刺激を学習した子どもは、それでもその時までに身につけてきた習慣から無理をして学校に行き続けています。いわゆるよい子を演じ続けています。そして学校から感じる辛さの中で新たな学校内での辛い経験から、最終的に学校をどうにもできないぐらいに辛いと感じる条件刺激として学習して、それ以後学校を見ただけで、学校を意識しただけで、その時生じる恐怖を生じる条件反射から動けなくなり学校に行こうとしなくなります。子どもが学校に行こうとしなくなったとき、親や教師は初めて子どもが不登校であることに気づき、その不登校の原因として直前に起きた子どもにとって嫌なことを原因として考えるようになります。
 不登校は学校や学校に関するものを恐怖を生じる条件刺激として学習した、恐怖を生じる条件反射から生じています。どのような事件で恐怖を生じる条件刺激を学習したのかということに関係なく、学校内で子どもが辛くなった事件を経験したという事実から生じています。学校外で子どもが辛くなるような事件を経験しても、その子どもは不登校にはなりません。事件を経験したときに、学校や学校に関するものが側にないからです。
 子どもが不登校になった時点で、学校内で子どもを辛くした事件を解決しても、不登校の問題は解決しません。不登校の子どもの心にある学校や学校に関するもので恐怖を生じる条件反射をなくすると、子どもは学校に行けるようになります。不登校の子どもの心の中にある恐怖を生じる条件反射をなくさない限り不登校問題の解決はありません。
 不登校の子どもは学校内でいろいろな辛い経験をしたことを覚えています。しかしそれらの辛い経験を思い出しても、自分が学校に行けなくなるほど辛くはなりません。そして学校や学校に関するものを見たり意識するととても辛くなって学校に行けなくなってしまうことには気づいています。気づいていても、なぜ学校や学校に関するもので自分が辛くなるのか分かりません。それらの事実を子どもが言葉にすることはあまり無いです。それは言葉にして言っても、親や教師、その他の大人には理解して貰えないからです。
不登校の子どもは繊細で過敏
 不登校になった子どもは、親や教師がそのこの不登校に気づいた時点では、繊細で過敏である場合が多いです。しかしその子どもがもっと幼かったときにはとても明るくておおらかであった場合が多いです。つまり学校に通っている間に性格の変化を来してきています。この性格の変化に気づく前に、その子どもは学校内で辛い経験を始めています。
 明るくて元気でおおらかな子どもが学校内で辛い経験を始めると、程度は未だ弱いですが、学校に対して恐怖を生じる条件刺激を学習します。学校に対して恐怖を生じる条件刺激を学習した子どもは、学校にいるだけで程度は未だ弱いですが、辛くなります。その辛さを回避するために、子どもはよい子を演じている場合が多いです。子どもがよい子を演じていると、親や教師はとても良い子どもだ、しっかりしていると理解して、子どもが学校内で辛い思いをしていることに気づきません。
 学校で辛くなる子どもは学校にいるだけで辛くなります。辛いと新たな辛い刺激に敏感になっています。新たな辛い刺激で他の子どもにないような大きな辛さを感じてしまいます。そのような子どもの姿を親や教師、他の大人達は、その子どもがとてもよい子だけれど、とても繊細で過敏であると理解するようになります。
 不登校の子どもが不登校になる前に繊細で過敏だったと理解したときには、その子どもは既に心の中では不登校になっていたのです。登校拒否の状態だったのです。学校から受ける辛さに無理をして耐えて、学校に行き続けていた姿なのです。既に心が不登校になっていた子どもを観察して、不登校の子どもは繊細で過敏だと判断しても、それは不登校の結果から不登校の子どもの性格を理解しただけに過ぎません。

”親につぶされて”不登校に陥る子ども達
 親の過干渉や教育ママぶりが子どもを不登校にすると考えている人が多いと思います。逆に親がろくに子どもの面倒をみないために、子どもが進路を誤って不登校になると言う人もいます。それはその親と子どもとを表面的にみた大人の判断です。子どもの心の中はそのように大人の考えるような簡単なものではないです。
 親の過干渉や教育ママぶりが子どもの内的な欲求と合致していれば、子どもはどんどんその能力を伸ばして行きます。すばらしい能力の大人になって社会に出て行けます。しかし多くの場合、親の過干渉や教育ママぶりが子どもの内的な欲求と合致していない場合が多いです。その場合には子どもは辛くなり、最初は親に対してよい子を演じてしまいます。よい子を演じきれなくなったときに、親に向かって暴力を振るったり(いわゆる反発して暴れたり)問題行動を起こしてしまいます。又はいろいろな病的症状を出すようになります。
 この親の過干渉や教育ママぶりが子ども追い込んで、子どもがよい子を演じきれなくなって、子どもが暴れたり問題行動を起こしたり、病気の症状を出すようになった姿が”親につぶされて”という姿です。この”親につぶされて”という子どもの姿と、その子どもの不登校とは直接関係がありません。もし学校が本当に子どもにとって楽しいところなら、”親につぶされて”と表現される子どもは喜んで学校に行きます。場合によっては学校から家に帰りたくないと言い出す場合もあります。
 現実の学校は子ども達にとって楽しいところではない場合が多いです。親の過干渉や教育ママぶりで既に辛い状態の子どもは、学校での辛さに過敏に反応します。他の子どもでは何でもないようなことに過敏に反応して辛くなり、学校や学校に関するもので辛くなる条件刺激を学習してしまいます。それ以後学校や学校に関するもので条件反射を生じて辛くなり、不登校になってしまいます。他の子どもより不登校になりやすいです。親の過干渉や教育ママぶりが子どもを不登校にさせやすいですが、それでも子どもを不登校にしたのは学校内のその子どもにとって辛い事件です。決して親の過干渉や教育ママぶりではないです。 

