子どもの成長は順応の過程2010/1/6

 現在、多くの親は自分の子どもが無事に成長をして、幸せな大人になって欲しいと思っています。社会的にも、経済的にも自立した大人になってくれるようにと願っています。そのために子どもはいっぱい勉強をして、良い学校に入って、有利な就職をして欲しいと願っています。
 学校の方でも、子どもが好む好まざるに関わらず、カリキュラムに沿ってどんどん授業を進めていきます。テストで子どもの学力を測ろうとします。そこには必然的に競争を生じています。
 学校内で子どもは管理の対象になっています。子どもらしく学校生活を送るという建前になっていますが、実際は大人が決めた規則に縛られて、その中での子どもとしての自由しかありません。
 大人は競争社会で勝つための準備だと言います。社会生活をするための規則を学ぶためだと言います。子どもの中には、言葉で、一生懸命勉強をして、良い学校に入りたいと言う子どもがいます。しかしそれは子どもの本心からの言葉ではないはずです。親や教師の言葉を受け売りしているだけです。なぜなら、子どもは勉強をする意味、受験をする意味を知らないからです。大人となって出て行く社会の実態を知らないからです。当然一生懸命勉強をするという意味も知りません。子どもの姿は親や大人から求められたことを、その子どもなりに一生懸命実行しているだけです。
 子どもは、大人にはない、子どもだけが持っている本能として、その時その子どもを取り巻く環境に一生懸命順応しようとしているだけだからです。大人が競争を求めているから、その大人に順応するために、競争を始めているだけであり、子どもの本心から競争を求めているのではないです。
 子どもはその本能から、子どもの周囲と仲良くして、一生懸命色々な情報を吸収しようとします。決して競争を求めているのではないです。決して逸脱した行動をしようとはしていないのです。ただ、知識が少ないために、経験が少ないために、失敗をすることがあります。現在の大人は子どものこの失敗を許そうとしないのです。この事実を知っている大人は今のところいないようです。

子どもの心を正しく理解する
2010/1/15

 正しいという言葉は魔物です。子どもの心を正しく理解したと思っても、子どもを観察している人が、その人の経験から正しいと思っただけです。その正しいと思ったことに共感する人が多くいても、現実には子どもの心について、正しさを証明する方法がないです。子どもの心には正しさなど無いと考えた方が間違いがないかも知れません。
 子どもの心はこうなっているとか、子どもとはこうあるべきと言う大人の考え方は、大人の希望的な観測であり、一部の子どもに当てはまりますが、全ての子どもに当てはまりません。正しいという概念で子どもの心を見たときには大失敗をしますし、一人一人の子どもの心を理解できません。子どもへの対応で子どもが苦しむようになります。
 子どもは自分の心で成長し、自分の心も成長させていきます。子どもの心は子どもが置かれている環境で千差万別です。子どもへの対応を行うときには、子ども一人一人の心に沿った対応が必要です。子ども一人一人の心に沿った対応は、ある子どもの心に沿った対応でも、他の子どもには好ましくない場合があります。
 子どもの心に沿った対応は、その時々の子どもの心の動きを推測して行います。子どもの心に沿っているかどうか、子どもの反応(表情や行動)から判断します。言葉も子どもの心を反映している場合もありますが、多くは子どもの知的な理解を表現しているだけです。子どもへの対応で、その子どもが元気になってくれば、その子どもの心に沿った対応であろうと思われます。その子どもへの好ましい対応になります。
 子どもへの対応が好ましいかどうか(対応が子どもの心に沿っていなくても、子どもの方でその対応を受け入れられるかどうか)、対応をする人によってその許容範囲が大きく違います。その許容範囲は、子どもの母親が一番大きくて、その他の人にはとても厳格です。学校の先生について一見子どもの許容範囲が大きいのは、子どもが先生の後ろにいる母親に無意識に反応しているからです。
 学校で問題行動を起こす子どもには、その子どもの母親が母親の機能を果たしていません(学校で辛くなった子どもの心を、母親が癒そうとはしていないという意味です)。その子どもは先生の後ろの母親を配慮していません。ですから担任にとても厳しいです。とても強く反応して、無意識に問題行動を起こしてしまいます。一方で、その子どもは自分の辛い心を何かで癒そうとします。その子どもの辛い心を癒そうとする行動が、大人が正しいと思っている対応で否定されると、その子どもは益々辛くなり、問題行動を強めたり、病気の症状を出したりします。
 ある小学校で子どもが荒れて、授業が成り立たなくなりました。学校は男の先生が荒れる子どもを力で押さえつけたり、親が学校に来て子どもを監視するという方法を採りました。それで一見子どもは大人しくなったように見えましたが、男の先生がいないとき、親がいないとき、その子どもはより一層荒れてしまいました。そこで担任は教室の一角を区切って、その子どもが自由に過ごせられる場所を作りました。子どもが荒れ出したら、その子どもをその場所に導いて、そこでその子どもが自由に過ごせるようにしました。それ
」だけで根本的な解決には成りませんが、少なくともその子どもの荒れ方が減って、授業ができるようになりました。
 子どもの心について、正しいと考えられる物は生物学的な心、脳の機能を科学的に解析した事実だけでしょう。どの子どもにも共通して言える正しさとは、子どもが持つ本能、本能に含まれるかも知れませんが、嫌悪刺激に対する神経学的な反応の仕方だけでしょう。今の心理学や精神医学はこの脳の機能に基づく正しさを認めないで、大人の思いを子どもに押しつけていますから、子どもの心の問題が解決しないのです。


休み時間2020/1/27

 学校の先生方は認めないでしょうし、理解しないでしょうが、授業中の多くの子ども達は”よい子”を演じています。良い子とは、普段の素直な子どもの姿とは違って、相手の期待する姿に自分を合わせて行動する姿です。授業を楽しんでいる子どもは普段の素直な自分で反応し行動しますが、多くの子ども達は先生から良い評価を得るためによい子を演じています。心が辛い子どもで、よい子を演じる余裕がない子どもは、授業中でも問題行動を起こします。一般的に先生や親が希望する姿の逆をすることが多いです。
 心が元気な子どもはよい子を演じることで、ますますその子どもの能力を高めてくれます。心が辛い子どもはよい子を演じることで、とても無理をしています。大人にはその様に見えないでしょうが、ぎりぎりまでよい子を演じ続けています。そして休み時間や放課後に、その子どもなりの楽しみに耽って、その無理を取り返そうとします。
 休み時間や放課後に、子ども達は先生方から評価されません。子ども達は評価されない時間時に、素直な子ども達の姿で生活しようとします。素直な姿でその子どもなりに休み時間を過ごせたなら、子どもは意欲的に授業に参加できます。他の子どもにもとても優しいです。休み時間は子ども達が学校の中で素直に本心から過ごしている時間です。子どもの本当の姿を知る絶好の時間です。
 今の学校で子ども達はとても多くのことを要求され、その結果を評価されています。授業中によい子を演じなければならないから、心に余裕がない子ども達が多いです。学校としてはとても許さないでしょうが、今の学校では、子ども達が素直に過ごせて、子ども達が素直な自分を取り戻せる時間がもっともっと必要なのです。子ども達は評価されることで、よい子を演じてしまいます。それは先生のためでなくて、先生の後ろにいる母親のためです。
 心の元気な子どもはよい子を演じることで、自分の能力を伸ばすことができます。心が辛い子どもは自分を守るためによい子を演じます。よい子を演じ続けられている間は、心が元気な子どもと心が辛い子どもとを区別することは不可能に近いです。そしてよい子を演じなくて良くなる時間に、問題行動を起こすことが多いです。
 先生達は授業中の子ども達の姿を見て、子ども達の心を判断しています。先生達の見ている子ども達は、良いにつけ悪いにつけ、よい子を演じている姿です。先生方は子ども達がよい子を演じている姿を見て、子ども達の本当の姿を理解していると信じているのです。先生達が子どもの本当の姿を知りたければ、休み時間の子ども達の姿を、先生なりの評価をしないで、見ている必要があります。


チックについて2020/2/25

 チックとは、ピクピクっとした素早い体の一部が動くとき、その動きをチックと表現します。本人の意思とは関係なく生じ、多くは繰り返しおきてしまいます。多く見かけるチックとして瞬目があります。そのほかにも、肩をぴくっと動かす、頭や首をふる、顔をしかめる、口を曲げる、鼻をフンフンならす、などがあります。それらの動きを本人は意識していません。声や言葉のチックもあります。ため息、咳払い、言葉(多くは他人が嫌がるような)もあります。他人から止めさせようとすると、その時は止まりますが、その後換えって頻度や程度が強くなります。
 傾向として幼児からの子どもに多く見られます。不安、ストレス、緊張、心の葛藤などがきっかけでおきます。その原因がなくてチックを生じている子どもがいると言う人もいますが、私が経験する限り、全て何らかの不安、ストレス、緊張、葛藤から生じています。大人で見られるチックには、子ども時代のチックが習慣化していると理解される場合があります。
 多くの子どものチックは、精神的なストレスや緊張感から生じています。それも精神的なストレスや緊張感が、その子どもの耐え得る限界に近づいていることを示しています。その精神的なストレスや緊張感は、子どもが置かれている状態や子どもの心の状態で異なりますから、一時的にチックを生じたり、消失したりします。精神的なストレスや緊張感があるときに、一部の子どもがチックの形で、その精神的なストレスや緊張感を表現しています。
 チックを生じている子どもを、精神的なストレスや緊張感から守られないと、子どもはもっと強い神経症状や精神症状を出し、子どもとしての社会生活を営めなくなります。又強い神経症状や精神症状を出している子どもを元気にするには、大変に難しくなります。子どもの心を守り、成長をさせるためには、チックのでない対応や環境で、子どもを育てる必要があります。
 子どものチックを薬を含めて医療で解決しようとする人が多いです。それは一時的にチックを無くすせますが、その後強いチックや、神経症状、精神症状を出すようになります。子どもがチックを生じるにはチックを生じるだけの、子どもの心が辛くなっているという原因があります。その原因を薬や医療では解決できないからです。それどころか薬や医療でチックが隠されている間に、子どもの心の辛さが益々高じてしまって、強いチックや、神経症状、精神症状を出すようになってしまうからです。 
 強いチックや神経症錠、精神症状を子どもが出すようになると、子どもが精神的なストレスや緊張感からチックを出していたことは無視されて、精神疾患として医療の対象となり、薬を投与し続けられ、精神病者として生きていかなければならなくなります。
 このチックに関する理解は医学常識に反しています。チックに関する医学常識には科学的な根拠がありません。チックに関する脳科学的な理解をすると、私のような結論になります。

