お姉ちゃんはずるい
 小学5年生の姉が学校に行かなくなって半年がたちました。今は昼前に起きてきて一日中ゲームをしたり、テレビを見たり、漫画などの雑誌を読んでいます。小学2年生の妹は毎日元気に学校に通っています。その妹が最近姉を見て、「お姉ちゃんはずるい。好きなことばかりをしていて。」と言うようになりました。母親は姉の不登校をやっと認められるようになりましたが、妹を不登校にしたくなくて対応に悩んでいます。
 現在の子どもの成長の仕方には、学校を利用して成長する成長の仕方と、学校を利用しないで成長をする成長の仕方があります。学校を利用して成長をする成長の仕方は、今の日本では主流です。大多数の子どもが社会から守られて成長しています。学校を利用しないで成長する成長の仕方は、今の日本では認められていないと言って良いと思います。しかし間違いなく、かなりの数の子どもが学校を利用しないで成長をして大人になっています。学校を利用しないで成長をする成長の仕方は、今の日本では大変に困難を要する成長の仕方です。
 妹は学校に行っていますから、不登校ではありません。しかし心の中は不登校になっています。学校が辛くなっていて拒否をしていますが、まだ学校を拒否する度合いは弱いです。親から学校に行って欲しいという願いと自分も学校に行かなくてはならないという思いに押されて学校に行き続けています。学校では良い子を演じていますから、教師も親も妹が不登校だという事実に気づきません。しかし良い子を演じるのにも限界が近づいてきていますから、「お姉ちゃんはずるい」というサインを出しました。この妹の言葉を妹が怠けたがっていると理解したら、妹が学校を利用して成長をする成長の仕方を失います。
 不登校にもいろいろな程度があります。学校を拒否する程度が弱いと学校に行ってしまいます。学校を拒否する程度が強いと学校を意識しただけでも辛くなり暴れたり、病気の症状を出したりします。この妹のように学校を拒否する程度が弱い場合、一端学校を忘れてある期間を過ごすと、学校を拒否する程度がだんだん弱まっていきます。只単に学校を休んで家で楽しく過ごすことで又学校に行かれるようになります。
 多くの大人は子どもが学校を休みだしたら休み癖が着いて、それから以後学校に行かなくなるのではないかと心配します。子どもの立場から言うなら、学校を休んで家で楽しく過ごしていると、学校を意識しても辛くなくなります。学校が辛くなくなると、子どもは本能的に子どもの集団が好きですから、親が止めても学校に行くようになります。これは大人にない子ども特有の本能ですから大人にはなかなか理解できないようです。
 家の中が楽しいと、楽しくない学校に行かなくなるのではないかと心配する大人がいます。子どもの立場から言うなら、楽しさに慣れがあります。大人から見て楽しそうでも、子どもの方ではだんだん退屈になって、次の楽しさを求めるようになります。子ども同士で遊ぶ楽しさを求めて、少しぐらい辛い学校に行ってしまいますし、学校を休みだす前のような問題を生じません。
 学校を休んでいても、子どもに学校を思い出させたらそれだけで子どもは辛くなり、家の中で楽しく過ごしている意味が薄まります。家の中の楽しさに慣れが無くなります。家の中の楽しさを求め続けて、子どもは学校で子ども同士で遊ぶ楽しさを求めようとしません。いつまでたっても学校に行こうとしなくなります。多くの大人が一番嫌う子どもの不登校が長引きます。学校を利用して子どもが成長する成長の仕方が難しくなります。そうすると多くの親はますます子どもを学校に行かせようと焦ってしまいますから、その子どもはますます学校を拒否して、親をも拒否して、引き籠もったり、家の中で荒れたり、病気の症状を出して、心が元気な大人に成れなくなります。学校を利用しないで成長する成長の仕方ができなくなります。

千葉県の教育行政
 学校でのいじめが問題なので、千葉県教育委員会は道徳教育を強化しようとしています。人を思いやる気持ちを育むことでいじめを減らそうとする考え方は正しいです。しかし人を思いやる気持ちは日々の生活の中で育まれます。道徳教育として教室で教えると知識として身に付いても、気持ちとして育まれません。
 子どもの立場から考えるなら、道徳教育の強化で子どもらしさを否定されて、子ども達の心の締め付けになります。子ども達の心を締め付ければ締め付けるほど、教師の前では良い子を演じます。教わった道徳教育に沿って行動をしようと振る舞います。しかし教師がいないところでは全く別な行動をするようになります。時には全く逆な行動をすることを、教師は気づくべきです。
 今日まで、子どもの問題行動を解決するために、道徳教育が強化されてきています。子ども達はますます良い子を演じますから教師は安心します。しかし教師が居ないところで子ども達が無気力になったり、いじめなどの問題行動をしてしまいます。教師は良い子を演じる子どもを褒めますが、その良い子を演じる子どもの中からいじめなどの問題行動をする子どもが出て来て、教師は困っています。
 人を思いやる気持ちは日々の家庭生活や学校生活の中で作られます。親は学力ばかりに捕らわれないで、思いやる気持ちを実践してみせる必要があります。学校生活の中でも教師が実践してみせる必要があります。家庭でも、学校でも、言葉による指導は行われても実践はされていません。それは子ども達にとても根深い不信感を生じています。

