子どものありのままを認める

 子どもは自分の持っているエネルギーを精一杯用いて活動をして、自分の能力を高めようとして、心身共に成長しています。それは大人にない、子ども特有の本能です。子どもが元気で生き生きと成長しているときには、子どもは自分の持っているエネルギーから、色々な物に挑戦して、その子どもなりの経験と知識を身につけて、とても力強い大人になっていきます。多くの大人はこのような元気な子どもの姿を、全ての子どもに共通だと考えて、全ての子どもに要求してきます。

 心が辛い状態の子どもは家に引きこもりがちになり、ゲームやテレビ、漫画など、大人から見たら快楽的な物に耽ります。心が辛い状態の子どもでは、このような子どもの姿で精一杯なのです。これ以上を望まれても、子どもはそれ以上の自分からの自発的な活動ができないのです。

 では例えば、不登校の子どもに学校に行けと言ったとき、子どもが学校に行けるから、精一杯ではないと大人は考えますが、子どもは回避行動として学校に行ったのであり、自分のエネルギーから学校に行ったのではありません。子どもは無理をして学校に行きました。無理をしようとしても親の言うことに従えないとき、子どもは荒れたり、病気の症状を出して、ますます。心がより辛くなっています。子どもの心の問題の解決が遅くなります。

 心が辛い状態の子どもについて、そのときの子どもの姿がその子どもにとって精一杯の姿であることを、大人は気づく必要があります。子どもには精一杯でも、その子どもなりに精一杯の活動をして、少しずつエネルギーを蓄えて、もう少し元気な子どもの姿に変わっていきます。その変化の度合いが非常にゆっくりです。場合によっては大人が気づくようになるのに何年かかかるので、多くの大人は子どもがちっとも変わらないと判断しがちです。


なぜ産んだ!

 ある町で青年が刃物を振り回して、通りがかった何人かを刺傷させた報道がありました。その際に、その青年の父親へのインタビューも報道されました。その父親は「子どもがとんでもないことを起こして、世間に申し訳ない。なぜ子どもがその様な事件を起こしたのか全く分からない。死刑に値する。」と述べていました。事件を起こした青年は「死刑になるために人を殺した。」と言っていました。
 多くの人は、「死にたいなら、他の人を巻き込まないで、自殺をすればよい」と言います。それはしっかりと理性が働いている人の発想です。辛くて、辛くて、その辛さから逃げ出せない人は、理性的に行動することはできません。今までその人が持っている知識や経験から、反射的に辛さを解消する行動を取ってしまいます。それが一般には自殺に繋がります。
 不登校、引きこもりで辛い子ども達の中で、辛くて辛くて、その辛さから逃げ出せないとき、自分を辛くしていると感じている人に向かって、攻撃して来る場合があります。しかし自分を辛くしていると感じている人が自分の親だった場合には、親自体に攻撃をしないで、他に大きな事件を起こしてしまいます。
 その事件の結果、親が死ぬ思いをするように、とんでもないような事件を起こしてしまいます。報道によると当人が色々と考えて、準備をして、その様な事件を起こしているように書いてありますが、当人は辛さと怒りから意識が解離していて、罪悪感を感じないで事が運ばれています。
 このような事件を起こさないまでも、不登校や引きこもりで苦しんでいる子ども達は、その苦しさを表現するために、病気の症状を出したり自傷行為を行いますし、親に向かって荒れます。親に向かって荒れられないときには、親が大切にしている物(親が大切にしている身の回りの物や、貴重品、家の壁やガラスなど)を壊します。
 辛さから、子どもは親に向かってなぜ産んだ、なぜあのような父親と結婚した、死にたいなどと、親が答えようがない、対処の使用法がない言葉を言います。それは決して言葉通りではないです。辛くて辛くて、生きている心地がしないと言う意味です。どうして親が助けてくれないのかと言う意味です。