不登校を「心の病気」として正当化
 不登校の子ども(小、中、高校年齢)は学校内でいろいろな辛い経験を繰り返した結果、学校や学校に関するものを見たり意識すると反射的に辛くなるようになっています。いろいろな病気の症状を出すようになっています。その辛さや病気の症状を生じる心の反応は潜在意識の領域で行われていますから、子ども自身はなぜ自分が辛くなり病気の症状を出すのか理解できません。
 その子どもから親やその他の大人がいろいろな事を聞きただして、なぜ子どもが学校に行けないのか、なぜ辛い症状を出しているのか、その原因を見つけようとしています。しかしはっきりとした原因を見つけられません。もしその原因を見つけられたと親や大人が思って不登校の子どもに対応をしても、子どもの不登校問題は一向に良くなりません。親や大人が子どもの不登校問題の原因と考えたことが、原因でない場合が多いからです。そこで多くの親は子どもが病気ではないかと思い、子どもを病院に連れて行きます。
 医者(殆ど全ての医者は子どもがなぜ不登校になったのかその心の仕組みを知りません)は子どもが出している症状から、子どもが病気だと診断します。子どもが客観的に病気だという証拠はどこにもありません。医者に子どもが病気だと言われると、子どもが病気だからいろいろな病気の症状を出して学校に行けないと親は納得します。今までの親の対応で効果が得られなかったのは病気のためだったと理解します。親は安心して子どもに学校を休ませることができます。一生懸命子どもに薬を飲ませて、一日も早く学校に行かせようとします。
 子どもは医者から病気だと言われても、自分が辛いことに変わりがありません。病気として受ける対応でより辛くなる子どもは、病気としての対応を拒否してしまいます。病気として対応を受けると楽になる(薬の効果が子どもを楽にした場合、親の対応が優しくなったので子どもが楽になった場合)子どもは、自分は病気だと納得して病気としての対応を受け入れてしまいます。
 親は誰でも行く学校に、自分の子どもが行けない事実をとても辛く感じます。法律的に行かさなければならない学校(小、中学校)に自分の子どもが行けないのは、自分の子育てが間違っていたと考えてしまい、余計辛くなっています。子どもを学校に行かそうとする対応で子どもがますます辛くなり、暴れたり病気の症状を強めていく現実をとても耐えられません。
 しかし子どもが病気だったら子どもが学校に行こうとしないで、いろいろな病気の症状を出す現実を親は納得できて許せます。今まで子どもの不登校問題で苦しんできた親自身がとても楽になります。病気なら子どもが学校に行けないのは当たり前であり、親としての子育てに疑問を感じたり、親自身を責める必要が無くなります。子どもの病気を治しさえすれば親の義務が果たせると考えます。その結果親は子どもを一生懸命病院に連れて行き、薬を飲ませようとします。
 多くの不登校の子どもは、自分が学校に行こうとすることで辛くなることをよく知っています。薬を飲んでも学校で辛くなることに変わりがありません。すぐに薬を飲もうとしなくなります。けれど子どもの中には薬を飲むことで楽になり、以後薬を飲むことを希望するようになる子どもも出てきます。そのような子どもは薬で自分の辛さが解決すると信じるようになり、医者が言う病気であることも信じてしまいます。
 長い年月不登校問題や自分の病気のような症状に苦しんでいる子どもでは、その涌き上がってくる辛さに耐えきれなくなっています。薬を飲めばその辛さから逃れられると判断した子どもは自分から進んで薬を飲もうとします。原因の分からない自分の辛さを病気だと思えば子ども自身も納得できる場合があります。親から薬を飲んで欲しいという要求を受け入れることで親からの責めが少なくなり楽になった子どもは、親の希望に添って薬を飲み続けます。
 薬が効かなくても親からの責め(不登校の子どもが辛い状態にあることを悪いことだと責める)を避けるために薬を飲み続けることで、薬を飲み続けることの習慣ができます。親からの責めがなくても、無意識に、時間的に薬を飲もうとしますし、薬を飲まないととても不安になります。不登校であることの不安に、薬を飲む習慣がとぎれる不安が重なってとても辛くなります。どうしても薬を止められなくなります。
 一度薬を飲む習慣が付きますと、薬を休むことができなくなります。不登校の子どもは不登校であると言うことだけで不安を生じやすいところに、習慣化していることを止めることの不安(一種の葛藤状態)が重責してとても辛くなるからです。つまり薬を飲む習慣が付いた子どもは薬を止められないという理由からも、自分は病気であると認識するようになります。
 一度自分を病気だと信じ込んだ子どもの病識を取り除くことは大変に難しいです。病気だと信じ込んだ不登校の子どもは、病気を治すことに一生懸命でも、子どもを辛くする刺激から逃げ出すことを考えません。子どもが気づかなくても子どもが辛くなる刺激にさらされ続けていますからとても辛い状態にあります。それを薬を飲むことで、薬を飲むことで治ると信じ込んで、楽になろうと一生懸命薬を飲み続けています。そのような子どもに「君は病気でないから、薬を飲んでも意味がない」と言っても、とても受け入れてくれません。