心の距離
心が辛い子どもと母親(または母親に相当する人)との信頼関係の強さ
 トラウマ(辛さを生じる条件反射。その条件刺激を回避できない事が多い)から辛くなっている子どもと母親との信頼関係の強さです。子どもと母親との信頼関係はいつも一様ではないです。その時々で変化をしていきます。
 心が元気な子どもや、子どもが何かに挑戦する際の辛さを経験している場合には当てはまりません。
 経験的に、子どもが出す症状の程度はその重篤度から、
1)ODや自傷行為をする > 2)病気の症状を出す > 3)荒れて物を壊す、親に暴力をふるう > 4)万引きなどの社会に向かって問題行動をする > 5) 特に症状や問題行動はないがどことなく活力がない > 5)表情も良く、自発的で活動的(母親の前では特別の場合を除いて、子どもは良い子を演じない。特別の場合とは母親が子どもを虐待しているとき)
となります。
1)子どもが母親を信頼していないとき
子どもがODや自傷行為をするときや辛い病気の症状を出しているとき、子どもは母親を信頼できなくなっています。これらの子どもの行為や症状は、大人の常識的から子どもが心の病気だと考えてしまいます。母親との間の信頼関係は築けません。子どもとが本能から母親を信頼しようとしてもできないときです。
2)子どもが母親を信頼しようとしても十分に信頼できないとき
子どもが荒れて物を壊したり、親に暴力をふるったり、万引きなどの社会に向かって問題行動をするときには、子どもの性格に問題があると考えたら、子どもの母親への信頼感を失います。子どもが母親に自分を理解して、というメッセージを送っていると考えるべきです。または、母親がどれだけ自分を信頼してくれているかテストしていると考える事もできます。
3)子どもが母親を完全には信頼できていないとき
子どもが母親が信頼できてくると、子どもは荒れなくなりますが、意欲的な動きがあまり大きくありません。どことなく子どもに元気がない。家に引きこもってうずうずしている。未だ母親に子どもなりの辛さを言葉で訴えています。親は子どもを元気づけようとするのが常識ですが、それは子どもを辛くしてしまいます。親は子どもの訴えを聞き続けて、子どもの要求だけを叶えようとする必要があります。
4)子どもが母親を完全に信頼している状態
子どもはその子どもなりの動きをどんどん始めます。自分を否定する行動や言動が無くなります。母親の失敗を笑って許してくれます。常識的な対応が母親にも許されます。

子どもの意志を確かめる
 学校に行き渋る子どもに、子どもが何故学校に行こうとしないのか親はその理由を知りたがります。そこで親は子どもに「何故、学校に行こうとしないのか?学校で何かあったのか?」と問いただします。すると子どもは「学校に行きたい」と言いますが、学校に行こうとしても行けません。子どもは学校に行けない理由を「いじめる友達がいる」などの子どもが理解している言葉で説明します。
 子どもは親にとても優しいです。親の悲しむ顔をみたくありません。また学校には行かなくてはならないという知識をしっかりと持っていますから、子どもは言葉では「学校に行きたい」と言います。けれどなぜか分からないのですが、学校を考えたり、学校に行こうとすると、体の奥底から辛い物がわき上がってきて、学校に向かって体が動かないのです。
 そこで親は子どもが学校に行きたがっているのに学校に行けないのは問題だと考えるようになります。子どもの意志を尊重して、どうにかして学校に行かせてあげようと思います。子どもが言う学校の問題点を解決して、子どもを学校に行かせようとします。その親の子どもを学校に行かせようとする対応がますます子どもを辛くしてしまいます。
 子どもには知識の心(建前の心)と知識の心では知り得ない(潜在意識にある)本心とがあります。大人では知識の心が本心を調節してくれますから、知識の心だけを考えれば心を理解できますが、子どもでは大人では配慮しなくて良い本心を中心に考える必要があります。子どもでは知識の心からの行動が大変に難しくて、ほとんどの場合本心で反応をしてしまいます。また、本心は命に直結しますから、子どもの本心に沿った考え方をする必要があります。
 大人から質問をされると、子どもは知識の心から答えます。しかし子どもは大人のように知識の心(理屈)で反応をしません。子ども特有の感情を伴った反応の仕方があります。それは子どもが持って生まれた本能と、乳幼児頃までに親を真似して確立した情動(これらを全て合わせて情動と表現します)です。この情動に沿って子どもが成長できたなら、子どもの本心はとても安定しています。この本能や情動に反する対応を受けたなら、子どもはとても辛い状態になり、命の危険すら生じます。
 子どもが乳幼児の時期を過ぎますと、子どもの本心である情動を基本的に変えられません。そのまま一生続きます。しかし本能を変えられませんが、難しいけれど乳幼児までに学習した情動を変える事はできます。それは条件反射の学習です。そして登校拒否、不登校とは、条件反射で学習した、学校や学校に関する物に拒否反応を起こすように、子どもが条件反射から学習をしてしまったのです。
 このように登校拒否不登校とは、子どもの潜在意識にある本心で生じる学校への拒否反応です。ですから登校拒否不登校の子どもは学校に行かなくてはならない、学校に行きたいと思っていて、それを言葉にできるのに、何故自分が学校に行けないのか分かりません。親や大人から、学校に行くと言っているのに、何故行こうとしないのかと尋ねられても、子どもはその理由が分からないのです。
 理由を聞かれれば聞かれるほど、子どもは混乱をしてしまいます。何故学校に行けないのかという理由を尋ねる親子の話し合いは、子どもにとって拷問になっています。拷問を避けるために、子どもが「明日は学校に行く」と言いますが、翌日になっても子どもは学校に行けません。親が子どもに言った言葉に責任を持ちなさいと言っても、子どもには無理な要求なのです。言った言葉に責任を持てるのは大人だけです。