子どもたちの万引き

 東京ではことしになって5月までに万引きが8301件に上り、去年の同じ時期より13%増え、特に検挙・補導された少年は1742人と44%も増加しているという報道がありました。万引きが色々な犯罪の入り口となっていると言われていて、社会問題化しています。その理由を子どもの立場から考えてみます。
 多くの万引きをした子どもたちの多く(中にはいじめとして万引きをさせられた子どももいます)は、好きこのんで万引きをしたのではありません。万引きをした子どもたちは自分たちが気づかない理由で、発作的に万引きをしています。その理由とは、子どもたちが何かで辛くなっていて、その辛さの解消のために、無意識に、反射的に、万引きをしています。お金を持っていても万引きをするのは、このためです。なぜ万引きをするとその子どもの辛さが癒されるのか、それは子どもによって違います。心が辛い状態の子どもが取った回避行動と表現できます。
 既に万引きが習慣化した子どもたちでも、最初内は同じ理由で万引きをしています。しかし万引きを繰り返す内に、万引きが習慣化していきます。その万引きでお金などの利益やゲーム感覚の楽しみを得られたときには、万引きの習慣化がより早く強化されていきます。それ故に、子どもの万引きは早い内に見つけて、それなりの社会的な罰を与える必要がありますが、罰を与えただけでは子どもの万引きは止められません。子どもたちの万引きはより巧妙になり、見つけにくくなります。
 子どもたちの万引きを見つけたときには、それなりの罰(警察などの社会的な罰)を与えると同時に、同時に子どもが感じている辛さを取り除く必要があります。子どもの辛さを取り除かれるのはその子どもの親だけです。親は子どもに社会的な罰を科せると同時に、子どもが直面している辛さを取り除く必要があります。子どもが直面している辛さの多くは、経験的に学校の問題、進学の問題、勉強の問題など、学業に関する物、またはそれに相当する物が多いです。
 マスコミ報道を見る限り、多くの親や学校関係者、商店や行政などは、子どもの行った万引を処罰することで押さえ込もうとしています。それでは子どもたちの万引きが巧妙化して、潜在化していきます。報道を見る限り、万引きをした子どもの親は、子どもの進学だけを重要視して、親の罰を子どもに与えるけれど、万引きを押し隠して、ますます子どもに進学や勉強の辛さを押しつけ続けています。それは子どもをますます万引きする方向へ向かわせます。
 子どもたちが万引きから窃盗などの犯罪に進んでいかないためにも、社会的な罰が必要です。それと同時に親は万引きをした子どもへ親の罰を与えるのではなくて、子どもの辛さに共感して、子どもが直面している辛さから子どもを守る必要があります。例えそれが子どもの進学に影響をしても、子どもの心を守ることが最優先します。子どもが辛さから守られたら、子どもはそれ以上の万引きを止めて、その子どもなりに進学の問題も解決します。


今の学校と子どもの心

 今の学校教育は、予め決められた学力に、子ども達の学力を到達させようとするものです。大人や学校関係者が子ども達に求めているものです。それは一部の子ども達にとって、まるで腹一杯なのに、もっと食べろ、もっと食べろと言って、子どもの口の中に食べ物を押し込むのに似ています。
 それでも子どもの方は、腹一杯でこれ以上食べられないのに、一生懸命口の中に押し込まれた食べ物を飲み込もうとしています。しかしそれ以上飲み込めなくて、辛くなって、食べ物を拒否するようになっています。
 子ども達の見かけとは異なって、学校や勉強を嫌がるようになっています。その様な子ども達の間で虐めが無くなりませんし、不登校の子どもが依然として多数出ています。犯罪行動を起こす子ども、病気の症状を出して治療を受けている子どもも多いです。今まではそれらの原因を、子ども達の性格や、家庭のあり方に求められてきています。
 子ども達は言葉で、学校が楽しい、勉強が楽しいと言います。先生や大人達は、子ども達のこの言葉を信じていますが、子ども達の本音は違うようです。子ども達は大人の前では、大人の喜ぶような言葉を発しますが、安心して話せる人には学校が辛い、勉強が辛いことを言っています。