学校で問題行動をする子ども(2)2010/3/8
 子どもの心から言うなら、学業で競わされているという今の学校教育のあり方が、教師が授業を優先する学級運営の仕方が、子ども達を苦しめています。この学校や教師のあり方が子ども達を苦しめている事実は昔からあったのですが、昔は子ども達が学校から離れた時に、その学校での辛さを解消する方法がありました。学校が終わると子ども達は自由にその子どもなりに、学校の辛さを解消して、又翌日学校に行けたのです。ところが現在の子ども達は学校を終えても大人によって管理されていて、学校の辛さを解消する方法を持っていません。その結果、大人は気づかないけれど、苦しくなった子ども達が他の子ども達に学校でいじわるをするいう事実があります。大人から見たらとても虐めだとは感じられなくても、既に心が辛くなった子どもは、他の子どもから受けた意地悪を虐めだと感じて反応しまいます。
 この学校内の問題を、学校を終えてからの問題を解決する政策が、日本ではなされていません。教師も気づいていないから、学校内で学校を楽しくする様な対応(一部の教師は気付いていて、授業を工夫して楽しくしようとする試みがなされている)は行われようとはしていません。多くの親も子ども達が学校で辛い思いをしている事実に気付いていません。親は子どものために、子どもの成績を上げようとして一生懸命ですから、子ども達は家でも辛さを解消できないばかりか、家でも辛さを強めていく場合もあります。翌日学校に行ったとき、既に辛さに敏感になっていますから、学校内での辛さ、同級生から受けるいじわるに、子どもはとても辛く成りやすくなっています。学校に行き渋ったり、学校で意地悪をするようになります。
 子どもが学校で辛くて耐えきれなく成ったとき、子ども達の中には学校内で暴れたり、授業を妨害するような、問題行動をする子どもが出てきます。このような子どもは問題行動をするようになる前に、母親の所に逃げて、辛い子どもの心を癒すようにすることが必要です。母親が逃げてきた子どもを抱きしめて、「辛かったね、よくここに逃げてきてくれたね」と言って頬ずりをしてあげて、子どもの好きなことをさせてあげる必要があります。可能な限り、母親の側で子どものわがままをさせてあげると良いです。子どもが辛さを表現しているときには、教育だ、躾だというようなことを、母親を考えてはいけません。教育や躾は子どもが元気になったら、子どもが自分でつけていきます。
 子どもが学校で問題行動を起こしたとき、常識的には教師が子どもを叱ります。しかし子どもは辛さを問題行動で表現していたのですから、その辛さの表現を力で禁止されると、子どもはかえって問題行動を強めます。問題行動をした子どもは精一杯自分を維持しようとしていて、耐えきれなくなって問題行動をしたのですから、叱られるとますます子どもは辛くなり問題行動を強めてしまうのです。
 今の子ども達は学校で心が辛く成りやすい事実を理解する必要があります。学校では子どもの心が辛くならないような教育の仕方が必要です。家庭では学校で辛くなった子どもの心を癒す対応が必要です。教師は教育に一生懸命で、子どもが学校で辛くなっているという事実を理解しようとしないから、叱ることで子どもの問題行動を解決しようとすると、ますます子ども達は問題行動を起こすようになります。その際に、未だよい子を演じられる子どもは、叱った教師の前ではよい子を演じて教師の指示を受け入れたように振る舞います。よい子を演じる限界に来た子どもは、叱った教師に向かって荒れてしまいます。
 子どもが学校内で問題行動を起こしたとき、子どもを叱らないと、子どもの問題行動が習慣化します。ですから母親以外の大人は問題行動を起こした子どもを叱る必要があります。母親は母親であること自体が子どもにとって喜びですから、必要以上に子どもを叱らない限り、母親の持つ感性で子どもへの対応が可能です。母親以外の大人は問題行動をした子どもを現場から隔離して、隔離した場所で子どもが辛かったことに共感してスキンシップをする必要があります。まず辛かった子どもの心を癒しておいて、その後問題点を指摘します。そうして子どもを辛くない状態で、問題点を認識させる必要があります。
 学校で問題行動を起こした子どもも、母親から癒されたい、認められたいと願っています。しかし家で母親から癒されていないから、学校で辛さに過敏に反応しています。現在の母親は子どもが学校で辛い思いをしている事実を感じ取って、子どもの辛い心を癒すようにしなければ成りません。子どもが学校に行っている限り、母親は家庭での教育よりも子どもの心を癒すことを優先させる必要があります。
 この事実をふまえて、学校で問題行動を起こす子どもを、普段から積極的に癒して、認めていく必要が、子どもの周囲の大人にはあります。それをどうやって子どもに与えるか、それは子どもによって、周囲の大人の立場によって異なります。大人の方でその大人なりの工夫が必要です。

僕を理解してくれなかった
 二十歳の男の子が電車に飛び込んで自殺をしました。遺書には「誰も僕のことを理解してくれなかった」と書いてありました。両親は遺書を見て、男の子を理解できなかったと、位牌の前で泣いて詫びていました。両親は男の子を理解できなくて、その結果男の子が自殺した事実を悔やんでいました。
 男の子は中学一年生の三学期から学校に行かなくなりました。両親は男の子が学校に行けないのは可愛そうだからと考えて、学校内での問題点を解決して、男の子の問題点を解決して、男の子を学校に行かせようとしました。学校や相談機関と相談して、一時は男の子を無理矢理に自動車に乗せて、学校まで連れて行ったこともありました。けれど男の子が荒れて抵抗をするので、無理矢理に学校に行かせようとする対応を止めました。
 両親は医者と相談したところ、精神病の疑いがあると言われ、男の子を受診させようとしました。男の子は受診拒否をして病院に行こうとはしませんでした。そこで病院の職員の力を利用して、無理矢理に男の子を自動車に乗せて、入院させました。それ以後男の子は両親を拒否し、荒れ続けたので、強引に薬で暴れないようにされました。
 両親は医者が言うように、今に治療の効果が出て、男の子が元気になることを信じ続けました。無表情の顔、緩慢な動作、ろれつがうまく回らないで、ゆっくりとした言葉、これらは病気の症状だと考えて、男の子を一生懸命病院に通わせ続けました。薬を飲ませ続けました。そのうちに一人で外出できるようになったので、両親が喜んでいたら、男の子は電車に飛び込んだのです。
 両親は男の子を理解してあげられなかったことを後悔していると話してくれました。そこで私が男の子の何を理解してあげられなかったのですか?と質問をしたところ、男の子を両親が理解しようとしていなかったからと言いました。両親は男の子のために一生懸命努力したけれど、ただ一つ足らなかったのは、男の子を理解しようとする姿勢が無かったと、そのために男の子は自殺したと考えていました。
 両親が男の子を理解しようとする姿勢があったら、男の子は自殺をしなかったでしょうか?男の子は誰も男の子を理解してくれなかったと言っています。”誰も”という言葉から、男の子を理解しなかったのは両親であり、学校の先生であり、相談機関の人であり、医者や病院関係者だったと男の子は言っています。
 両親の対応は男の子の心に沿っていなかった。両親は男の子が辛くて拒否をしていた学校に、親の間違った推測から、子どもを無理矢理に学校に行かそうとしました。
 学校の対応が男の子の心に沿っていなかった。相談機関の人の対応が男の子の心に沿っていなかった。男の子が学校で苦しんでいるのに、その苦しんでいる学校に男の子を行かせるようにと、学校に行かないと男の子の将来が無くなると親に説明しました。
 医者の対応が、治療が、男の子の心に沿っていなかったという意味です。男の子は病気でもないのに、医者により病気と決めつけられて、男の子が飲みたくない薬を、男の子の立場から言うなら、飲んではいけない薬を、無理矢理に飲ませて、男の子の人権を踏みにじりました。
 これらの男の心に沿わない対応や治療で、男の子は苦しみ続けて、この世の中に男の子の居場所を見つけられなくなっていました。
 これらの男の心に沿わない対応を許可し、治療をさせ続けた両親に、男の子の心を理解してくれなかったという遺書を残したのです。

2009年度文部科学白書
 2009年度版文部科学白書で、家庭の経済力の差が子どもの教育機会の格差拡大につながりつつある現状を挙げ、教育への公的投資の必要性を指摘した。その根拠として、09年度の全国学力テストの結果と大学進学率を用いている。
 学力テストは点数で能力を比較できるから、合理的な比較法に見えるけれど、小、中学校の学力テストの結果が、子ども達が大人になったときの能力を反映していない。不登校、引きこもりだった子どもが元気になって、大学生になって、大人になって、とてもすばらしい能力を発揮しているのを、私は多数経験している。
 大学進学率についても、無気力で遊ぶことしか考えない大学生が多い。多くの子どもは大学に行かない生き方が茨の道だから、楽な大学生になっている。また、大学を卒業して就職しても、会社をすぐに辞めてしまう若者が多い。
 昔の学校は子どもの学力を伸ばすことが、大人になったときのその人の能力を決めていたけれど、現在の子どもにはそれが当てはまらない。現在の子どもは学校に行かなくても社会人になったときに必要な学力を得られる。
 現在の子どもに必要なのは、意欲である。勉強をしてやろうという意欲、運動をしてやろうという意欲である。子ども達の意欲をのばすために、教育投資を増やすのなら子どもの成長に役立つけれど、現在のように学校や親が子どもの尻をたたいて、目の前のテストの点数を高めようとするような教育のあり方だと、子どもを無気力にするだけである。それが現在の教育の問題点である。