教師が親を提訴
 小学校の女性教諭が、女子の母親からのクレームで不眠症に陥ったなどとして、両親を訴えました。子ども同士のけんかの仲裁をきっかけに連絡帳などで再三にわたってクレームをつけられたほか、警察に被害を訴えられことなどから、女性教諭は不眠症に陥り、慰謝料を求める訴えを起こしたのです。
 母親は一生懸命子どもを育てています。子どもの訴えに耳を傾け、子どもを守るために学校と関わるのは、母親としてしなくてはならない対応です。義務教育だから、学校に協力的でない親がいることも教師は知っているはずです。たとえ母親からの訴えが良識の域を超えていても、教師は親が納得するように良識的に対応をすべきです。担任で対処しきれないときには、学校全体、教育委員会などで対処すべきです。現実にそれができないで、全て担任に任されているから、教師の中に耐えきれなくなって、心の病気になったり、今回のように親を訴える事になってしまいます。
 学校内は教師と子ども達だけの世界です。日々の学校生活を親は子どもの言葉からしか知る事ができません。学校で子どもが辛い思いをしていても親はその現場を見る事ができません。子どもの訴えを信じて、どうにかして解決して貰おうとして学校に訴え続けるのは、親として必要な事だと思います。今まで親は子どもの言葉を信頼しないで、教師の言葉を信頼して、子どもを否定しがちでした。学校もそれが当たり前だと、未だに考えているようです。時代の変化に対応しようとしていない学校。昔からの学校のあり方に安住して、学校に協力的でない親をモンスターペアレントと呼び、責任を親に転嫁しているのは学校があまりに独善的すぎます。
 教師は子どものために、子どもを良い子にしようとして、一生懸命働いています。その一生懸命が現在の子ども達を苦しめている場合が多いです。一生懸命だから教師が生徒を苦しめている事に気づきません。それを気づいて欲しいと訴える親を教師は問題視する傾向があります。子どもに教科書を教える技術には長けていても、子どもの心を子どもの心に沿って知る事ができない教師が多い事も事実です。テレビの報道の中で母親が提示した録音には、教師の感情的な指導が録音されていました。教師が子どものために努力をしている事実は良く伝わってくるのですが、そこにいる子どものためでなくて、教師のため、学校のためからの指導である事に気づいていないから、教師は感情的にならざるを得ないのでしょう。
 心の病に陥る教師の数が増えてきているという報道を見聞きします。子どもの心に沿った教育をしないで、教師が信じる教育を続ける限り、学校内でいろいろな問題を生じます。その問題の責任を学校は子ども達に求めています。教師が一人では対処できなくなってきているのは、今の学校教育のあり方に問題があるからです。100年来の学校のあり方に固執していると、100年前とは大きく異なった子ども達に合わなくなった学校内では、100年前とは違った問題を生じ、そのために子ども達が苦しみ、それを守ろうとする親が苦しみ、一方では学校の矛盾に気づいた教師が苦しんで病気になるのは、当然の成り行きです。
 ここで義務教育という観点から法律的に考えてみます。義務教育とは子どもの親や学校に子どもが学校に行けるような段取りをする義務を言っています。ですから子どもが学校に問題があってそれを親に訴えたなら、親はそれを解消して子どもが学校に行けるように対応をする必要があります。学校も子どもが学校に来られるように対応をする必要があります。その観点から見たら、親は子どもが学校に行けるように、必死で対応しても、法的には全く問題ない事だと考えられます。学校も子どもが学校に来られるように、学校内の環境を整え、子どもが納得して来られるように、当然その親も安心して子どもを学校に送り出させるように、納得させる義務があると考えられます。その義務を放棄する事は学校に許されないはずです。
 学校側が親を訴えるとは、親が子どもを学校に行かそうとする対応を否定する事になり、親は子どもを学校に行かせ辛くなり、子どもも学校に行き辛くなり、義務教育の理念に反する学校側の対応になります。
 学校側が親を”モンスターペアレント”と表現するのは、学校側が学校内での問題を解決しないで、子どもが学校に来られるように対応をする事を放棄して、その責任を親に押しつけるという意味です。昔からの学校のあり方に固執して、子どもが学校に行き辛いと訴える親に責任を転嫁しています。義務教育である限り、学校側はどのような親に対しても、親に納得して子どもを学校に来させられるようにする義務があります。その義務を学校が放棄する事になります。
 報道された内容から子ども達の問題に対応してる医者としての推測ですが、この教師のクラスは既にいろいろな問題を抱えていたのではないかと思います。その結果として子ども達がけんかをし、子ども達がいじめられて、それに手をこまねいていた教師の心がとても不安定になっていたと思います。そこにこの母親からの連絡帳で教師は耐えきれなくなってしまったのだと考えられます。私の経験の範囲で、これだけベテランの教師が一人の母親からの連絡帳に書かれた非難の言葉だけで、これだけ病的な症状を出すようにはならないと推測されます。
ネットに書かれている文章の例は
http://news.tbs.co.jp/20110118/newseye/tbs_newseye4627899.html
を参照しました。
>母親が担任を訴えている場合、子どもは、「母は自分を守ってくれている」と感じることができるでしょうか?
 母親は学校と関わり、連絡帳などで担任に訴えているのですから、母親が特別に問題になるような行動をしたとは思えません。この報道を読む限り子どもが学校で辛い経験をして、それを母親に訴えた結果、母親が子どもを守ろうとして行った行動ですから、かえって母親を信頼しようとする可能性が高いと思います。それよりも教師の方が母親の言葉に過敏に反応しているように、私には感じられます。
>その行為に苦しんでいるのではないか。
子どもは母親に学校に問題があり学校に行き難いと訴えていたのです。学校に行き難いのは学校内の問題であり、母親と子どもとの関係は推測の域を出ませんが、ただ単に教育ママではないかと思います。私がこの母親から相談を受けたら、理解のない学校と関わらないで、子どもを不登校にして、子どもの心を守るようにアドバイスをします。
>母親がそのような行為をする背景に何があるのか
これも推測の域を出ませんが、母親も所謂世間知らずと言う要素が有るかも知れません。しかし子育てに一生懸命で視野狭窄を起こしている母親ならやりかねないと思います。DVの要素は考えなくても良いと私は思います。
>暴力的(心理的虐待も含む)パートナーから指示された
これも全く分かりません。報道にはその要素が書かれていません。感じ取る事もできません。私が感じるのは、上記のように、クラス内がとても緊張状態であり、クラス内の友達が辛さを感じていると感じられます。