子どもの立場からの義務教育

 義務教育とは、子どもが学校に行く義務ではなくて、子どもが教育を受けられるような環境を整える大人の義務です。子どもが教育を受けられる環境として、学校が用意されています。現在の学校は管理と学力をつけることに主眼が置かれていて、ありのままの子ども達のあり方に配慮がされていません。
 現在の学校に合わない子ども達が増えています。それらの子ども達は学校に行かないで、家庭でその子どもなりの学習を求めています。しかし現在の学校は基本的に家庭でのその子どもなりの家庭学習を認めていません。学校に来られないなら、学校に代わる場所に行くことを求めています。学校に行こうとしない子どもを学校に行かせようとするのが義務教育ではありません。
 子どもの学習の場所は学校だけではありません。学校で教える知識が子どもの学習の全てでもありません。子どもは学校で学習しても良いし、家庭でその子どもなりに学習して良いはずです。学校に行こうとしない子ども、学校で学習を希望しない子どもについての義務教育とは、子どもが家庭でその子どもなりに学習できる環境を整えるのが、子どもの立場からの義務教育です。


母親だけは

 不登校、引きこもりなどの、心が辛い状態(元気がない、荒れる、病気の症状を出す)の子どもを持つ親や、その子どもに関わっている大人についてです。子どもが辛そうにしていると、多くの大人は、子どもが苦しんでいる原因を見つけようとします。原因を解決して、子どもを元気にしようとします。そのために、子どもから色々と聞きだそうとします。子どもが苦しみだした頃の状況を、その大人なりに分析して、そこから原因を見つけようとします。その原因を取り除き、子どもの問題を解決しようとします。

 しかし多くの場合、子どもは自分が辛いという事実は分かりますが、なぜ自分が辛くなったのか、自覚していません。なぜ辛くなったのか分かりませんから言葉にできません。自分が辛い原因を、子ども自身が言葉にしたなら、それは子どもの周囲の大人から指摘されたことを、子どもが言葉にして答えただけです。自分ではっきりと見つけ出したのではありません。辛さとは潜在意識からの反応であり、辛さが何かに反応して生じる過程は意識に上らないからです。子どもは知りようがないからです。しかし多くの母親だけは、子どもが反応して辛くなった何かを、肌で知ることができます。その何かから子どもを守ることができます。

 子どもが辛くなった原因を大人が見つけて、その原因を取り除いても、子どもの辛さは変わらない場合が多いです(大人が見つけた原因を取り除いても、子どもの辛さが変わらないとき、その子どもにも問題がある、その子どもの問題も解決しなければならないと、大人は考えがちです)。それは大人が見つけた原因が、子どもが辛くなった原因ではない場合です。また、その原因は、子どもが辛さを表現するきっかけとなっただけで、その原因を生じた大元の原因がある場合です。

 辛くなった原因を取り除いて、子どもが元気になったように見えても、子どもがよい子を演じて、あたかも元気になったように振る舞っている場合も結構多いです。つまり、大人が見つけた子どもが辛くなる原因は、子どもが辛くなった原因だと大人が理解しただけで、殆どすべての場合間違っているか、ほんの僅か子どもの辛さに関係しているだけです。

 現在のどの母親でもそうですが、子どもが辛そうにしていると、その原因を母親が持っている知識から分析してしまいます。子どもの心に沿わない結論を導き出してしまいます。子どもの立場から言うなら、母親は子どもが辛いと言うことだけを感じ取ればよいです。子どもが辛いから、母親の周囲に暖かく守ってあげるだけでよいです。後は子どもが母親で自分の辛さを癒して動き出します。母親は子どもが動き出すのを待っていればよいです。そして母親以外の大人(例えば父親や学校の先生や医者)は、基本的に子どもが辛い状態を解決する能力を持ち合わせていないこと(これは常識に反しますが、子どもの立場から言うととても大切)に気づくべきです。