 現在の医学では、精神疾患(精神疾患の存在は医者の誤解です)は治らないと信じられています。幾ら症状が無くなって元気になっても、それは精神疾患が緩解したと考えられるだけで、治ったとは考えられていません。つまり一度精神疾患の診断がつくと一生その診断がつきまといます。その後の子どもの一生は障害者として扱われます。子ども自身も自分を障害者として信じ込んでしまいます。それはその子どもの可能性を奪ってしまうものです。本当に悲しいことです。

週刊新潮7月3日号 全国15万人「不登校の真実」 新藤由起著作 からの抜粋
 一般に、子供が「学校へ行けない」事態は、自身が心理的に辛い状態なのを最も身近な大人〜親や教師へ「気付いて欲しい」サインでもある。傷ついた心の回復抜きに、形骸的な登校を強いても抜本的解決にはほど遠い。先の赤沼氏が言う。「大人と違い、子供は自身で成長しようとする生命力に溢れています。例えどんなに嫌なことがあっても、それを上回る楽しみや喜びがあれば、強制せずとも自ら学校へ向かう。傷さえ癒えれば、本能で子供の集団を求めていく。子供は本来、同世代の子供と交わるのが何より好きだからです」
 現在、これほど不登校が増加しているのは、子供が心を解放して”一息付ける場所”を失ったことにも関係が深いと同氏は続ける。「寄り道して探検したり、親に内緒で秘密基地を作ったりと、かつての子供なら誰もが自然の中で、自分の傷を癒せる場所を持っていた。これは心の自然治癒力を高めるのに非常に有効で、日々のうっぷん晴らしが出来なければ、一杯になるまで耐え抜いて、やがて潰れるだけ。過度な管理と干渉は、事件から命を守れる一方で、子供の心を殺す側面もあるのです」
「近頃の子供は弱くなった」と嘆くのは容易いが、その環境を築くいてきたのは我々大人であるのを忘れてはならない。

 豊かな時代だからこそ、ストレスに弱くなる」と断言する。
「生まれたときから豊富な物資に囲まれて育った子供にとって、「あって当然のもの」が何か一つでも欠けることで受けるストレスは、「無くて当然」で育った大人世代には想像が及ばないほど凄まじいもの。現代人が僅かな時間の停電や断水にも膨大なストレスを受けるのと同じ道理です」
 「給食にお菓子とジュースが付いてこない」と登校苦痛を訴える六歳児にたいして、「どんでもない!」 と驚愕する前に、「あるのが当たり前」で育ってきた生い立ちを顧みる必要がある。
 とはいえ、子供が上げる不登校の”理由”を「言葉通りに鵜呑みにするのはキケン とも同士は助言する。「「何か嫌だ」という感情を、その子がともとも表現しやすい、あるいは周囲に一番理解されやすい内容で語る場合が多いからです。中には大人の誘導尋問に促されるまま「これが原因だ」とうなずかざるを得ない状況もある。語彙も乏しい子供が、低年齢ほど心内を上手に説明できるはずがないのをまず踏まえるべきです。