心が辛い若者が増加している
 どの子どもも生まれたときには、心が元気な子どもです。その子どもが成長をしていく過程で心が辛くなる子どもが出てきます。特に最近、心が辛い若者の増加が社会問題になっています。不登校、引きこもりの子ども、ニート、フリーターの若者ばかりでなく、大学を卒業しても就職しようとしない子ども、就職しても直ぐに職場を辞めてそれ以後就職できない若者が増えています。
 今の社会はこれらの問題を抱えた若者達に原因を求めて、就労支援や職業訓練などの、いろいろな解決策が試みられていますが、現実は解決とはほど遠く、悪化するばかりです。今の社会は若者の姿外見から、若者達に元気がない原因を若者達に責任を求め続けて、若者達の心の奥底にある辛さを知ろうとしていません。
 若者達は幼いときから楽しいことを制限されて育ってきています。テストで良い点数を取ることばかりを要求されています。有名学校に入学するための勉強ばかりを要求されて育ってきています。テストで良い点を取ることだけを求められて、生きる喜びを知らないで育ってきています。それらは子どもが本心から求めていることと違っていますから、子どもにとっては延々と続く苦痛です。その苦痛の連続から若者達は生きるエネルギーを失っています。親の保護の元では生きていけますが、自分一人では生きていけない状態で大人になっています。とても若者の独力だけでは社会に出て行けない状態です。就労支援などの支援を受け入れる余裕がありません。
 何十年か前の日本は未だ経済的に貧しくて、発展途上にありました。多くの貧しい若者は豊かさを求めて意欲的に働きました。又働く場も十分にありました。経済が発展していきましたから、経済的な豊かさをだんだん手に入れられ、働くことに納得ができました。当時の子ども達も貧しさから学業で良い成績を取ることができませんでしたが、親はそれを当然のことと受け入れて、子どもを責めることは有りませんでした。一部の学業成績がよい子ども達は進学して、エリートとして社会に出て行き、一生豊かさを保証されていました。
 豊かさを手に入れた大人達は、より豊かになるために、子ども達にエリートを目指して勉学を求めました。この時代の子ども達も豊かさを求める意味が分かっていましたから、辛い勉学や学校生活に耐えられました。受験戦争が始まった背景です。この当時は受験戦争に負けてもその人なりに豊かさを求められました。
 豊かさが行き渡った今日の日本では、子ども達とって豊かさが当たり前になり、より豊かになる意欲を持つことができなくなりました。そればかりか、豊かさを失う辛さ(躾として豊かさを制限される場合、子どもとしては当然得られる豊かさが親の理由で得られていない場合)に晒されるようになりました。そのために子ども達は気づかないうちに葛藤状態になって辛くなり、辛さに対する抵抗力を失ってきています。
 豊かさが行き渡った今日の日本でも、大人の考え方は日本が貧しかった頃の学歴優先、立身出世の考え方です。子ども達の生活の中に競争が持ち込まれて、興味を持てない勉学やスポーツなどの競争に無理矢理に追い込まれています。競争に勝てた子どもはその能力を伸ばしてより厳しい競争をしなくてはなりません。より厳しい競争に勝ててエリートとして社会で活躍できる若者はほんの一部です。
 多くの若者は能力を伸ばそうとするエネルギーを使い果たして疲れて、社会に出ても働けなくなっています。中には学校に拒否反応を起こして、大学生活や高校生活、中学生活すらできなくなっています。家の中に引き籠もって、辛さを癒すために刹那の享楽に耽っています。それを許されない若者は無理をして学校に行き続け、フリーターとして社会に関わろうとしますが、それも直ぐにエネルギー切れを生じてニートと呼ばれる状態になってしまいます。
 これらの若者の心を元気にするのは大変に難しいです。現実には大人が持つ常識から子どもの心を元気にしようとする対応がなされています。常識からこれらの若者を元気にしようと関わると、若者が荒れたり、問題行動を起こしたり、病気の症状を出して、大変に難しい状態になります。それでも大人は子どもが問題だ、子どもをどうにかしなくてはならないと判断して、ますます子ども達を辛い状態に追い込んでいます。