 子ども(年齢や心の辛さの程度によって異なります)にとって母親とは、子どもの存在そのものです。母親に依存して、子どもの安全と心身の成長が保証されると、子どもはその子どもなりに成長していきます。子どもが成長していけば、母親や母親の周囲では物足らなくなります。子どもは必要に応じて母親への依存を止めて、母親から離れて、経験を増やしていきます。学習をしていきます。これは子どもの持つ本能です。人間を含めて、全ての哺乳類の子どもが持っています。

 子どもが母親への依存を止めない、母親の周囲から離れない場合、子どもの甘えと理解されがちです。しかし子どもが甘えと理解されるような行動をとるには、子どもなりの理由があります。その理由が何なのか、多くの場合母親を含めて、大人は知ることができません。子どももその理由を知ることができません。子どもは潜在意識で、安全を母親に守って貰う必要を感じています。自分の安全に納得できないから、母親の周囲から離れようとしないです。子どもは本能から母親に依存を求めます。母親で不十分なときに、父親に求める場合もありますが、それでも第一に求めるのは母親です。それは子ども特有の本能なのですから、その事実を大人は認める必要があります。

 その様に大切な母親に、子どもが暴言、暴力を振るう場合があります。常識的には、子どもが悪い、子どもの心に問題があると理解されます。しかし子どもの立場から言うなら、母親への依存が必要なのに、許されていない。子どもが心の安全を求めているのに、母親から与えられていないという意味です。時には、辛い状態の子どもの心が母親によって癒されないだけでなく、より辛くされているという場合があります。子どもが母親にする暴言、暴力は、外見からはとてもその様には見えませんが、「お母さん助けて!」という、子どもからの叫び、またはサインです。

 子どもが母親に暴言、暴力を振るう場合、母親はとても辛いです。外見ではその様に見えませんが、子どもはもっと辛い思いをしています。死ぬ思いをしていますから、その思いを母親にぶつけています。常識的な人には単に子どもの暴力としか見えませんが、子どもは潜在意識から、必死で母親に「助けてくれ!」と訴え続けます。ですから、母親が逃げることを子どもは許しません。子どもが辛いことを母親が気づいて、子どもを守ろうとするまで荒れ続けます。子どもが自分の心の安全を感じられたときに、子どもは母親への暴言、暴力を止めます。母親ととても良い関係になれます。

 母親の立場から言うなら、子どもが荒れて暴言、暴力を振るわれてしまうことはとても辛いです。母親が辛くなると、自分以外の大きな力で子どもを押さえつけて、子どもが荒れなくなることを希望します。しかしそれは子どもにはとても許せないことですから、ますます子どもは荒れて、母親はますます辛くなります。または、子どもはますます辛い病気の症状を出して、母親を苦しめるようになります。 

 心が辛い状態の子どもを母親が守る対応は、母親にとってとても大変難しいです。時には母親自身が苦しんで病気の症状を出したり、死にそうになることもあります。それ程大変な対応ですが、父親や他の人は母親の代役をできません。子どもが自分の辛さから守ってくれる人を、母親にしか求めないからです。母親以外の人は、辛い状態の母親を守って、元気にする必要があります。大変に難しい子どもへの対応を母親が続けられるように、母親を支え続けるのが、一番大切な対応法です。

 夫や他の大人に支えられて、母親は荒れる子どもへの辛い対応を続けられます。母親は素直に辛い子どもと向かい合えるようになります。辛い対応を続けている内に、子どもの心に沿って子どもを守る対応法を、母親はいつの間にか理解できるようになります。子どもの心に沿って対応ができるようになると、母親がする子どもへの対応はとても簡単になります。子どもが荒れなくなり、どんどん元気になっていきます。今までの子どもの荒れ方が嘘のようになり、思い出話になります。今まで気づかなかった子育ての喜びを感じられるようになります。