子どもには精神疾患がない
 動物は辛いと、辛いところ方逃げようとします。辛さから逃げられないと、暴れます。暴れられないとすくみの状態になります。類人猿のすくみの状態は人の精神病にそっくりです。類人猿とほぼ同じ脳の構造を持っている人間でも、この事実は当てはまります。特に子どもではとてもよく当てはまります。
 いわゆる専門家達は認めようとしませんが、子どもが出す精神疾患の症状は、子どもの心が辛くて、その辛さから逃れられなくて出しています。子どもが辛くなっている原因を見つけて取り除くと、子どもが精神疾患の症状を出さなくなります。
 精神疾患がなぜ生じるのか、未だに分かっていません。精神疾患を診断する客観できな病因はありません。医者がその主観から精神疾患だと言ったとき、その患者は精神疾患となってしまいます。
 ですから医者が精神疾患だと言っても、その患者が精神疾患だという客観的な証拠がありません。精神疾患でない可能性があります。特に子どもでは、上記のように辛さから逃れられなくて、精神疾患の症状を出していますから、精神疾患ではありません。
 人が辛さから逃れられないと精神疾患の症状を出すようになります。それは脳内の精神症状を出す神経回路が機能しているからです。辛さが無くなるとこの神経回路は働かなくなり、精神症状が無くなります。ほとんど全ての子どもはこの段階です。心療内科はこの段階の人の対応や治療を行うところと思われます。
 ところが頻回に辛さを経験すると、精神症状を出す神経回路が強化されていき、ほんのわずかの辛さでも精神症状を出すようになります。そればかりでなくストレスホルモンが多く長く分泌されて、ホルモンの作用で脳自体が変化していきます。いわゆる精神疾患の状態になります。この状態になると回復が大変に難しいので、薬で症状を軽くしようとするようになります。精神科はこの段階の人の治療を行うところと思われます。

子どもの意外な”脳力”
 日系サイエンス10月号「子どもの意外な”脳力”」に
「子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力は、大人のように計画的かつ効率的に行動する能力と引き替えに失われていく」
という記載がありました。これは長年私が子ども達を観察してきて、強く感じることです。
 「子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力」とは、まさに子どもの心を能力という言葉で表現したものです。「大人のように計画的かつ効率的に行動する能力」とはまさに大人の心を能力という言葉で表現したものです。「引き替えに失われていく」とは大人の心になると、子どもの心を失ってしまうという意味です。
 子どもは”子どもが持つ能力”から、その子どもなりに学習をして、自分の能力を納得して伸ばします。その子どもが伸ばしていく脳の力は、初めの内、親や大人が希望する能力とは異なる場合が多いです。それでもその能力をどんどん伸ばしていったとき、最終的に親の思いに沿ったものになります。
 大人は”大人が持つ能力”を理解できます。大人は”子どもが持つ能力”に気づきません。大人は自分が子どもの時”子どもが持つ能力”を持っていたのですが、大人になると忘れてしまっているからです。大人は子どもに”大人が持つ能力”がない事実を気づくと、子どもに”大人が持つ能力”を身につけるように要求をします。それを大人は子育てだと考えています。
 大人は自分の成長の過程で、ある時期に急激に”子どもが持つ能力”から、”大人が持つ能力”に、自然に変化したことに気づいていません。今の自分を未熟にしたものが自分の子ども時代だったと考えています。
 自分が子ども時代に子ども特有の”子どもが持つ能力”を持っていたことを忘れてしまっています。子どもの能力は、”大人が持つ能力”が未熟なだけだから、訓練をして”大人が持つ能力”に近づけられると考えています。
 「計画的かつ効率的に行動する能力」は、社会生活をするのにとても有効で、便利です。今の社会はこの”大人が持つ能力”を持った人が活躍しやすいし、大人社会も好ましい人だとして優遇しています。
 子どもの「創造的に探求し柔軟に学ぶ能力」について、この能力に気づいていない大人が多いだけでなく、”子どもが持つ能力”は大人にとって直ぐに役立たないばかりか、必ずしも大人の求める結果が出ない(例えば学校での成績)ので、”子どもが持つ能力”を無視する傾向にあります。
 今の学校教育を含めて教育界の流れは、言葉で「子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力」を伸ばすように言っていますが、現実の学校教育は「大人のように計画的かつ効率的に行動する能力」を求めています。年齢が進めば進むほど、この要求を子ども達に強く求めています。
 それは未だ大人の心を持っていない子供達に無理な要求です。とても無理な大人からの要求に、子ども達はとても辛さを感じています。その辛さを回避するために、子ども達は可能な限り良い子を演じてしまいます。良い子を演じている子どもの姿を見て、大人は自分の要求が、教育が、子ども達のためになっている、子ども達に良いことをしていると判断をしています。
 多くの子ども達は大人からの要求で良い子を演じています。良い子を演じられない子どもは、親や大人から見て問題行動をします。病気の症状を出してしまいます。親や大人は子どもに無理なことを要求しているのに、親や大人は子どもに問題があると考えて、大人が考えついた問題点を正そうとします。
 子どもには問題点がないのに、問題点があると考えて子どもに関わる親や大人に、子どもは新たな辛さを感じるようになります。子どもはますます問題行動を生じたり、病気の症状を出すようになります。それでも親や大人は子どものために良いことをしていると判断をしています。
 子どもが良い子を演じ続けられて、そのまま大人の心になれたなら、良い子を演じていたことが習慣化してしまい、大人の心から辛さを伴わないで、無意識にでできるようになります(この事実があるので、大人は子どもにとって辛いことを要求し続けます)。
 子どもが良い子を演じられなくなると、子どもは親や大人から見て問題行動を起こしたり、病気の症状を出すようになります。今までとても良い子でどんどん能力を伸ばしていた子どもが突然問題行動を起こしたのですから、親や大人達は子どもに何か原因があると、原因探しをします。大人なりの原因を見つけます。
 親や大人達が子どもの問題行動の原因として見つけた物の多くは、子どもが良い子を演じていた結果生じた事柄です。その原因と考えたことをきっかけとして、子どもが良い子を演じられなくなった場合が多いです。大本の原因とは子どもが良い子を演じなくてはならなくなった原因まで遡る必要があります。
 その大元の原因で子どもがよい子を演じている経過の中で、子どもは他のいろいろな辛い経験をして、辛さに過敏になり(辛さには相乗効果があります)、辛さに耐えきれなくなって、よい子を演じられなくなったのです。

自殺や鬱病に起因する経済的損失
 この度、政府は自殺総合対策会議を開き、2009年の1年間の自殺やうつ病に起因する経済的損失がおよそ2兆7,000億円にのぼると発表しました。政府が自殺と鬱病をまとめて発表したのには、自殺の原因としてその大元に鬱病があると考えているのだと思います。
 その鬱病に関して、ほとんど全ての人が知らなくて、そして知らなくてはならない事実があります。それは鬱病という病態はありますが、未だに鬱病の原因が見つかっていないという事実です。世界中の医者は鬱病が存在すると信じています。今に研究が進むと必ず鬱病の原因が見つかると信じています。
 不登校、引きこもり、ニート、フリーターの子どもの問題に対応をしている医者として、私は鬱病の存在に疑問を感じざるを得ないのです。鬱病と診断されて投薬治療を受けていた子どもがいます。その子どもが苦しんでいる原因を見つけて、その原因から守ってあげると、子どもは鬱病の症状を出さなくなり、元気な大人となって社会に出て行けるようになります。つまり子どもに鬱病に相当する病態(鬱状態)は存在するけれど、鬱病は存在しないことになります。
 鬱状態を鬱病として投薬治療をして、鬱の症状が固定してしまい、大人になっても投薬治療を受け続ける人がいます。症状が軽くて鬱状態に気づかないで大人になり、大人になって鬱状態が悪化して、回復が不可能になった人がいます。無い鬱病を鬱病と信じ込むことで、多くの医療費と経済的な損失を被っている姿の可能性が高いです。

09年度問題行動調査
 文科省は09年度問題行動調査を発表しました。この調査の根底にある考え方は、「問題行動をする子どもが悪いから、問題行動をする子どもをどうにかしなければならない」というものです。
 動物実験をしてみると、類人猿を含めてどの動物でも、ストレス刺激を与えると、その動物はストレス刺激から逃げようとするし、ストレス刺激から逃げられないときには暴れたり、すくみの状態になってしまいます。心理学を研究している人なら、この事実をよく知っています。
 人間の大人は理性でストレス刺激への反応を調節する事ができますが、子どもはそれができません。動物と同じ反応をします。学校にストレス刺激が有れば学校から逃げ出そうとしますし、学校に行こうとしません(不登校)。学校にあるストレス刺激から逃げ出せないときには、子どもは暴力行為やいじめをします。
 この生物的な子どもの反応を理解すれば、子どもの問題行動は子どもをに問題行動をしないように教育するのではなくて、子どもを取り巻く環境を変えて、子どもにストレス刺激を与えないようにするしかないです。子どもに加わるストレス刺激をなくせないなら、子どもがそのストレス刺激から逃げる方法を考えてあげる必要があります。
 この事実をどうして大人は気づかないのか不思議でなりません。現在、この事実に気づかないで、子どもの問題行動をなくするという観点から、子どもを教育し直そうとなされています。それは子どもの問題行動が無くならないばかりか、増加し悪化する事が考えられます。