ゴミだらけの部屋
 引き籠もっている娘の部屋は、足の踏み場もないぐらいにいろいろな物が散らばっています。だんだん暖かくなってきて、汗の臭いや食べ残しの物の臭いがだんだん強くなってきて、普通の人だととても住めないゴミだらけの部屋の状態です。しかし娘は自分の居るところだけ片づけて、そこで寝起きをして、部屋全体を片づけようとはしません。
 以前母親がこっそりとゴミの一部を処分したのですが、娘は直ぐにそれに気づいて、母親に対して激しく荒れました。それ以後母親は娘の部屋を片づけられないで居ます。娘は「雑誌などの自分が欲しい物がどこにあるのか直ぐに分かるから、今のままで良いんだ」と言っています。母親はいろいろなゴミがめちゃくちゃに散らかっている光景や悪臭が、娘の心をますます荒ませてしまうのではないかと心配しています。
 引きこもりを親から否定されていると感じている娘にとって、自分の部屋で心が一番落ち着くのです。素直な自分でいれるからです。素直な自分とは自分の欲求が直ぐに満たされる状態ですから、必要な物を使い必要なくなると、直ぐに捨てる行動になります。先のことを考えている余裕がありませんから、身の回りに必要なくなった物が捨てたままになっています。
 部屋の中が散らばっていても部屋の中で動かないのですから、じゃまにはなりません。また、その散らばっている状態でずっと生活をしているのですから、その散らばっている状態に慣れています。かえって片づけられると自分が否定されたと感じるようになります。片づけた相手に向かって怒りをぶつけるようになります。それができないときには、自分の中に向かっていきます。いろいろな心の病気の症状を出すようになります。それは臭いについても同じです。親にとって悪臭でも、引き籠もっている子どもはその臭いに慣れきっていますから、悪臭とは感じなくなっています。臭いとしても感じなくなっています。
 このような不潔な部屋で生活すると健康面に良くないと親は考えるようになります。ところが現実は、子どもがそのために何かの病気になることはないです。体もそれなりに成長して、引きこもりの問題を解決したときには、健康面、体格面で、他の子どもと区別がつきません。それに対して子どもの引きこもりを解決しようとして親が関わった子どもは、荒れたり、所謂鬱病や拒食症、過食症のような心の病的な症状を出しています。

後追い
 高校に行き渋っている娘(登校拒否ですが、不登校ではない)が「アルバイトをしたい」と言いました。母親は「アルバイトをしなくて良いよ。お小遣いはお母さんが出すから」と言いました。娘が朝遅刻して学校へ行こうとしているときには、「学校に行かないで、お嬢さんらしく家で楽しく過ごすように」と言い続けています。すると娘は「高校を行くのもやめるのも自分の勝手だ」と怒っていました。それ以後も娘は学校を休む日もあれば、遅れていく日もあります。
 その後母親はパートの仕事を始めました。パートの仕事に出れば、娘がいつ起きて、いつ高校に行こうと、高校を休もうと、娘を見ることはありません。全て娘に任せることになります。母親が娘に「学校に行くな」というと(娘に学校に行かなくて良いという逃げ道を作っている)とても怒りますが、それ以外の時はとても母親に優しいです。最近は家事も手伝ってくれるようになりました。
 母親は娘にするべき事を全てしています。後は娘がどのように生きようとするのか、どのように学校とつきあおうとするのか、娘の判断を待ち、娘の判断を尊重することになります。娘の要求を100%満たして、それ以上も、それ以下もしようとしない母親の姿はその娘の判断や行動を後追いしていることになります。娘の判断を後追いする母親の姿が娘の心を元気にしていきます。娘自身が学校の問題を解決してくれます。なぜなら娘が一番納得する生き方を求めようとするからです。
心が元気な子どもには親が先回りをして、子どもを親が思う方向へ導くことができます。心が辛い子どもは親の先回りをした対応でトラウマを帯びて辛くなっています。親の先回りを拒否します。先回りをする親を拒否します。心が辛い子どもはその子どもなりに成長をしようとします。その子どもなりに成長をしようとして、助けが必要なときには後から着いてきた親に助けを求めて、問題を解決しようとします。心が辛い子どもは、先回りする親を、一緒に歩む親を求めていません。後から着いて来て、いざとなったら助けてくれる親を求めています。