感謝のメール
 息子は高校2年生になって、直ぐに登校できなくなりました。腹痛や頭痛、嘔吐、下痢に苦しみ、家の中で荒れた状態でした。母親はおろおろするばかり、その様な母親の姿を見て、息子はますます荒れて、母親にも暴力を加えました。父親も力で押さえつけようとしましたが、ますます息子が荒れる姿を見て、常識的な対応では息子の問題は解決できないと思うようになりました。そこでネットで調べていく内に、「子どもの心研究室」のホームページにたどり着きました。
 そのホームページに書かれていることは、私たちの知識と大きく異なっているので、驚きの連続でした。そのときまで、両親は息子を何とかして高校を卒業させなければならないと対応を続けていました。ホームページを読むことで、息子が心に傷を負っており、その疼きに耐えられなくなって不登校という生き方を自ら選んだのだということに気づきました。母親はメールでいろいろなアドバイスをいただき、息子の心が理解できるようになり、息子の心に沿った対応を続けることができました。
 母親は、息子の心をありのままに認め、息子の本心に沿った対応を続けました。父親は息子の対応で辛い母親を支えることを続けました。その様にして5年が経過した現在、息子はとても元気になり、息子なりの生き方を生き始めています。
 息子は高校を中退した後、昼夜逆転は続いていましたが、すっかり落ち着いて、中学や高校の友達と遊ぶようになりました。家の中ではゲーム三昧でしたが、母親の手伝いもするようになりました。両親はそれだけでも良いと思っていましたら、高校の卒業式には参加できませんので、謝恩会だけに出席して、写真を撮ったりして、楽しんで帰ってきました。
 その後卒業認定試験を受けたいと言い出して、両親を喜ばしましたが、予備校は一ヶ月で止めてしまいました。息子なりによい子を演じたのでしょう。息子の様子が不登校を始めた頃のように戻ってしまいました。そこで両親は、「大学に行かなくて良い、家で息子なりに楽しく過ごして欲しい」と、ことあるごとに言い続けました。そうすると息子はだんだん元気を出して、又友達と遊ぶようになりました。
 ある日突然、息子はホームステイをしたいと言い出しました。両親は「いいよ」と言うと、息子は英語を勉強すると言いだし、そのためにアルバイトをすると言い出しました。両親はお金を出すからと言っても、息子は自分の金で勉強し、ホームステイをしたいと言って、英語教室とアルバイト通いを始めました。その姿はとても生き生きとしていて、無理をしているとは思えませんでしたから、息子のしたいようにさせていました。
 一年間、息子なりに英語会話を学んでいました。両親は一年経ったら、息子がホームステイに行くものと思っていました。ところが息子はホームステイをしないで、大学に行きたいと言い出しました。英語会話を勉強している内にもっともっと勉強をしたくなったと言い出しました。両親は前回の予備校の経験もあり、又息子が辛くなるのではないかと不安になりました。しかし息子は両親の不安をよそに、自分でもう一度予備校に通い出し、高校卒業認定試験を一回でクリアーして、その翌年、某大学に入学しました。
 現在息子は元気で一人住まいをしています。生活費だけは自分でアルバイトをして、生活しています。大学の勉強も生き生きとやっていて、テニスの同好会にもはいり、年下の学生達と大学生活を楽しんでいます。
 五年前、親子で苦しんでいたとき、「子どもの心研究所」のホームページに巡り会わなかったら、息子は今も苦しみ続けていたと思います。その内容は常識とは大きく異なっていましたが、息子へはぴったいの対応の数々でした。まず息子を受け入れ、徹底的に息子を信頼して待ち続ける対応の大切さに、今更ながら驚いています。息子も「信頼して待っていてくれたから、又学校に行けるようになった。父さん、母さん、有り難う」と言ってくれました。