大人が子どもの心を分析
 子どもの行動を大人は自分の知識から分析して、理由をつけて解釈する傾向があります。心が元気な子どもについて、大人が自分の知識から分析し、解釈し、対応をすのは、それ程問題がありません。子どもの方で大人の対応に合わせてくれるからです(心が元気な子どものよい子を演じる)。
 けれど心が辛い子どもについて、大人が自分の知識から分析し、解釈したら、対応を間違えてしまう場合が多いです。心が辛い子どもは可能な限りよい子を演じてしまうか、自分を維持するので精一杯な子どもの場合、大人の要求に応えられないからです。心が辛い子どもについて、大人は子どもの問題行動が心の辛さを表現しているのだとだけ理解して、その辛さから子どもを守る対応を取る必要があります。
 子どもの行動を大人の知識で解釈しても、大人が解釈しているように、子どもが理解して行動をしていません。子どもは受けた刺激に無意識に反応しています。子どもの潜在意識からの反応をしています。この潜在意識から反応する仕方を、子どもの本心と表現します。けれど大人が子どもに説明を求めたら、子どもの知識から子どもはいろいろと理由を言うでしょうが、それは子どもの知識であり、子どもの本心ではないです。自分の体の反応を、その結果を、子どもが持つ知識から、大人に分かるように説明しているだけです。
 子どもは自分の潜在意識にある自分の本心を知る事はできません。子どもは自分の知識で潜在意識にある自分の本心を調節できません。大人も子どもの潜在意識にある子どもの本心を知る事はできません。そのできない大人が子どもの行動を大人の知識(多くは常識)から分析しても、子どもの本心に沿っていない場合が多いです。大人の知識から大人の行動を分析する場合、大人には当てはまる場合もありますで、大人の心の分析に用いられていますが、子どもの心の分析にはまず当てはまりません。
 知識の豊富な大人は、自分の知識からいろいろと分析をして、対応を考えています。それは子どもの心に多くの場合当てはまりません(所謂専門家という人の分析が心が辛い子どもに当てはまらない原因)。当てはまったと感じられたときには、子どもがよい子を演じて大人の要求に合わせた場合です。余裕がある子どもにはそれでも良いのですが、心が辛い子どもや心にはとても辛い事になります。
 心が辛い子どもについて、大人は子どもの状態を理由をつけて解釈するのを止めて、素直に子どもが辛いのか、楽しいのか、それだけを判断して下さい。それだけで対応をしてあげて下さい。常識に反しますが、大人は知識から考えて子どもへの対応をしないで欲しいです。
 特に母親は、自分の子ども達一人一人が喜ぶように、楽になるように、対応をする必要があります。子ども達から見たら母親だけは他の大人と違うのです。心が辛い子どもから見たら、母親は子どもの辛さを知って、それから守ってくれればよいです。そこには理屈は必要ないです。
 子どもの心が元気そうに見えても、子どもが辛さを回避するためによい子を演じている場合がありますから、大人の目が届かないところで子どもがどのように行動しているのかも注目する必要があります。特殊な場合(母親が子どもを暴力や過剰な要求をすることで苦しめている場合)を除いて、母親の前で子どもはよい子を演じない傾向にあります。母親は自分の目の前の子どもの姿から、子どもの心が辛い状態にあるのかないのかを判断する事ができます。

自閉症診断”の危うさ
 2011年1月号の日経サイエンスで、「自閉症”治療”の危うさ」が紹介されていた。それによると、アメリカでは自閉症の診断数が増えてきている。その自閉症と診断された子ども達の75%が代替医療を受けている。自閉症治療での安全性や有効性が全く確かめられていない薬が投与されている事実が報告されていた。
 この記事では、自閉症治療の危うさを強調していても、自閉症診断の危うさには全く触れていません。自閉症診断の危うさがあるから、自閉症治療の危うさが生じている事実に気づいていません。自閉症と診断されている子ども達は、自閉症という概念で表現できても、その内容は、子どもの心の中は、大きく異なっているという事実を意味していると考えられます。
 人の反応の仕方(性格)として外向的、内向的と、二つの方向に分けて考える考え方があります。その内向的の一番端に、所謂自閉的と表現される性格があります。現代の複雑な人間社会の中で、自閉的な性格が社会生活の障害になっている事実があるので、自閉症という概念ができあがりました。ですから、どこまでが内向的で、どこまでが自閉的で、どこから自閉症なのか、明確な境目が有りません。
 そこで考え出されたのが専門家です。専門家の精神科医が自閉症がと診断ときには、自閉症だと全ての人が認める事になる仕組みです。精神科医が自閉症と診断する根拠は、精神科医が経験から自閉症だと感じただけで、客観的な根拠はありません。何故子どもが自閉症の症状を出すようになるのか、現象面では少し分かってきていますが、その原因や脳内での仕組みは、科学的に全く分かっていないからです。
 自閉的な子どもでも、自閉症と診断された子どもでも、子どもの周囲と関わろうとする動きは必ずあります。その動きも病的と判断されても、その動きを妨げないで、その動きが発展していくのを待っていると、子どもは自閉的な傾向からだんだん外向的な動きが増えていき、最終的には普通と感じられるまでになっていきます。
 普通と感じられるまでになるには、何年もの根気がいる対応が続きますが、その何年もの間、親は「本当にこれでよいのか」という不安を抱え続けますが、最終的に親も納得がいく子どもになっています。それが本当の子育てだと私たちは気づいています。

心が辛い子どもと母親(または母親に相当する人)との信頼関係の強さ
 トラウマ(辛さを生じる条件反射。その条件刺激を回避できない事が多い)から辛くなっている子どもと母親との信頼関係の強さです。子どもと母親との信頼関係はいつも一様ではないです。その時々で変化をしていきます。
 心が元気な子どもや、子どもが何かに挑戦する際の辛さを経験している場合には当てはまりません。
 経験的に、子どもが出す症状の程度はその重篤度から、
1)ODや自傷行為をする > 2)病気の症状を出す > 3)荒れて物を壊す、親に暴力をふるう > 4)万引きなどの社会に向かって問題行動をする > 5) 特に症状や問題行動はないがどことなく活力がない > 6)表情も良く、自発的で活動的(母親の前では特別の場合を除いて、子どもは良い子を演じない。特別の場合とは母親が子どもを虐待しているとき)
となります。
1)子どもが母親を信頼していないとき
子どもがODや自傷行為をするときや辛い病気の症状を出しているとき、子どもは母親を信頼できなくなっています。これらの子どもの行為や症状は、大人の常識的から子どもが心の病気だと考えてしまいます。母親との間の信頼関係は築けません。子どもとが本能から母親を信頼しようとしてもできないときです。
2)子どもが母親を信頼しようとしても十分に信頼できないとき
子どもが荒れて物を壊したり、親に暴力をふるったり、万引きなどの社会に向かって問題行動をするときには、子どもの性格に問題があると考えたら、子どもの母親への信頼感を失います。子どもが母親に自分を理解して、というメッセージを送っていると考えるべきです。または、母親がどれだけ自分を信頼してくれているかテストしていると考える事もできます。
3)子どもが母親を完全には信頼できていないとき
子どもが母親が信頼できてくると、子どもは荒れなくなりますが、意欲的な動きがあまり大きくありません。どことなく子どもに元気がない。家に引きこもってうずうずしている。未だ母親に子どもなりの辛さを言葉で訴えています。親は子どもを元気づけようとするのが常識ですが、それは子どもを辛くしてしまいます。親は子どもの訴えを聞き続けて、子どもの要求だけを叶えようとする必要があります。
4)子どもが母親を完全に信頼している状態
子どもはその子どもなりの動きをどんどん始めます。自分を否定する行動や言動が無くなります。母親の失敗を笑って許してくれます。常識的な対応が母親にも許されます。