子育ての中で
 私は子どもの将来を考えて、子どもを躾し、勉強ができる環境を整え、勉強をするように叱咤激励をしてきました。それが親としてやらねばならないことだと意識的に、無意識的に、努力してきました。親として私はそれを上手にしてきたと思っていました。私の自慢の子どもは他の親からうらやましがられるようなしっかりとした性格で、学業もトップクラスでした。その子どもが突然学校に行かなくなって、荒れ出したのですから、私は何がなんだか全く分からなくなりました。子どもを学校に行かそうとすればするほど、子どもは気が狂ったように荒れて、私に向かって殴りかかってきました。
 子どもが怒鳴り、ガラスを割り、壁に穴を開けて、手をつけられなくなりました。荒れただけでなく、私に向かってあまりに酷く殴りかかってきたときには、警察を呼ぼうかと悩んだことが何回もありました。警察を利用して無理矢理に子どもを病院に入院させようかと思ったことが何回もありました。しかし本能的に今それをしたら取り返しがつかないことになると私には思えたので、実行をしませんでした。私は何度も殴られたり、蹴飛ばされたりしましたが、我慢をし続けました。今していることが何か違う。私がしてきたことが何か違うと感じたので、ある相談機関と相談を始めました。
 子どもが高校生年齢になりました。私の気持ちがおかしくなりそうでしたが、どうにか耐え切れました。おかげで子どもは警察のお世話になることもなく、何の病名もつきませんでした。息子が落ち着いてきた今でも、息子の将来を考えると、とてつもない不安に襲われるときが、正直言ってあります。
 何かにつけて子どもは母親である私に頼ります。父親や姉妹を拒否して、徹底的に避けています。以前は父親を「あいつ」と言っていましたし、以前は姉妹を非難するようなことを言って、私を責めましたが、それはほとんど無くなりました。最近は「とうちゃん」とか「姉ちゃん」とか言うようになりました。
 「今僕は勉強をしない。学校にも行かない。将来はプログラマーになる」と言っています。私が「家でゆっくり、コンピューターの勉強をして入ればいいよ。」と言うと、「それは僕が決める。」と明るい表情で言っています。最近は身の回りのことも私に頼らないで自分でするようになりました。風呂にも入るようになりましたし、歯磨きもするようになりました。我が子の友達は学校生活で頑張っているでしょうが、私は、我が子の我が子なりの成長を感じてきています。今まで感じることの無かった喜びを私は感じています。
 多くの親や大人は子育てとは、「子どもの好ましくないところを矯正し、叱咤激励し、親や大人の考えを押し付け、子どもを自分の好みに変えていくのが子育て」だと考えています。私も我が子が不登校になり、荒れるまでは、そのように考えていました。しかし今、「子育てとは、ありのままの子どもの姿をそれでよいと認め、何年も何年も、成長を信じて待ち続ける」それが本当の意味での子育てだと分かりました。

小猿の学習
 ある雑誌にアフリカでチンパンジーと50年間一緒に過ごした女性の話が出ていました。その話の中で、チンパンジーたちが女性に警戒をしなくなると、子猿がこの女性に強い興味を持ってきたことが書いてありました。母親が女性に未だ警戒心を持っていても、小猿は女性に近づき、女性に触れ、その触れた自分の指の臭いを嗅きばした。そのようなやり方が小猿の学習法だと書いてありました。つまり小猿は自分から積極的に、可能な限り五感を用いて、学習を重ねている姿を見られます。
日本が未だ貧しかった頃、幼い子ども達は自然の中の遊びの中で全ての五感を用いて、自分の身の回りのことを学習していました。母親も子ども達が目の届かないところで遊んでいても、それを許していました。子どもが多かったことと、許さないと母親は家事ができなくなったからとも考えられます。
 現在の日本では幼い子ども達が本やテレビなどの映像から学習しています。主として視覚と聴覚から学習していますから、効率的に多くの概念的な知識を持つようになっているけれど、実態とは異なった概念を作り上げている場合があります。全ての五感を用いていないので、その分感動も少ないのではないかと考えられます。