自分の意思からの行動2008/8/28
 ここでいうの自分の意思とは、大人と同じようにいろいろと考えて表現するという意味ではありません。その時の子どもの感情に正直に子どもが行動するという意味です。辛いときには子どもはその辛い場所から逃げようとしますし、楽しければますますその楽しさを求めて発展させようとする子どもの心の反応の仕方です。
 子ども同士の生活の中で、子どもと大人との生活の中で、辛い経験をする子どもは必ず出てきます。しかし辛くなった子どもはなぜ自分が辛くなったのか分かりません。何か分からないけれど、ともかく辛いという状態です。また、親から受け入れられない要求をされたときも子どもは辛くなります。
 辛さとは潜在意識の反応症状であり、体中に表出されてくるものであり、子どもはその辛さを言葉で正確に表現できません。言葉で表現できたときでも、その表現の多くは親や大人の言葉の受け売りであり、即ちこのような状況ではこのように言葉で表現すべきだという過去の経験から言葉を発しているのであり、決して自分の辛さを分析してその辛さを表現するのに最適な言葉で表現したのではないです。
 しかし辛いとか楽だとか子どもは言葉に正しく表現できなくても、子供は自分の感情を感じ取ります。子供は辛いところから逃げ出し、楽になればその子どもらしく成長しようとします。母親だけは子どもが辛いか楽か、その状態だけは理解できます。しかしどれだけ辛いか、辛いときどうしたら楽になるのか、それは分かりません。子ども自身は辛いところから逃げ出してみて、自分が楽になったら逃げ出すのを止められます。母親にはどこに逃げさせてあげたらよいのか、そこまでは分かりません。子どもが自分の意思で逃げ出してみて、子どもが楽になった姿から、逃げ出した所が良かったと母親には分かります。
 つまり子どもが辛いと、いつどこへどのようにして逃げるのか、子どもが試行錯誤する必要があります。それには子どもが自分の感情に素直に反応して行動することが大切です。自分の意思で行動することが大切です。親が子供を守ろうとして、親の考えから子供に指示して子どもを動かしたときには、たとえその指示からの行動で子供が辛さから守られても、その子供の経験は子供の知識として役立ちません。
 それどころか多くの場合、親の考え方からの指示は間違っています。乳幼児期は別として、親は子供のことを良く知っている積もりでも、実際は子供のごく一部しか知らないからです。この間違った指示を受けて子供の辛さが解決しなくても、子どもはよい子を演じて、親の指示で辛さが解消したように演じてしまいます。親としては子供に良かれとしたこと、結果として良かったと思えたことで、子どもはその見かけとは異なって辛さに苦しみ続けています。親からは子どもが辛くなっている問題が見えなくなってしまいます。
 子どもが自分の自発的な行動(=自分の感情に素直に行動)した結果を、その試行錯誤を親は認め続けて、結果的に子どもが楽になった場所に子どもを保護して守ってあげればよいです。そうすれば子どもは子どもの本能から子どもの周囲に順応して、その子どもなりに一番良い成長の仕方をします。この本能は全ての子どもが持っています。親はその本能の芽をもぎ取らないようにすればよいです。
 現在の多くの親や祖父母が経験していることですが、今よりも貧しかった時代の子どもは、自然の中でその子どもなり過ごしたり、親から些細な物を貰うことで、何か分からない子供の辛さを癒すに十分でした。子どもの意志を尊重しなくても、子どもが経験した辛かったことや、親からの要求や押しつけから生じる辛さを癒し解消することが出来ました。
 現在の子どもには自然の中で辛い心を癒すことが出来ません。例え自然の中に出て行けたとしてもやはり大人に管理されていて、子どもなりの癒しを自然の中に求めることができません。物質的に恵まれている状態の子どもですから、親から何かを貰えても、その貰えた物で子どもの辛い心を十分に癒すことは出来ません。子どもが恵まれた環境にあればあるほど、子どもは自分の意思から行動をする必要があり、それが子どもの心を守る一番早くて確実な方法です。
 楽しく成長をしている子どもについても同様のことが言えます。ただし癒しの要素はなくなります。楽しいかどうかは子どもの体の中に表現されます。言葉に表現するのは不可能です。子どもがその楽しさを言葉にしたときには、それは子どもが親や大人の言葉を受け売りしているだけです。又その受け売りが子どもの言語表現を増やしていくことも事実です。
 親が与えた楽しさは、子どもには必ずしも楽しいとは限りません。場合によっては辛い場合もあります。楽しくなくても、辛くても、子どもは親に向かってよい子を演じて、楽しそうに振る舞います。親は子どものためによいことをした、親の対応は間違っていないと判断します。それは子どもの子どもなりの成長の芽をつみ取ってしまうことになります。子どもは楽しければ、与えられた環境に順応して、その子どもなりに楽しさを発展させて、どんどん能力を伸ばしていきます。子どもが求めてきた要求だけに親は答えてあげればよいです。それはますます子どもの能力を伸ばすことになるからです。