教育界の焦り
 19日朝7時からのNHKのテレビニュースで世界の大学のランク付けが放送された。それによると外国の大学が上位を占めて、東大や京大がかなり下位ランク付けされていた。日本の多くの大学が新興国からの優秀な大学生を得て、教育している事実が報道されていた。日本の教育界が日本人の子ども達を教育しきれていない姿がかいま見られていた。
 最近ノーベル賞を受賞する人が日本からも排出している。小中学生の学力は世界でも屈指のレベルである。それなのに大学の教育水準を維持するために、大学が日本の学生に十分に期待してない理由を考えてみる必要がある。それは日本の学生が大学に入学するので精一杯で、大学でその学生なりの能力を伸ばそうとする意欲に欠けている事実は以前から指摘されてきていることで説明がつく。多くの大学生が、大学を単に就職のための足場に利用しているだけになっている。
 小中学校でゆとり教育から、詰め込み教育に変化しようとしている。それは目先の学力を上げるのに役立つかもしれない。極一部の子どもは選ばれた子どもとして能力を伸ばせられるかもしれないけれど、多くの子ども達は目先の学力を上げるので精一杯になり、大学に入学したらますます学習意欲をなくするであろう。多くの子ども達の心を荒廃させていくだろう。ではゆとり教育がよいかというと、ゆとり教育を行うためには、一人一人の子どもに対応できる教育の指導者が必要であるが、今はその準備ができていない。
 現在の物質的に豊かな日本に求められているのは、大学の世界ランクを上げる事ではない。小中学生の学力レベルが世界屈指である事でもない。学習をされられる子どもを作り出すのではなくて、自ら学習をしようとする子ども達、自ら社会活動をしようとする子ども達を生み出す事である。
 今までの集団の教育とは違って、今までの教育システムとは違って、子ども一人一人の将来を見据えた子育て、教育を応援する事にある。学力を上げる教育から、学習しようとする意欲を生み出す教育に変わる必要がある。そのためには今の何倍かのお金が必要になるであろう。教育界を再編成する必要があり、目先の結果が出ないであろう。それでも将来の日本を世界一流の国としてしょって立つ多くの人を生み出すのに必要である。
小学校6年の女子児童が自殺
 群馬県桐生市の市立小学校6年の女子児童が自殺した問題を、ニュースから得られた情報から考えてみます。
 父親が「6年生になってから10回以上、いじめがなくなるよう担任に相談したが、具体的な対策は示されなかった」と学校の対応を批判しています。ニュースで見る限り、学校は場当たり的な対応しかしていませんでした。校長も「いじめ判断できず」と釈明しています。担任がいじめだとはっきり認識していたら、もっと違う対応をしていたと思います。親からいじめがあると指摘されても担任は問題となるほどのいじめを認識していなかったと考えられます。
 担任がいじめだとはっきり認識しなかった理由として
 1.担任がいじめを見つける能力がなかった
 2.担任が気づかないところでいじめが行われていた
 3.いじめが遊びの形で行われるので、担任はいじめだと気づきようがなかった
などが考えられます。校長は「事実確認を進めたい」と言っています。担任がいじめを見つける能力がなかった場合と、担任が気づかないところでいじめが行われていた場合には他の生徒達の話を聞く事で、いじめが有った事が分かります。いじめが遊びの形でなされていた場合には、当人以外にいじめを認識する事が大変に難しいです。
 児童は母親に「もう学校に行きたくない」と涙ながらに訴えたといいます。しかし親は児童の不登校を認めないで、親は学校にいじめが無くなる対応を頼んでいます。担任は児童が酷いいじめを受けている事実を認識していませんでしたから、目先の対応しかしなかったのです。その結果として一番辛いのはこの児童でした。不登校をさせてもらえないなら、転校を希望したのですが、卒業まで耐える事を親から求められたのです。学校を休んではいけないという親の常識が児童をいじめから守れないで、児童が自殺をしなくてはならないほど追いつめられてしまったのです。
 「担任が元の席で食べるよう指導しても、児童たちは言うことを聞かなかったようだ」と親が証言しています。それは担任に指導力がなかったからと常識的には考えられます。それだけでなく、多くのいじめでそうなのですが、担任の学級運営が子ども達を辛くして、子ども達がその辛さを解消するために、自殺した児童を遊び道具にしたのだと考えられます。ですからいじめに加わった同級生達はいじめたという思いはありません。学校生活を楽しんでいたのです。遊び道具にされた児童はそれをいじめとして反応して辛くなっていました。報道では給食で孤立していたという事例しか述べられていませんが、それでも孤立して苦しむ児童を見て、他の同級生達が楽しんでいた可能性があります。
 ある母親からの質問です。
「不登校で引きこもり、辛い病気の症状を出していた子どもが元気になってきました。今は病気の症状が無くなり、毎日漫画の原稿を書いています。いつ頃学校に行かせるようにし向けたらよいでしょうか?」
 この子どもは心が落ち着いてきて、だんだん元気になってきています。心が元気になってきたから、不登校になる前のように漫画を書けるようになりました。漫画を書けるようになったという事実を別の見方をすると、その子どもはだんだん元気になってきて、やっと漫画を書ける程度の元気さになったのです。今のその子どもは漫画を書くので精一杯という意味になります。
 この子どものように心が辛い子どもでは、それ以上のことはできないし、それ以上の事を期待してはいけないという意味になります。この子どもにそれ以上のことを期待したり求めたりすると、漫画すら書けなくなります。漫画を書けるようになったから、不登校になる前の子どもと同じになったと考えたら、大間違いになります。
 この事実を親はしっかりと理解して下さい。もちろん心がもっともっと元気になれば話は違ってきますが、現実に心はそう簡単に元気になれません。後何年かかかる場合が多いです。当然学校に行けませんし、行く事を期待してはいけません。また、子どもの心が元気になってきたら、子どもの方で漫画以外の方向へ動き出します。そして学校に向かって動くのは一番最後になります。
 文科省は09年度問題行動調査を発表しました。この調査の根底にある考え方は、「問題行動をする子どもが悪いから、問題行動をする子どもをどうにかしなければならない」というものです。
 動物実験をしてみると、類人猿を含めてどの動物でも、ストレス刺激を与えると、その動物はストレス刺激から逃げようとするし、ストレス刺激から逃げられないときには暴れたり、すくみの状態になってしまいます。心理学を研究している人なら、この事実をよく知っています。
 人間の大人は理性でストレス刺激への反応を調節する事ができますが、子どもはそれができません。動物と同じ反応をします。学校にストレス刺激が有れば学校から逃げ出そうとしますし、学校に行こうとしません(不登校)。学校にあるストレス刺激から逃げ出せないときには、子どもは暴力行為やいじめをします。
 この生物的な子どもの反応を理解すれば、子どもの問題行動は子どもをに問題行動をしないように教育するのではなくて、子どもを取り巻く環境を変えて、子どもにストレス刺激を与えないようにするしかないです。子どもに加わるストレス刺激をなくせないなら、子どもがそのストレス刺激から逃げる方法を考えてあげる必要があります。
 この事実をどうして大人は気づかないのか不思議でなりません。現在、この事実に気づかないで、子どもの問題行動をなくするという観点から、子どもを教育し直そうとなされています。それは子どもの問題行動が無くならないばかりか、増加し悪化する事が考えられます。
自殺や鬱病に起因する経済的損失
 この度、政府は自殺総合対策会議を開き、2009年の1年間の自殺やうつ病に起因する経済的損失がおよそ2兆7,000億円にのぼると発表しました。政府が自殺と鬱病をまとめて発表したのには、自殺の原因としてその大元に鬱病があると考えているのだと思います。
 その鬱病に関して、ほとんど全ての人が知らなくて、そして知らなくてはならない事実があります。それは鬱病という病態はありますが、未だに鬱病の原因が見つかっていないという事実です。世界中の医者は鬱病が存在すると信じています。今に研究が進むと必ず鬱病の原因が見つかると信じています。
 不登校、引きこもり、ニート、フリーターの子どもの問題に対応をしている医者として、私は鬱病の存在に疑問を感じざるを得ないのです。鬱病と診断されて投薬治療を受けていた子どもがいます。その子どもが苦しんでいる原因を見つけて、その原因から守ってあげると、子どもは鬱病の症状を出さなくなり、元気な大人となって社会に出て行けるようになります。つまり子どもに鬱病に相当する病態(鬱状態)は存在するけれど、鬱病は存在しないことになります。
 鬱状態を鬱病として投薬治療をして、鬱の症状が固定してしまい、大人になっても投薬治療を受け続ける人がいます。症状が軽くて鬱状態に気づかないで大人になり、大人になって鬱状態が悪化して、回復が不可能になった人がいます。無い鬱病を鬱病と信じ込むことで、多くの医療費と経済的な損失を被っている姿の可能性が高いです。
子どもの意外な”脳力
 日系サイエンス10月号「子どもの意外な”脳力”」に
「子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力は、大人のように計画的かつ効率的に行動する能力と引き替えに失われていく」
という記載がありました。これは長年私が子ども達を観察してきて、強く感じることです。
「子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力」とは、まさに子どもの心を能力という言葉で表現したものです。「大人のように計画的かつ効率的に行動する能力」とはまさに大人の心を能力という言葉で表現したものです。「引き替えに失われていく」とは大人の心になると、子どもの心を失ってしまうという意味です。
 子どもは”子どもが持つ能力”から、その子どもなりに学習をして、自分の能力を納得して伸ばします。その子どもが伸ばしていく脳の力は、初めの内、親や大人が希望する能力とは異なる場合が多いです。それでもその能力をどんどん伸ばしていったとき、最終的に親の思いに沿ったものになります。
 大人は”大人が持つ能力”を理解できます。大人は”子どもが持つ能力”に気づきません。大人は自分が子どもの時”子どもが持つ能力”を持っていたのですが、大人になると忘れてしまっているからです。大人は子どもに”大人が持つ能力”がない事実を気づくと、子どもに”大人が持つ能力”を身につけるように要求をします。それを大人は子育てだと考えています。
 大人は自分の成長の過程で、ある時期に急激に”子どもが持つ能力”から、”大人が持つ能力”に、自然に変化したことに気づいていません。今の自分を未熟にしたものが自分の子ども時代だったと考えています。