繭籠もり
 現在の社会常識から言うなら、引きこもりは好ましくないと考えられています。引きこもりを止めさせて、子どもを社会に引き出す方法が考えられて、行われています。引きこもりの子ども達へ、子ども達の立場から対応している私達が感じることは、引きこもりは子ども達自身を守る必要な状態だと分かります。
 見た目には現実から逃避して、ゲームなどの享楽に興じている子どもの姿は好ましくないと感じられます。多くの大人は嘆かわしいと感じます。心が辛い子どもの立場から言うなら、常識的な大人達には分かりづらいけれど、子ども達は辛い心を癒して、社会に出て行く準備をしています。引き籠もって安心して辛い心を癒せれば、子どもは必ず引き籠もりを止めて社会へと羽ばたいていきます。
 引きこもりと言うより繭籠もりと言って欲しいです。引き籠もる子ども達はちょうど繭の中で暖かい春を待っている蛹のようだからです。蛹は繭の中で寒くて辛い冬から自分を守っています。繭の中に籠もって、成虫になる準備をして、羽ばたける春を待っています。
 引き籠もる子どもは家という繭の中で、自分の部屋という繭の中で、ゲームなどの大人が好まない姿ですが辛い心を癒して、引きこもりを止めたときに羽ばたけるようにとエネルギーを貯めています。ただ子どもにとっての春がいつ来るのかの判断は子どもにあって、親にあるのではないです。無理矢理に繭から引き出された子どもは蛹と同じように心が死んでしまうのです。

山口さんちの努君
 現在20歳になる努君は、中学、高校時代不登校でした。努君は一昨年4月定時制高校に入学し、昨年11月の高認に合格しました。高認の勉強は、パソコンからダウンロードした過去問を、何回も何回も繰り返してやっていました。今年のセンター試験も全て自分で手続きをして、偵察のための試験と言って挑戦していましました。まだ勉強していないところが多くて難しかったと言っていましたが、それでも60%程できたそうです。おかげですっかり生き生きとした表情になり、将来の進路を楽しそうに話してくれました。。
 今度は大学を目指すようで、「浪人生になったのだから、予備校に行く学費を頼む」と親に応援を求めていました。親も大学を目指して元気に勉学に励む努君を見るのが嬉しいのか、直ぐに許可を与えていました。その後努君は予備校を自分で見つけて、定時制高校に直ぐに退学届けを出して、予備校で勉強を始めています。「知らない事を学ぶ事がこんなに楽しい事だったんだ」と言って、毎日いきいきとくらしております。数学がたまらなく面白く、微積分がおもしろくてうっとりすると言っています。
 努君が不登校になり、学校から、勉強から離れてゲームや漫画、テレビに没頭した6年間、努君はいろいろと苦しみ悩んだようですが、努君がたくましく成長するのにとても大切な時間だったようです。何かを掴んだ努君は全て自分で計画し、実行して、納得して成長をしてきています。
 約一年前に努君の祖父が交通事故で急死して、悲しみ途方にくれる祖母を抱きしめて「ばぁちゃん、僕がついているから、心配いらないよ。僕がしっかり働いて、おばあちゃんを守るからね。」と励ましていました。努君が不登校になった当初には、学校に行かない努君をあれほど責めてた祖父母でした。こんなに優しく祖母を慰める努君を見たことはありませんでした。

大丈夫
 14歳の男の子です。学校に行かなくなってまもなく1年になります。昼過ぎに起きてきて、明け方までパソコンとゲームに耽っています。「最近、体調が悪くて疲れ気味になっている」と男の子が言いました。母親は「そうなの。でもそれぐらいなら大丈夫、大丈夫。ゆっくり休めば元気が出てくるよ。」と言いました。その時は何もなかったのですが、そのあとなんとなく男の子が変わってきて、母親が作っていた料理をひっくり返して、母親を足蹴りしました。
 多くの大人は、母親は落ち込んでいる男の子を元気づけているから、母親として間違っていないと考えるでしょう。辛そうにしている男の子が問題だ、母親に八つ当たりをしている男の子が問題だと考えると思います。それは心が元気な子どもに当てはまります。
 心が辛い状態の子どもでは、母親の言葉が辛くて苦しんでいる男の子の否定になっています。大丈夫でないから、母親に大丈夫でないと男の子が訴えています。母親は男の子に「大丈夫でない男の子の状態を、大丈夫だと思いなさい」と言ったことになります。言われた当初は男の子も知識で「そうかな」と母親の言葉を受け入れましたが、時間と共に男の子の本心が母親に対する拒否反応を起こしたのです。
 男の子の本心は、母親に共感して欲しかったのです。母親に「辛いね」とだけ、共感して欲しかったのです。男の子の状態を認めて欲しかったのです。男の子は辛いことの解決策を求めていたのではないです。母親に共感して貰って、抱きしめるなどのスキンシップをして欲しかったのです。