眠られないからしんどい!
 不登校や引きこもりで、心が辛い状態にある子どもは、夜眠られないから昼間寝てしまい、昼夜逆転の生活をする傾向にあります。夜は辛さが減って子どもなりにゲームやテレビなどを楽しめます。眠気が来ません。昼間はだるさや辛さがあり、何もできないし、眠気が来ますから、眠り込んでしまいます。
 その様な生活の仕方は常識的に不健康な生活と考えられますが、心が辛い状態の子どもでは、目立った病気をしないし、身体の成長にも枠影響を及ぼさないし、子どもが元気になれる近道なのです。子どもが元気になったら、子どもは昼夜逆転を止めます。
 親が子どもの昼夜を逆転した生活を許せないと、子どもも自分の昼夜逆転をした生活を許せません。子どもは夜眠られないから、大量の睡眠薬を飲みます。大量の睡眠薬を飲んでも、なかなか寝付けません。夜ぐっすり眠られなかったまま、翌朝起きてしまいます。起きても体調が優れないし、気分も優れません。そのとき親や子どもは”夜眠られなかったからしんどくなっている”と理解します。
 もし夜眠られなかったからしんどいのだとすると、昼間自然と眠られるはずです。昼間しんどく感じる子どもは、寝不足でも昼間も眠られません。次の夜も眠られません。つまり子どもがしんどく感じる原因は他にあることになります。不登校なら学校に行けない自分、引きこもりなら引きこもっている自分を許せない(葛藤状態になっている)から辛くて、その辛さが著しいから、どうにもできない辛さが子どもを襲い続けています。心も体も安まらないから、昼も夜も余計しんどく感じ続けます。それは夜眠られたかどうかと言うことと直接関係ありません。
 その少しでもしんどさが軽減する夜に、眠くない夜に、無理をして眠ろうとすると、しんどさが増強してきます。睡眠薬も効きづらくなります。それは辛い心を元気にするのに損をします。自分の状態に素直に反応して、眠くない夜に起きて、眠たくなる昼間に眠った方が、心の回復にはよいですし、生理的にも身体的にも問題を生じません。 

死にたい!
 ある親の会で、不登校の子どもに「死にたい!」と言われた母親が取り乱して、「あなたは私の大切な子どもよ!」と繰り返しながら、子どもを抱きしめ、一晩泣きながら過ごした母親の話を聞きました。子どもは母親の胸で一晩、ぐっすりと眠りましたが、翌日も辛そうな姿が続きました。その話を聞いた人たちは、子どもが自殺しないように気をつけなければならないと、母親に提言しましたが、具体的にはどうしたらよいのか、誰も分かりませんでした。
 子どもが言葉にする「死」の意味は、大人の持っている「死」の意味と少し異なっています。子どもも「死」の状態は他の動物の「死」を見たことがありますから、知っています。しかし大人は具体的に具体的な行動を意識的に取ることができますが、子どもは死ぬための具体的な行動を、意識的にとることはできません。子どもが自殺する場合は、子どもが意識的に自殺をしているのではなくて、辛さを回避できなくて、苦しくて苦しくて、発作的に、無意識に、死ぬための行動を取っています。
 子どもが「死にたい」と言ったとき、大人が考える「死にたい」の意味を言っているのではないです。子どもが何かの理由でとても苦しいとき、辛いとき、「とっても苦しいよ、非常に辛いよ」と言っても、親が子どもを辛さから守ろうとしないとき、子どもの辛さが軽減しないとき、もっと強く母親に自分の辛さを訴えるために、「死にたい!」とか、「生まれなければ良かった!」と言います。この言葉を聞くと多くの母親は「死なれては困る」とか、自殺するのではないかと考えて、動揺する場合が多いからです。この言葉で母親が子どもが辛いことを理解して、子どもの辛さから子どもを守ろうとしたなら、子どもは「死にたい」と言わなくなります。
 子どもの「死にたい」という言葉で、子どもが自殺するのではないかと考えて、子どもの自殺対策だけを母親が考えると、または、対応が分からないで訴えを無視し続けると、子どもの「死にたい」という言葉は繰り返されます。子どもが「死にたい」という言葉で訴えている事実を無視されたと、子どもは潜在意識で反応して、発作的に死ぬ行動に出てしまう場合もあります。
 子どもの「死にたい」、「生まれてこなければ良かった」という言葉は、非常に辛いという言葉以上に辛いという意味で、「自分ではその辛さを解決できなから、母親に解決して欲しいけれど、今までは解決して貰っていない。どうか自分を守って欲しい」という子どもからのメッセージです。
 その対応法として、母親は子どもの辛さに共感する必要があります。子どもの辛さを癒すのには、母親のスキンシップが確実です。その意味でこの例のように、母親が子どもを抱きしめて泣き共感したことはとても良い対応でした。けれど子どもは子どもの辛さから守って欲しいと訴えていますから、共感とスキンシップだけでは、子どもの訴えに100%答えたことになりません。不登校の子どもですと、学校に行かないで家で楽しく過ごすことを、引きこもりの子どもでは、引きこもって家で楽しく過ごすことを認める対応が必要です。