子どもたちの生きづらさはどこから来るか2008/9/8
 ある講演会である大学教授が「子どもたちは、学校でも大変ですが、もっと大変なのは消費社会です」と述べました。テレビや雑誌からの情報に振り回される子どもたちの姿を指摘していました。情報に振り回されるから、子どもたちが辛くなると言っていました。
 子どもたちは自分の周囲にある物を、その子どもなりに上手に使って成長をしています。それは情報についても同じです。子どもたちはその子どもなりに上手に情報を利用して成長しています。けれどなぜ情報に振り回される子どもが出てくるのか、その部分の分析がこの講演ではなされていません。この講演では、情報があれば子どもはその情報に振り回されるものだとの前提で話されていました。
 子どもたちが現在の管理された学校では大変だという事実があります。管理、管理で、子どもたちは窒息しそうになっています。子どもたちが自分たちの子どもらしさを放棄して、親の、教師のロボット化しなければならない事実は、子どもにとって子どもとしての成長をやめろと言われるのと同じです。多くの子どもたちはそれでも耐えていますが、一部の子どもたちは、体は生きていても、心を殺してしまっています。そのような子どもたちにとって、学校が心の屠殺場になっています。親や教師や大人たちからはそのようには見えないけれど、一部の子どもたちには学校がとても辛い所になっています。
 辛さの程度に差があっても、子どもたちの辛い心を、学校の中で、学校の外で、子どもたちは癒して、また翌日学校に来て、その子どもなりに一生懸命成長を続けています。けれど辛さの程度が著しくて、学校の中で、学校の外で、その辛い心を十分に癒せなかった子どもが出てきます。そのような子どもたちが身の回りに有り余る情報を利用して、他の子どもたちと遊びに没頭することで、辛い自分たちの心を癒そうとします。そのような子どもたちの姿が、今の大人たちには情報に振り回される子どもの姿として映っています。そして時にはその子どもたちの遊びが他の子どもをいじめるようになる場合があります。

文化情報は辛い子どもの心を癒している
 子どもたちはテレビやネットから、有り余る情報を得ています。この有り余る情報が子どもたちを弱くしていると指摘する人たちがいますが、必ずしも子どもたちを弱くしているとは限りません。確かにこの有り余る情報を利用して、犯罪行動に走る子どもがいます。また一方でこの有り余る情報を子どもから突然取り上げると、子どもは辛くなってしまいます。子どもがこの有り余る情報から見つけて使っている物を、大人から見て必要ないという理由で突然取り上げると、子どもは葛藤状態になり、より辛くなります。
 現在の多くの子どもは有り余る情報から自分に都合の良い情報を選んで、その子どもなりに利用しています。その利用の仕方が、その利用する物がその子どもなりであり、今の大人の思いと異なっています。大人は子どもがその子どもなりに情報を利用する意味を理解していませんから、子どもが親の思いと違った形で情報を利用する姿を、良いとは考えないようです。否定的に見ています。
 昔の子どもと違って現在の子どもは、大人には理解できないストレス刺激にさらされ続けています。大人には理解できないけれど、辛くなった子どもは有り余る情報の中から自分に都合の良い情報を取りだして、その子どもなりに辛い心を癒すのに用いています。
 子どもが辛ければ辛いほど、自分の辛い心を癒そうとして有り余る情報から自分の辛い心を癒すのにちょうど良い情報を見つけようとします。自分の辛い心を癒すのに適当な情報を見つけて、その見つけた楽しみにふけったり、大人に向かって今自分がどれだけ辛いのかを訴えるための情報を見つけて、大人がびっくりして顔を背けるような問題行動をしてしまいます。
 大人が希望する姿とは違う子どもの姿を大人が見て、子どもには有り余る情報が害になると考えるようになります。大人は有り余る情報が子どもをだめにして辛くしていると考えやすいです。子どもの心とは逆な感じ方、原因と結果を取り違えた考え方をしています。
有り余る情報を作っているのは大人です。子どもに好ましくない情報を作っているのも大人です。子どもは有り余る情報から、その子どもにとって好ましい情報を見つけて利用しているだけです。元気でどんどん能力を伸ばしている子どもは、大人から見て好ましくない情報を用いようとはしません。自分の能力を伸ばす情報を探して利用しようとします。
 元気そうに見えても、大人から見て好ましくない情報を選んで利用しようとする子どもは、その見かけと違って心は辛い状態なのです。子どもが見つけた、大人から見て好ましくない情報を子どもから取り上げるのでは、ますます子どもの心を辛くします。子どもの心を辛くしている物を取り除くか、大人から見て好ましくない情報から得られる物以上の喜びを、親は子どもに与えてあげる必要があります。そうすることにより、子どもは自分から大人が好ましくないと思う情報を利用しようとはしなくなります。