 自分が子ども時代に子ども特有の”子どもが持つ能力”を持っていたことを忘れてしまっています。子どもの能力は、”大人が持つ能力”が未熟なだけだから、訓練をして”大人が持つ能力”に近づけられると考えています。
 「計画的かつ効率的に行動する能力」は、社会生活をするのにとても有効で、便利です。今の社会はこの”大人が持つ能力”を持った人が活躍しやすいし、大人社会も好ましい人だとして優遇しています。
 子どもの「創造的に探求し柔軟に学ぶ能力」について、この能力に気づいていない大人が多いだけでなく、”子どもが持つ能力”は大人にとって直ぐに役立たないばかりか、必ずしも大人の求める結果が出ない(例えば学校での成績)ので、”子どもが持つ能力”を無視する傾向にあります。
 今の学校教育を含めて教育界の流れは、言葉で「子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力」を伸ばすように言っていますが、現実の学校教育は「大人のように計画的かつ効率的に行動する能力」を求めています。年齢が進めば進むほど、この要求を子ども達に強く求めています。
 それは未だ大人の心を持っていない子供達に無理な要求です。とても無理な大人からの要求に、子ども達はとても辛さを感じています。その辛さを回避するために、子ども達は可能な限り良い子を演じてしまいます。良い子を演じている子どもの姿を見て、大人は自分の要求が、教育が、子ども達のためになっている、子ども達に良いことをしていると判断をしています。
 多くの子ども達は大人からの要求で良い子を演じています。良い子を演じられない子どもは、親や大人から見て問題行動をします。病気の症状を出してしまいます。親や大人は子どもに無理なことを要求しているのに、親や大人は子どもに問題があると考えて、大人が考えついた問題点を正そうとします。
 子どもには問題点がないのに、問題点があると考えて子どもに関わる親や大人に、子どもは新たな辛さを感じるようになります。子どもはますます問題行動を生じたり、病気の症状を出すようになります。それでも親や大人は子どものために良いことをしていると判断をしています。
 子どもが良い子を演じ続けられて、そのまま大人の心になれたなら、良い子を演じていたことが習慣化してしまい、大人の心から辛さを伴わないで、無意識にでできるようになります(この事実があるので、大人は子どもにとって辛いことを要求し続けます)。
 子どもが良い子を演じられなくなると、子どもは親や大人から見て問題行動を起こしたり、病気の症状を出すようになります。今までとても良い子でどんどん能力を伸ばしていた子どもが突然問題行動を起こしたのですから、親や大人達は子どもに何か原因があると、原因探しをします。大人なりの原因を見つけます。
 親や大人達が子どもの問題行動の原因として見つけた物の多くは、子どもが良い子を演じていた結果生じた事柄です。その原因と考えたことをきっかけとして、子どもが良い子を演じられなくなった場合が多いです。大本の原因とは子どもが良い子を演じなくてはならなくなった原因まで遡る必要があります。
 その大元の原因で子どもがよい子を演じている経過の中で、子どもは他のいろいろな辛い経験をして、辛さに過敏になり(辛さには相乗効果があります)、辛さに耐えきれなくなって、よい子を演じられなくなったのです。
登校刺激
 小学4年生の女の子が不登校になって2ヶ月がたちました。不登校になった当初は、お腹が痛いと言ったり、頭が痛いと言ったりして、朝起きてきませんでした。日中は元気にテレビを見たり漫画を読んだりして、元気そうでした。
担任から電話がかかってきたり、母親が学校に行かそうとしたときには、とても不安状態になりました。母親が不登校の親の会に参加して、登校刺激は好ましくないことを知り、学校からの印刷物を止めてもらい、電話は母親の携帯にかけてもらうようにしました。
 女の子が落ち着いてくると、女の子は学校でいじめられていたことが学校に行けなくなった理由であることを教えてくれました。そこで母親は校長や担任と連絡を取って、いじめの事実を伝えました。いじめた子どもの親と子が家を訪ねてきて、いじめを謝罪してくれたので、いじめの問題は解決したと母親は思いました。
 母親はこれで子どもが学校に行けると思いましたが、子どもは一向に学校に行こうとしません。母親がその理由を尋ねると、「学校に行きたいけれど、どうしても行けない」と答えるだけです。母親は子どもを学校に連れて行こうとしましたが、不登校の親の会から、それは良くないと言われて、子どもを学校に連れて行くのを止めました。
 母親は子どもが学校に行きたい気持ちがあるから、朝時間になると子どもを起こして、将来のために学校に行くと良いことを話しました。しかし子どもはだんだん元気がなくなり、不登校の親の会と相談して、これらの登校刺激を全く止めました。現在は朝起きてくるのを自由にさせていますし、学校に関する話を全くしていません。
 クラスの友達が毎日、学校での出来事を書いた物や予定表を持ってきてくれます。励ましの言葉を書いた物を持ってきてくれたときもありました。友達が届けてくれたついでに、一緒に遊んでくれます。子どもはお便りと友達を待っているようです。休日には何人かの友達がやってきて、仲良くゲームをしたり、近くの公園で楽しそうに遊ぶことができました。その後学校に行く約束をしていたようです。
 母親は「登校刺激を止めたので、だいぶ元気になってきた。親切な友達のおかげで、子どもはますます学校に行きたいという気持ちを強めている。今に学校に行けるようになる」と感じていました。
 その後、子どもは一向に学校に行こうとしません。母親が何か言うと子どもは荒れて物を投げたり、壊したりします。部屋に籠もって、一日中ゲームをして過ごしています。母親は不登校の親の会の指導に従って、何も言わないで待っています。母親も辛さに耐えるので精一杯です。
 母親は不登校の親の会の指導に沿って対応をしていますが、子どもの心に沿った対応ができていません。子どもの心に沿った対応をしないと、子どもも辛いし、母親も辛くなります。子どもの不登校で辛い状態の解決が遅れてしまいます。
つらい子どもの心の本 白日社 1050円
頭が良い子に育つ   風詠社 1000円
を是非読まれて下さい。
子どもには精神疾患がない
 動物は辛いと、辛いところ方逃げようとします。辛さから逃げられないと、暴れます。暴れられないとすくみの状態になります。類人猿のすくみの状態は人の精神病にそっくりです。類人猿とほぼ同じ脳の構造を持っている人間でも、この事実は当てはまります。特に子どもではとてもよく当てはまります。
 いわゆる専門家達は認めようとしませんが、子どもが出す精神疾患の症状は、子どもの心が辛くて、その辛さから逃れられなくて出しています。子どもが辛くなっている原因を見つけて取り除くと、子どもが精神疾患の症状を出さなくなります。
精神疾患がなぜ生じるのか、未だに分かっていません。精神疾患を診断する客観できな病因はありません。医者がその主観から精神疾患だと言ったとき、その患者は精神疾患となってしまいます。
 ですから医者が精神疾患だと言っても、その患者が精神疾患だという客観的な証拠がありません。精神疾患でない可能性があります。特に子どもでは、上記のように辛さから逃れられなくて、精神疾患の症状を出していますから、精神疾患ではありません。
 人が辛さから逃れられないと精神疾患の症状を出すようになります。それは脳内の精神症状を出す神経回路が機能しているからです。辛さが無くなるとこの神経回路は働かなくなり、精神症状が無くなります。ほとんど全ての子どもはこの段階です。心療内科はこの段階の人の対応や治療を行うところと思われます。
 ところが頻回に辛さを経験すると、精神症状を出す神経回路が強化されていき、ほんのわずかの辛さでも精神症状を出すようになります。そればかりでなくストレスホルモンが多く長く分泌されて、ホルモンの作用で脳自体が変化していきます。いわゆる精神疾患の状態になります。この状態になると回復が大変に難しいので、薬で症状を軽くしようとするようになります。精神科はこの段階の人の治療を行うところと思われます。
2000年度文部科学白書
 2009年度版文部科学白書で、家庭の経済力の差が子どもの教育機会の格差拡大につながりつつある現状を挙げ、教育への公的投資の必要性を指摘した。その根拠として、09年度の全国学力テストの結果と大学進学率を用いている。
 学力テストは点数で能力を比較できるから、合理的な比較法に見えるけれど、小、中学校の学力テストの結果が、子ども達が大人になったときの能力を反映していない。不登校、引きこもりだった子どもが元気になって、大学生になって、大人になって、とてもすばらしい能力を発揮しているのを、私は多数経験している。
 大学進学率についても、無気力で遊ぶことしか考えない大学生が多い。多くの子どもは大学に行かない生き方が茨の道だから、楽な大学生になっている。また、大学を卒業して就職しても、会社をすぐに辞めてしまう若者が多い。
 昔の学校は子どもの学力を伸ばすことが、大人になったときのその人の能力を決めていたけれど、現在の子どもにはそれが当てはまらない。現在の子どもは学校に行かなくても社会人になったときに必要な学力を得られる。
 現在の子どもに必要なのは、意欲である。勉強をしてやろうという意欲、運動をしてやろうという意欲である。子ども達の意欲をのばすために、教育投資を増やすのなら子どもの成長に役立つけれど、現在のように学校や親が子どもの尻をたたいて、目の前のテストの点数を高めようとするような教育のあり方だと、子どもを無気力にするだけである。それが現在の教育の問題点である。
誰も僕の心を理解してくれなかった
僕を理解してくれなかった
 二十歳の男の子が電車に飛び込んで自殺をしました。遺書には「誰も僕のことを理解してくれなかった」と書いてありました。両親は遺書を見て、男の子を理解できなかったと、位牌の前で泣いて詫びていました。両親は男の子を理解できなくて、その結果男の子が自殺した事実を悔やんでいました。
 男の子は中学一年生の三学期から学校に行かなくなりました。両親は男の子が学校に行けないのは可愛そうだからと考えて、学校内での問題点を解決して、男の子の問題点を解決して、男の子を学校に行かせようとしました。学校や相談機関と相談して、一時は男の子を無理矢理に自動車に乗せて、学校まで連れて行ったこともありました。けれど男の子が荒れて抵抗をするので、無理矢理に学校に行かせようとする対応を止めました。
 両親は医者と相談したところ、精神病の疑いがあると言われ、男の子を受診させようとしました。男の子は受診拒否をして病院に行こうとはしませんでした。そこで病院の職員の力を利用して、無理矢理に男の子を自動車に乗せて、入院させました。それ以後男の子は両親を拒否し、荒れ続けたので、強引に薬で暴れないようにされました。