迷惑を掛けて良い
 心が辛くて引きこもっている年長(思春期以後)の子どもは、その子どもなりの問題点を持っていて、一般にエネルギーが低くて、自己否定を生じています。このような子どもを元気にする必要を親は感じます。その際に、引きこもりを解消しようとして関わると、また、子どもの持つ問題点を解消しようとすると、逆効果になって、ますます引きこもったり、荒れたり、病気の症状を出してしまうか、子どもがよい子を演じてしまいます。
 よい子を演じた場合には、一見引きこもりを止めて動き出したように見えても、その後大きな限界が来て、大変に辛くなり動けなくなります。ますます辛くなり荒れるか、病気の症状を出して薬漬けになってしまいます。子どもの将来を失ってしまいます。
 心が辛くて引きこもっている年長の子どもを元気にするには、引きこもっていることを肯定してあげて、子どもが持つ問題点をそれでよいと認める(”ありのままの子どもをそのまま認める”)ことで、自己肯定感を強めていきます。エネルギーも高めることができます。”ありのままの子どもをそのまま認める”と、子どもがそれまで否定してきたことが肯定された、否定する必要がないと感じることになり、その分自己否定をする必要が無くなるからです。
 子どもが持つ問題点をそれでよいと認めようとしても、初めのうちは子どもの方でそれを許しません。時には荒れることすらありますので、親の方で対応を間違えたと感じるようなときもあります。けれどそれは子どもの本心に沿った対応ですから子どもは直ぐに荒れるのを止めて、自分の問題点を許せるようになります。その後少しずつ動きも出てきて、自己肯定感も出てきます。子どもに元気が出てきたと感じられるようになります。
 この”ありのままの子どもをそのまま認める”過程で、子どもがする行動や要求が親や周囲の人に迷惑を掛けるような場合があります。このよう場合、多くの親や大人達はそれを認めることができません。それでは”ありのままの子どもをそのまま認める”ことにはなりません。周囲の人に迷惑を掛けるような場合でも、それをして良いと認めると、子どもの方では人に迷惑を掛けた事実を体験することで、それ以後迷惑を掛けるような子とをしなくなります。周囲の人に迷惑を掛けるようなことでも認められた事実は、認めてくれた親や大人達に信頼感をまして、自分自身には自己肯定感を高めて、自発的な動きが多くなっていきます。
 心が辛くて引きこもっている子どもには、所謂内向的な子どもが多いです。自分を自分の思いで縛り付けて、自発的な動きをしようとはしない場合が多いです。外見的には自分の殻に閉じこもっていると感じられる子どもです。その様な子どもへは「他の人に迷惑を掛けて良い」と、親や大人達は積極的にメッセージを伝える必要があります。具体的にどんな行動をするのか、それは子どもの問題ですが、自発的な内的欲求からの行動が全て認められるなら、子どもは自分を縛っている物を取り除いて、その子どもなりの、親や大人達が望んでいることを取り入れた行動を始めて、元気になっていきます。
 この事実は、ニート、フリーターと呼ばれる子どもにも当てはまります。このような自己評価が低くて、自発的な動きが少なく、ゲームなどの目先の楽しさを求めなくてはならない子どもを元気にするには、”ありのままの子どもをそのまま認め”、人に迷惑を掛けても良いから、子どものやりたいことを無条件でさせることで、子ども達は元気になり、意欲を持った行動を始めて、人に優しい、元気な大人となって社会に出て行けるようになります。


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