やる気を起こさせる2008/10/9
 あくまでも現在の試験の点数や、教師の主観から、子どもが評価されている場合です。子どもについての話です。芸術などの、点数で評価できない物については当てはまりません。
 「子どもにやる気を起こさせる」が今の小学校、中学校教育に不足している重要な問題点の一つです。親も教師も子どもがテストで取った点数ばかりに注目して、その点数を取った子どもの心に全く注目していません。今テストで良い点数を取っても、将来子どもの知識が伸びなければ何もなにもなりません。今テストの点数が悪くても、将来知識が伸びて高い点数が取れた方が、その子どもにとってずっと意味があります。現在の社会通念には、今テストでよい点を取ったら、将来もっとテストでよい点を取れるようになるという誤解があります。
 現在の高校や大学で、勉強をする気のない子どもの多い事実があります。小学校や中学校で身に付けているはずの学力が身に付いていない子どもが多くなっていると指摘されています。それはテストの点数でだけ子どもが評価されているという現実から、子どもがその場しのぎの勉強しかして来なかったからです。子どもに勉強をしたいという気持が湧いてこないことが原因の一つです。
 現在の学校教育のあり方は、多くの子どもに与えられた状況に対してその場しのぎをして、うまく順応して生きる伸びる方法を身につけさせています。子どもが成長して社会に出て、会社の一つの歯車として生きるのには十分なようです。今の日本では一部の競争に勝ち抜いたエリートが社会をリードしています。多くの歯車を形成する人が日本社会の経済的な繁栄を維持しています。競争に耐えきれなかった人が辛い毎日を過ごす結果になっています。場合によっては社会問題を生じるようになっています。
 子どものやる気はテストで取った点数では分かりません。子どもの中には既にやる気を持って小学校、中学校に通っている子どもがいます。多くの子どもについて、そのやる気を延ばすには、子ども一人一人の心を子どもの立場から見つめる必要があります。親や教師は一人一人の子どもの思いを、その子どもの心に沿って聞き、その子どもが興味を持っていることを利用して、興味を伸ばし、やる気を高めてあげる必要があります。
 一部の学校では教師が子どもに興味を持たせるような授業の仕方を研究し、試しています。それは今の授業とは格段に子どもに沿った授業のあり方です。今の学校教育を大きく変える授業の仕方です。多くの子どもを勉強に興味を持たせるのに良い授業法です。しかしそれでもまだ、子どもが興味を持つように教師が働きかける授業の仕方ですら受け入れられなくて、授業について行けなくて、勉強に興味を失っていく子供がいます。子どもが持っている興味から勉強を発展させてあげる必要のある子どもです。
 子どもの心に沿った教育とは、教室で子どもをひとまとめに教育しようとしてもできないことです。決して教師の教えた経験量やテクニックでもないです。教師が一人一人の子どもを、その子どもの心に沿って理解しようとする教師の意欲です。この教師の意欲は現在の学校では全く要求されていません。実現しようともしていません。現在の教師も、子どもにテストでどれだけ良い点数を取らせたかで評価されているからです。

前記の「子どもが成長して社会に出て、会社の一つの歯車として生きるのには十分なようです」は、一般の社会で一生懸命働いている人を否定していると、多くの大人は感じるでしょう。勿論大人がこのようにして働くから、日本社会が成立していて、とても大切なことであることは間違いありません。大人がこのようにして働くから、家庭も安定して維持できています。働いている大人も、プライドを持って会社を運営する一つの役割を必死で担ってきています。大人は自分の意思で、子どもが歯車と表現する立場に納得できるようになれるのです。

 ところが受験戦争で辛い思いをしている子ども達、勉強などの競争で辛い思いをしている子ども達は、会社のために、生活のために、身を粉にして働いている大人を批判的に見ています。学校で辛い思いをしている子どもは、自分を辛くする物を許せないのです。親や学校から要求される学業。興味もなく、やる気もなく、それでいてやらないと尻をたたかれる。子どもはその辛さに耐えながら、与えられた物をこなしていきます。このように苦しみながら成長していって、その先に見える物は大人社会の歯車になっている自分です。今の子どもの辛さが延々と続くと理解してしまうのです。
 子どもは子どものしての本能、自然にわき出すエネルギーに富んでいます。同じ事の繰り返しや、辛いことから逃げ出すしか、自分の心を維持できません。歯車になるのは嫌だ、自分らしく生きたい。自分らしく生きようとしても許されない。唯一許されることは、大人の掌の中で、そこからはみ出さないようにするだけです。歯車となる大人の生活が刻々と近づいてくる。そうしたときに、子どもは自分の思いを捨てて、大人の要求に添うようにしか生きる方法がないと、諦めるしか生きる生き方を見つけられないです。自然にわき出すエネルギーをその辛さに耐えるためにしか使えないです。辛さに耐えるためにエネルギーを使い尽くしてしまいます。
 大人の思うように生きてくれる子ども、よい子を演じ続けてくれる子どもは、大人にとってとてもありがたいです。一番ありがたいのは為政者や企業の経営者、親でしょう。節度を守って為政者や経営者、親の思うように人々が動いてくれるから良い国民と評価されます。良い子どもと評価されます。その評価と裏腹に、子どもは陰で何か辛さを解消する物を捜しています。
 勉強が好きだと子どもが言った場合、子どもは勉強が好きだと言わされている場合がほとんど全てです。親が子どもに勉強をさせようとするので、その親にいわゆる”よい子”を演じている場合が多いです。子どもの中には音楽が好きだ、理科が好きだ、社会が好きだという子どももいますが、それも他の科目よりそれらの科目が好きだという意味であり、友達と遊んだり、ゲームを見たり、テレビやビデオを見るより好きだという意味ではないです。子どもの方から進んで勉強をすることは基本的にないです。
 一見子どもの方から勉強をしているように見えても、それは子どもが好きこのんで勉強をしているのではないです。勉強をしない後親が叱るから、勉強をしておかないと教師に叱られるから、受験に合格しないと親が叱るからなどと、何か子どもを勉強に追いやる力が働いています。本当はテレビを見たい、ゲームをしたい、遊びたいという思いを我慢して、机に向かって勉強をしています。勉強自体がゲームやテレビや漫画よりも楽しいから、勉強をするという子どもは皆無に近いです。
 それでも、勉強をすると親が喜ぶ、勉強した後にテレビを見られる、ゲームができる、漫画を読めるなどと、勉強したことについての代償が得られる場合には、子どもは勉強に興味を失わないですることができます。場合によっては勉強をすることが習慣化してくる可能性もあります。
 子どもに勉強のやる気を起こさせるとは、子どもが勉強の必要性を感じたときに、勉強をし始めるのでよいです。学力の遅れがあると、いざ勉強をしたくなっても勉強ができないと心配する親がいます。それは間違いです。子どもは勉強をしたくなったら、何かある目的を持ったために勉強をする必要を感じたときには、勉強の遅れなど問題にしません。勉強の遅れは短時間に取り戻して、勉強をどんどん進めて、勉強の実力を付けていきます。
 多くの大人には同意できないことでしょうが、子どもの立場から言うなら、小学生、中学生時代には、試験の点数でなくて、その子どもが打ち込める何かが必要です。子どもに何かしたい物を見つけさせてあげることが大切です。その何にもましてしたい物がある子どもは、必要に応じて必要な勉強を自分の方から効率よくしてくれるからです。今の学校はこれを認めようとしていません。学校のあり方に合わせてくれる子どもを良い子どもとして尊重して、学校に合わない子どもを無理矢理に学校に合わせようとします。それでも学校に合わない子どもは問題児として、矯正しようとします。