 両親は医者が言うように、今に治療の効果が出て、男の子が元気になることを信じ続けました。無表情の顔、緩慢な動作、ろれつがうまく回らないで、ゆっくりとした言葉、これらは病気の症状だと考えて、男の子を一生懸命病院に通わせ続けました。薬を飲ませ続けました。そのうちに一人で外出できるようになったので、両親が喜んでいたら、男の子は電車に飛び込んだのです。
 両親は男の子を理解してあげられなかったことを後悔していると話してくれました。そこで私が男の子の何を理解してあげられなかったのですか?と質問をしたところ、男の子を両親が理解しようとしていなかったからと言いました。両親は男の子のために一生懸命努力したけれど、ただ一つ足らなかったのは、男の子を理解しようとする姿勢が無かったと、そのために男の子は自殺したと考えていました。
 両親が男の子を理解しようとする姿勢があったら、男の子は自殺をしなかったでしょうか?男の子は誰も男の子を理解してくれなかったと言っています。”誰も”という言葉から、男の子を理解しなかったのは両親であり、学校の先生であり、相談機関の人であり、医者や病院関係者だったと男の子は言っています。
 両親の対応は男の子の心に沿っていなかった。両親は男の子が辛くて拒否をしていた学校に、親の間違った推測から、子どもを無理矢理に学校に行かそうとしました。
 学校の対応が男の子の心に沿っていなかった。相談機関の人の対応が男の子の心に沿っていなかった。男の子が学校で苦しんでいるのに、その苦しんでいる学校に男の子を行かせるようにと、学校に行かないと男の子の将来が無くなると親に説明しました。
 医者の対応が、治療が、男の子の心に沿っていなかったという意味です。男の子は病気でもないのに、医者により病気と決めつけられて、男の子が飲みたくない薬を、男の子の立場から言うなら、飲んではいけない薬を、無理矢理に飲ませて、男の子の人権を踏みにじりました。
 これらの男の心に沿わない対応や治療で、男の子は苦しみ続けて、この世の中に男の子の居場所を見つけられなくなっていました。
 これらの男の心に沿わない対応を許可し、治療をさせ続けた両親に、男の子の心を理解してくれなかったという遺書を残したのです。
号令で動く子ども達
 混んでいる電車の中で、高校生ぐらいの子ども達のグループが椅子に座って、わいわいがやがややっていました。引率の大人が「みんな立って、席を譲りましょう。」と言ったところ、子ども達が椅子から立って、通路に立っていた大人達に席を譲りました。私も、他に空いた椅子に掛ける大人がいなかったので、「有り難う」と言って掛けさせてもらいました。
 私の側に掛けたご婦人が「素晴らしい子ども達ですね。このような若者達が居ると思うと、日本の将来が明るいですね」と言いました。私も「そうですね。」と短く答えて、それ以上のことを言いませんでした。その車中にいた大人達は腰掛けられて、子ども達に感謝をしていたでしょう。しかし素晴らしい子どもという評価にどことなく違和感を感じました。
 確かに席を譲らないよりは譲る子どもの方が、私たち大人から見たら好ましい子どもでしょう。しかし自分たちの前に年配の人がいるのに、号令を受けるまで席を譲ろうとしない子ども達を、私は必ずしも誉めるわけにはいかないと感じていたからです。本当に素晴らしい子どもなら、本当に心が優しい子どもなら、号令を掛けられなくても席を譲るはずだと思ったからです。
 運動会などで、号令に従って機敏に動く子ども達を見るのは、頼もしいです。良くここまで練習に耐えて、上手に動けるようになったと感心します。しかし日常生活は別です。指示を受けたらその通りにできることも大切ですが、指示を受けなければ動けない大人がいます。自己中心的で、その人らしい意志がない大人、指示を受けなくては動き出そうとしない大人が世の中に多いように感じます。心が元気な子ども達についてですが、他人に何かを言われる前に、自発的に自分の意志から動くような子供が増えてくれることを願うのは私だけでしょうか?
 子どもの心から言うなら、学業で競わされているという今の学校教育のあり方が、教師が授業を優先する学級運営の仕方が、子ども達を苦しめています。この学校や教師のあり方が子ども達を苦しめている事実は昔からあったのですが、昔は子ども達が学校から離れた時に、その学校での辛さを解消する方法がありました。学校が終わると子ども達は自由にその子どもなりに、学校の辛さを解消して、又翌日学校に行けたのです。
 ところが現在の子ども達は学校を終えても大人によって管理されていて、学校の辛さを解消する方法を持っていません。その結果、大人は気づかないけれど、苦しくなった子ども達が他の子ども達に学校でいじわるをするいう事実があります。大人から見たらとても虐めだとは感じられなくても、既に心が辛くなった子どもは、他の子どもから受けた意地悪を虐めだと感じて反応しまいます。
 この学校内の問題を、学校を終えてからの問題を解決する政策が、日本ではなされていません。教師も気づいていないから、学校内で学校を楽しくする様な対応(一部の教師は気付いていて、授業を工夫して楽しくしようとする試みがなされている)は行われようとはしていません。多くの親も子ども達が学校で辛い思いをしている事実に気付いていません。
 親は子どものために、子どもの成績を上げようとして一生懸命ですから、子ども達は家でも辛さを解消できないばかりか、家でも辛さを強めていく場合もあります。翌日学校に行ったとき、既に辛さに敏感になっていますから、学校内での辛さ、同級生から受けるいじわるに、子どもはとても辛く成りやすくなっています。学校に行き渋ったり、学校で意地悪をするようになります。
 子どもが学校で辛くて耐えきれなく成ったとき、子ども達の中には学校内で暴れたり、授業を妨害するような、問題行動をする子どもが出てきます。このような子どもは問題行動をするようになる前に、母親の所に逃げて、辛い子どもの心を癒すようにすることが必要です。母親が逃げてきた子どもを抱きしめて、「辛かったね、よくここに逃げてきてくれたね」と言って頬ずりをしてあげて、子どもの好きなことをさせてあげる必要があります。可能な限り、母親の側で子どものわがままをさせてあげると良いです。子どもが辛さを表現しているときには、教育だ、躾だというようなことを、母親を考えてはいけません。教育や躾は子どもが元気になったら、子どもが自分でつけていきます。
 子どもが学校で問題行動を起こしたとき、常識的には教師が子どもを叱ります。しかし子どもは辛さを問題行動で表現していたのですから、その辛さの表現を力で禁止されると、子どもはかえって問題行動を強めます。問題行動をした子どもは精一杯自分を維持しようとしていて、耐えきれなくなって問題行動をしたのですから、叱られるとますます子どもは辛くなり問題行動を強めてしまうのです。
 今の子ども達は学校で心が辛く成りやすい事実を理解する必要があります。学校では子どもの心が辛くならないような教育の仕方が必要です。家庭では学校で辛くなった子どもの心を癒す対応が必要です。教師は教育に一生懸命で、子どもが学校で辛くなっているという事実を理解しようとしないから、叱ることで子どもの問題行動を解決しようとすると、ますます子ども達は問題行動を起こすようになります。
 その際に、未だよい子を演じられる子どもは、叱った教師の前ではよい子を演じて教師の指示を受け入れたように振る舞います。よい子を演じる限界に来た子どもは、叱った教師に向かって荒れてしまいます。
 子どもが学校内で問題行動を起こしたとき、子どもを叱らないと、子どもの問題行動が習慣化します。ですから母親以外の大人は問題行動を起こした子どもを叱る必要があります。母親は母親であること自体が子どもにとって喜びですから、必要以上に子どもを叱らない限り、母親の持つ感性で子どもへの対応が可能です。
 母親以外の大人は問題行動をした子どもを現場から隔離して、隔離した場所で子どもが辛かったことに共感してスキンシップをする必要があります。まず辛かった子どもの心を癒しておいて、その後問題点を指摘します。そうして子どもを辛くない状態で、問題点を認識させる必要があります。
 学校で問題行動を起こした子どもも、母親から癒されたい、認められたいと願っています。しかし家で母親から癒されていないから、学校で辛さに過敏に反応しています。現在の母親は子どもが学校で辛い思いをしている事実を感じ取って、子どもの辛い心を癒すようにしなければ成りません。子どもが学校に行っている限り、母親は家庭での教育よりも子どもの心を癒すことを優先させる必要があります。
 この事実をふまえて、学校で問題行動を起こす子どもを、普段から積極的に癒して、認めていく必要が、子どもの周囲の大人にはあります。それをどうやって子どもに与えるか、それは子どもによって、周囲の大人の立場によって異なります。大人の方でその大人なりの工夫が必要です。
チックについて
 チックとは、ピクピクっとした素早い体の一部が動くとき、その動きをチックと表現します。本人の意思とは関係なく生じ、多くは繰り返しおきてしまいます。多く見かけるチックとして瞬目があります。そのほかにも、肩をぴくっと動かす、頭や首をふる、顔をしかめる、口を曲げる、鼻をフンフンならす、などがあります。それらの動きを本人は意識していません。声や言葉のチックもあります。ため息、咳払い、言葉(多くは他人が嫌がるような)もあります。他人から止めさせようとすると、その時は止まりますが、その後換えって頻度や程度が強くなります。
 傾向として幼児からの子どもに多く見られます。不安、ストレス、緊張、心の葛藤などがきっかけでおきます。その原因がなくてチックを生じている子どもがいると言う人もいますが、私が経験する限り、全て何らかの不安、ストレス、緊張、葛藤から生じています。大人で見られるチックには、子ども時代のチックが習慣化していると理解される場合があります。
 多くの子どものチックは、精神的なストレスや緊張感から生じています。それも精神的なストレスや緊張感が、その子どもの耐え得る限界に近づいていることを示しています。その精神的なストレスや緊張感は、子どもが置かれている状態や子どもの心の状態で異なりますから、一時的にチックを生じたり、消失したりします。精神的なストレスや緊張感があるときに、一部の子どもがチックの形で、その精神的なストレスや緊張感を表現しています。
 チックを生じている子どもを、精神的なストレスや緊張感から守られないと、子どもはもっと強い神経症状や精神症状を出し、子どもとしての社会生活を営めなくなります。又強い神経症状や精神症状を出している子どもを元気にするには、大変に難しくなります。子どもの心を守り、成長をさせるためには、チックのでない対応や環境で、子どもを育てる必要があります。
 子どものチックを薬を含めて医療で解決しようとする人が多いです。それは一時的にチックを無くすせますが、その後強いチックや、神経症状、精神症状を出すようになります。子どもがチックを生じるにはチックを生じるだけの、子どもの心が辛くなっているという原因があります。その原因を薬や医療では解決できないからです。それどころか薬や医療でチックが隠されている間に、子どもの心の辛さが益々高じてしまって、強いチックや、神経症状、精神症状を出すようになってしまうからです。 