心が辛い子どもが話す話の聞き方2008/10/20
 心が辛い状態の子どもは、自分の辛さを信頼する大人に話して、少しでも楽になろうとします。しかし話を聞こうとする大人が子どもを責めて、かえって子どもを辛くするようだと、子どもは大人を信頼しなくなり、話をしなくなります。心が辛い状態の子どもが自分の心の内を話してくれないという事実を、大人は子どもに問題があると考えがちです。心が辛い状態の子どもがその辛さを話さないのは、子どもの話を聞こうとする大人の話の聴き方に問題があります。
 大人は心が辛い子どもが話す話を、子どもの方で話を止めるまで聞き続けなければなりません。子どもは話したいから話しています。子どもが話したいという意志を、大人は尊重する必要があります。大人の都合で子どもが話すのを止めさせると、子どもの話したいという欲求は満たされません。それは子どもが大人を信頼しなくなります。子どもはそれ以上、大人に自分の心の内を話さなくなります。
 大人は決して心が辛い子どもから、話を聞き出そうとしてはいけません。子どもから話を聞き出そうとすると、子どもは大人に対して身構えてしまい、よい子を演じてしまいます。子どもが本当に話したいことを話せません。大人は子どもが話したいことを、ただただ聞き続けることが大切です。
 話を聞いているとき、大人は子どもの話を聞いているというサインを送る必要があります。子どもの話を聞いているという態度が必要です。しっかりと子どもの目を見て、ひたすら聞き続けます。子どもの話には、自然な形で相づちを打ってあげる必要があります。決して子どもの話を遮ってはいけません。しかし聞きそびれたり、理解できない言葉を使ったときには質問をしても良いです。
 子どもが話すのを止めたときには、話を止めたという事実を尊重してあげてください。子どもが何も話さないという時間と事実を大切にしてください。沈黙の時間を大切にしてください。子どもが次に話し出すまでじっと待ってあげると良いです。子どもの沈黙の時間とは、子どもが話したいことをまとめている時間か、話を聞いている大人に話したくないときです。子どもは自分の思いがまとまったら話を再開してくれるでしょう。子どもは話したくなかったらいつまでたっても話さないでしょう。子どもが信頼できなくて、話したくない大人なら、いくら子どもから話を聞こうとしても、子どもは話をしてくれません。大人は話を聞くことをあきらめるべきです。
 聞き手の大人から発する言葉は、ききそびれた時に聞き直す言葉と、理解できない言葉の説明を求める言葉が可能です。子どもが辛さを表現したときに、大人は共感の言葉を加えると良いです。また、子どもがその子どもなりに重要な言葉を発したときには、その言葉をオーム返しに繰り返してあげるのも良い方法です。
 子どもが質問をしたときには、その質問の範囲で、大人は「私はこう思う」という形で答える必要があります。答えられないときには「わからない」と答える必要があります。それ以上のことは言わないでください。子どもの話を分析し、解説してはいけません。分析や解説は聞き手の大人の思いを押しつけることになるからです。まず子どもなりの理解を認めて、その子どもなりに考え方をまとめさせてあげる必要があります。