 強いチックや神経症錠、精神症状を子どもが出すようになると、子どもが精神的なストレスや緊張感からチックを出していたことは無視されて、精神疾患として医療の対象となり、薬を投与し続けられ、精神病者として生きていかなければならなくなります。
 このチックに関する理解は医学常識に反しています。チックに関する医学常識には科学的な根拠がありません。チックに関する脳科学的な理解をすると、私のような結論になります。
学校で問題行動をする子ども(1)
 教室で暴れたり、授業に参加しなかったり、授業を妨害したり、他の子どもの物を取ったりなどの、問題行動をする子どもについて考えてみます。殆ど全ての教師達や大人達は、子どもが学校で問題行動をするのは、親が子どもを甘やかしすぎているとか、家が貧しくて日々の生活で精一杯だから子どもの躾まで手が回らないとか、夫婦関係が悪くて子どもに悪影響を及ぼしているとか、家庭での子育てに問題があると考えます。子育てができていないから、子どもが学校で問題行動をしてしまうと考えます。
 問題行動をする子どもについて、家庭の問題を最優先に解決する必要があると考えます。家庭の問題が解決しないなら、子どもの問題は解決しないと考えます。しかし実際には、学校生活が楽しい子どもは家庭に問題があっても、その問題をその子どもなりに解決して、元気で成長をしていきます。学校内で問題行動をしません。
 授業中歩き回ったり、大声を上げたり、物を壊したりする子どもは、学校内での生活が辛いから、このような問題行動をしてしまいます。多くの子どもは学校内で辛いものがあっても、その辛さを家に帰って母親に癒されるから、学校内で問題行動を取るようになりません。学校内で問題行動をする子どもの問題を解決したいなら、第一に子どもにとって学校を楽しくしなければなりません。第二に子どもの母親に、その子どもの辛い心を癒す機能を呼び起こさせる必要があります。
 学校を楽しくすると言っても、教師や多くの大人は、今の学校が問題だと考えていません。教師は子ども達のために一生懸命働いています。学校が子どもを苦しめるはずがないと考えています。教師達は悪くない、学校も悪くない、だから問題行動をする子ども自身が悪いと考えています。教師達に都合の良い子ども達を尊重して、教育の成果を宣伝して、都合の悪い子ども達を力で押さえ、卒業まで外見上問題な事が無いようにと力で子ども達を押さえつけて、卒業という形で子ども達を学校から押し出します。
休み時間
 学校の先生方は認めないでしょうし、理解しないでしょうが、授業中の多くの子ども達は”よい子”を演じています。良い子とは、普段の素直な子どもの姿とは違って、相手の期待する姿に自分を合わせて行動する姿です。授業を楽しんでいる子どもは普段の素直な自分で反応し行動しますが、多くの子ども達は先生から良い評価を得るためによい子を演じています。心が辛い子どもで、よい子を演じる余裕がない子どもは、授業中でも問題行動を起こします。一般的に先生や親が希望する姿の逆をすることが多いです。
 心が元気な子どもはよい子を演じることで、ますますその子どもの能力を高めてくれます。心が辛い子どもはよい子を演じることで、とても無理をしています。大人にはその様に見えないでしょうが、ぎりぎりまでよい子を演じ続けています。そして休み時間や放課後に、その子どもなりの楽しみに耽って、その無理を取り返そうとします。
 休み時間や放課後に、子ども達は先生方から評価されません。子ども達は評価されない時間時に、素直な子ども達の姿で生活しようとします。素直な姿でその子どもなりに休み時間を過ごせたなら、子どもは意欲的に授業に参加できます。他の子どもにもとても優しいです。休み時間は子ども達が学校の中で素直に本心から過ごしている時間です。子どもの本当の姿を知る絶好の時間です。
 今の学校で子ども達はとても多くのことを要求され、その結果を評価されています。授業中によい子を演じなければならないから、心に余裕がない子ども達が多いです。学校としてはとても許さないでしょうが、今の学校では、子ども達が素直に過ごせて、子ども達が素直な自分を取り戻せる時間がもっともっと必要なのです。子ども達は評価されることで、よい子を演じてしまいます。それは先生のためでなくて、先生の後ろにいる母親のためです。
 心の元気な子どもはよい子を演じることで、自分の能力を伸ばすことができます。心が辛い子どもは自分を守るためによい子を演じます。よい子を演じ続けられている間は、心が元気な子どもと心が辛い子どもとを区別することは不可能に近いです。そしてよい子を演じなくて良くなる時間に、問題行動を起こすことが多いです。
 先生達は授業中の子ども達の姿を見て、子ども達の心を判断しています。先生達の見ている子ども達は、良いにつけ悪いにつけ、よい子を演じている姿です。先生方は子ども達がよい子を演じている姿を見て、子ども達の本当の姿を理解していると信じているのです。先生達が子どもの本当の姿を知りたければ、休み時間の子ども達の姿を、先生なりの評価をしないで、見ている必要があります。
子どもを正しく理解する
子どもの心を正しく理解する
 正しいという言葉は魔物です。子どもの心を正しく理解したと思っても、子どもを観察している人が、その人の経験から正しいと思っただけです。その正しいと思ったことに共感する人が多くいても、現実には子どもの心について、正しさを証明する方法がないです。子どもの心には正しさなど無いと考えた方が間違いがないかも知れません。
 子どもの心はこうなっているとか、子どもとはこうあるべきと言う大人の考え方は、大人の希望的な観測であり、一部の子どもに当てはまりますが、全ての子どもに当てはまりません。正しいという概念で子どもの心を見たときには大失敗をしますし、一人一人の子どもの心を理解できません。子どもへの対応で子どもが苦しむようになります。
 子どもは自分の心で成長し、自分の心も成長させていきます。子どもの心は子どもが置かれている環境で千差万別です。子どもへの対応を行うときには、子ども一人一人の心に沿った対応が必要です。子ども一人一人の心に沿った対応は、ある子どもの心に沿った対応でも、他の子どもには好ましくない場合があります。
 子どもの心に沿った対応は、その時々の子どもの心の動きを推測して行います。子どもの心に沿っているかどうか、子どもの反応(表情や行動)から判断します。言葉も子どもの心を反映している場合もありますが、多くは子どもの知的な理解を表現しているだけです。子どもへの対応で、その子どもが元気になってくれば、その子どもの心に沿った対応であろうと思われます。その子どもへの好ましい対応になります。
 子どもへの対応が好ましいかどうか(対応が子どもの心に沿っていなくても、子どもの方でその対応を受け入れられるかどうか)、対応をする人によってその許容範囲が大きく違います。その許容範囲は、子どもの母親が一番大きくて、その他の人にはとても厳格です。学校の先生について一見子どもの許容範囲が大きいのは、子どもが先生の後ろにいる母親に無意識に反応しているからです。
 学校で問題行動を起こす子どもには、その子どもの母親が母親の機能を果たしていません(学校で辛くなった子どもの心を、母親が癒そうとはしていないという意味です)。その子どもは先生の後ろの母親を配慮していません。ですから担任にとても厳しいです。とても強く反応して、無意識に問題行動を起こしてしまいます。一方で、その子どもは自分の辛い心を何かで癒そうとします。その子どもの辛い心を癒そうとする行動が、大人が正しいと思っている対応で否定されると、その子どもは益々辛くなり、問題行動を強めたり、病気の症状を出したりします。
 ある小学校で子どもが荒れて、授業が成り立たなくなりました。学校は男の先生が荒れる子どもを力で押さえつけたり、親が学校に来て子どもを監視するという方法を採りました。それで一見子どもは大人しくなったように見えましたが、男の先生がいないとき、親がいないとき、その子どもはより一層荒れてしまいました。そこで担任は教室の一角を区切って、その子どもが自由に過ごせられる場所を作りました。子どもが荒れ出したら、その子どもをその場所に導いて、そこでその子どもが自由に過ごせるようにしました。それ
」だけで根本的な解決には成りませんが、少なくともその子どもの荒れ方が減って、授業ができるようになりました。
 子どもの心について、正しいと考えられる物は生物学的な心、脳の機能を科学的に解析した事実だけでしょう。どの子どもにも共通して言える正しさとは、子どもが持つ本能、本能に含まれるかも知れませんが、嫌悪刺激に対する神経学的な反応の仕方だけでしょう。今の心理学や精神医学はこの脳の機能に基づく正しさを認めないで、大人の思いを子どもに押しつけていますから、子どもの心の問題が解決しないのです。
子どもの成長は順応の過程
子どもの成長は順応の過程
 現在、多くの親は自分の子どもが無事に成長をして、幸せな大人になって欲しいと思っています。社会的にも、経済的にも自立した大人になってくれるようにと願っています。そのために子どもはいっぱい勉強をして、良い学校に入って、有利な就職をして欲しいと願っています。
 学校の方でも、子どもが好む好まざるに関わらず、カリキュラムに沿ってどんどん授業を進めていきます。テストで子どもの学力を測ろうとします。そこには必然的に競争を生じています。
 学校内で子どもは管理の対象になっています。子どもらしく学校生活を送るという建前になっていますが、実際は大人が決めた規則に縛られて、その中での子どもとしての自由しかありません。
 大人は競争社会で勝つための準備だと言います。社会生活をするための規則を学ぶためだと言います。子どもの中には、言葉で、一生懸命勉強をして、良い学校に入りたいと言う子どもがいます。しかしそれは子どもの本心からの言葉ではないはずです。親や教師の言葉を受け売りしているだけです。なぜなら、子どもは勉強をする意味、受験をする意味を知らないからです。大人となって出て行く社会の実態を知らないからです。当然一生懸命勉強をするという意味も知りません。子どもの姿は親や大人から求められたことを、その子どもなりに一生懸命実行しているだけです。
 子どもは、大人にはない、子どもだけが持っている本能として、その時その子どもを取り巻く環境に一生懸命順応しようとしているだけだからです。大人が競争を求めているから、その大人に順応するために、競争を始めているだけであり、子どもの本心から競争を求めているのではないです。
 子どもはその本能から、子どもの周囲と仲良くして、一生懸命色々な情報を吸収しようとします。決して競争を求めているのではないです。決して逸脱した行動をしようとはしていないのです。ただ、知識が少ないために、経験が少ないために、失敗をすることがあります。現在の大人は子どものこの失敗を許そうとしないのです。この事実を知っている大人は今のところいないようです。




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