子どもを外見で評価する
 神奈川県立神田高校で、髪型、ピアス、服装などの外見から入学合否を決定していたというニュースが新聞で報道されました。教育は先生方が子ども達から信頼されて成立します。子ども達からの信頼を裏切るようなこの種の学校側のあり方では、子ども達は学校での教育を受ける気持ちになりません。多くの生徒は不信感を押しこらえて、高校卒業という学歴を得るために、勉強したいと思うこともなく、只単にこの高校を通過していくだけでしょう。
 このニュースと同じように私を驚かせたのは、神奈川県の教育委員会に送られてきた120通の電話とメールの内容です。「学校のやり方に賛同する電話やメールが目立った。子どもの立場を認めようとする意見は少数だった」と報道されています。これらの意見が日本国民の意見を代表していると言えませんが、多くの大人が子どもの方に問題と考えるから、学校側の対応を認めようとする大人が多いと推測されます。
 髪型で、ピアスで、スカートの丈で、子どもを評価する問題点は既に間違っていることは議論され尽くされていると思います。それでもまだ子どもの心を見ないで、子どもの外見だけで子どもを評価しようとする教育者がいるのに驚きます。子ども達はいろいろな形で自分を表現しています。その中には髪型で、ピアスで、スカートの丈で、自分を主張している子どもがいます。それが教師の捕らわれた見方に反しているから、問題だと考えるのが教育者として間違っています。子ども達は自分たちのあり方が認められたら本当に優しいです。子どもの心に余裕が出来たら、自分の主張を止めて、教師の希望に合わせてくれるようになります。
 子どもが認めてくれと自己主張をしている姿を、教師の捕らわれた見方から否定して、教師の見方を矯正しようとする(学校では生活指導、又は生徒指導と表現している)と、子どもはますます辛くなります。自己主張を強めて、生活指導に反発してきます。教師は生活指導が難しくなると感じます。生活指導が難しくなるのは、子どもに問題があるのではないです。子どもを信頼しないで、教師の捕らわれた見方を矯正する教師に問題があります。この高校のように、生活指導が難しい子どもは拒否をするという教育のあり方は、学校として失格です。公教育は教育をする教師の立場から考えるのではなくて、教育を受ける子どもの立場から考えるべきです。 

子どもの同意2008/11/11
 ある親の会で、引きこもりの子どもを持つ親の話が出ました。その親は子どもが引きこもっている状態を解決するために、子どもをある引きこもりを解決する会に預けようとしました。この親の方針を子どもに説明すると子どもは激しく抵抗しました。「行きたくない」と言い続け、暴れました。そこでその引きこもりを解決する会のスタッフが4時間以上かけて延々と説得して、なだめたり、脅したりして、子どもに「うん」と言わせました。それ以来二年がたっていますが、子どもは引きこもりを解決する会で寝泊まりして、自立のための訓練を受け続けていると報告していました。
 子どもを力ずくで、無理矢理に家から引き出して会に預けることは、その後にとても大きな問題を残すことを親は知っていました。そこで親は子どもに十分に説得して納得したから、子どもを引きこもりを解決する会に預けたのは良かったと言っています。子どもは引きこもりを解決する会のスケジュールに沿って、社会復帰の訓練を受けていると言っています。

 親は子どもが納得して引きこもりを解決する会に入所したと考えていますが、子どもは本当に納得したのでしょうか?それは違うと思います。確かに子どもは「うん」と言葉にしています。親としては子どもが「うん」と言ったこと、子どもが引きこもりを解決する会のスタッフと一緒に出かけて、訓練を受けているから、子どもが納得したと考えています。しかし子どもの方では、説得に耐えられなくて、やむを得ず「うん」と言ったのです。やむを得ず親の言うとおりに行動して、引きこもりを解決する会に入所せざるを得なかったのです。
 子どもは家に引きこもって、辛い子どもの心を癒して、元気になりたかったのです。子どもは引きこもりを親に認めて貰って、親に支えられて、元気になろうとしていたのです。その子どもらしい生き方を親に否定されて、引きこもりを解決する会に預けられたということは、子どもは親に二重に否定されたこと理解します。ですから引きこもりを解決する会に入所するときには、子どもにはとても辛かったから、子どもは激しく抵抗しました。そして根負けして、親やスタッフの言うことに従わざるを得なかったのです。子どもが生きていくためには仕方がなかったのです。
入所当時の子どもの本心も、現在の子どもの本心も、きっと親に対して激しい怒りを感じていると思います。親は子どものために良かれと思ってしたことですが、子どもは親が親の都合を優先して、子どもを見捨てたと感じていると思います。今は生きていくためによい子を演じながら、引きこもりを解決する会の方針に従って行動し耐え続けていますが、その内にいろいろな問題行動を起こすようになるか、病気の症状を出すようになるか、又は自分の心を殺したロボット的な人間になってしまう可能性が高いです。


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