ネグレクト
私の近所で報道ではネグレクトで幼児が死亡しました。二才で五キロしかなかったそうです。多くの人の疑問は、母親が何故自分の子どもにそのようなことをするのか、周囲の人はどうして気づかなかったか、などだと思います。
 母親はその母親なりに一生懸命育てていたのです。その一生懸命が母親の自己中心的な物であって、子どもの心に沿っていなかったのです。きっと母親には何かとても辛いことがあったのでしょう。そのために母親には子育てに余裕が全く無くて、気にくわない子どもの何かを何が何でも矯正したかったのです。きっと母親は子どもに折檻をしたはずです。自分も子ども時代にされたことのある、子どもに食べ物を与えないという方法を思い出しておこない、子どもが母親の指示に従うことを要求したのです。
 子どもの反応の仕方として、親から叱られるなど辛くされると良い子を演じて親の指示に従います。決して心底自分が悪かったと反省して親の指示に従ったのではないです。叱るのを止めて貰うために、親の指示に従ったのです。しかし子どもが良い子を演じるのにも限界が来ます。限界が来たら良い子を演じなくなって、親が嫌がるような反応をし始めます。
 子どもの親が嫌がるような行動に親はますます子どもが親の指示に従うように強く叱るなどの子どもが辛くなるように関わります。親の指示に従ったら辛くするのを止めるから、親の指示に従いなさいと言う意味です。多くの音長き着いていないことですが、それはますます親が嫌がるような反応を子どもにさせるようになります。この子どもの反応の仕方は子どものごく自然な反応の仕方なのです。
 二歳の子どもでは良い子を演じる能力はありません。子どもを叱っただけで子どもは親が嫌がるような行動を取るようになります。それは母親はますます子どもを折檻し、子どもにに食べ物を与えないという悪循環に入ったのです。やせ衰えてきた子どもを見て、多くの母親は自分のしたことの問題を感じ取れます。母性が働くからです。
 しかし母親の辛さが強すぎると母性が働かなくなります。思うように育たない子どもに怒りを感じて、ますます子どもを摂関をして食べ物を与えなくなり、子どもの死に至ったのです。何が母親をそれまで辛くしたのか、報道からそれは分かりません。

信頼しているから
 昨年夏から五月雨登校をしている高校二年生の男の子です。母親はいろいろな相談機関と相談して、男の子が学校に行くようにあらゆる手を尽くしていましたが、男の子がますます酷く暴れ出し、手をつけようが無くなったので、私と相談するようになりました。母親は男の子を学校に行かそうとする対応を止めました。その後男の子は暴れるのを止めて落ち着いてきました。一週間に2日ぐらい遅れて学校に行っていました。
 男の子が昼前に起きてきて
「俺、これから学校に行くから。飯!」
と言うので、母親が
「学校に行かないで、家でゲームをして、ゆっくり楽しくすごしていれば?」
と言ったら、男の子はどーんとテーブルを拳で叩いて、
「俺は学校に行きたいんだ!それを言われると頭にくる!俺が一生懸命勉強をしようと努力しているのに、それを言われると勉強をする気が消えてしまう!いつになったら分かるのか?おまえが悪い!」
と怒鳴りました。
「ごめんね、あなたのことをよく理解できなくて。でもね、それ程苦しんでまで学校に行かなくて良いと思っている。家で楽しく過ごしてというのは母さんの考えだから、自分が学校に行きたいなら行けばいいんだよ。学校に行くかどうかは自分で考えて、自分で決めたらいいんだよ。」
と母親が言いました。男の子は
「今までずっと俺にあーしろこーしろと言ってきたのに、今更何だ!今度は逆な事を言い出して!」
と言われてしまいました。母親は
「今は、信頼してるから。今まではあんたのことを母さんが信頼していなくて、ごめんね。本当の申し訳なく思っている」
と言いました。男の子は声をますます荒げて
「じゃ〜俺がなにしようと文句言うなよ!これから家に火をつけるけれどいいな?」
と言いました。母親の背筋に寒い物が走りましたが、母親は気持ちを取り直して、
「ああ、いいよ。母さんはあんたを信頼しているから、あんたが一番良いようにしなさい。責任は母さんがとるから。」と男子にいいました。男の子は母親をにらみつけていましたが、その内にぷいと自分の部屋に行って布団を被って寝てしまいました。
 それ以後男の子は学校に行かなくなり、高校を退学しました。男の子はますますゲーム漬け、昼夜逆転は続いていましたが、母親にとても優しくなりました。時々一人で買い物に出かけたりするようになりました。

転校したい
 子どもが「転校したい」という場合、それは今の学校が辛くて今の学校に行けないと言っているのと同じです。学校に行かなくてはならないと子どもは知識として知っています。しかし理由は分からないけれど学校が辛くて学校に行けないのに、学校に行かなくてはならないという思いから、辛さを押しこられて学校に行っていると訴えているのと同じです。
 子どもの言葉通りに転校させてあげたらどうなるかを考えてみます。一般論として、学校のあり方は日本中どこでもそれ程大きく違っていません。学校を替えても何か理由が分からないけれど学校が辛くて、子どもが学校に行けないことには変わりがないです。それどころか転校した先の学校は、子どもにとって経験した事がない場所です。転校先の学校が新奇刺激となり、子どもにはより辛い場所になります。それを契機に全く学校に行けなくなる場合が多いです。
 ただし転校した先の学校が子どもの辛さ以上の喜びを与える場所であったなら、子どもは転校先の学校に行くようになります。しかし日本の中で学校はどこでも同じように運営されています。子どもが転校先の学校の中に学校で感じる辛さ以上のものを見つけられないです。子どもが転校先の学校に通うようになったら、それは良い子を演じて無理をして学校に通っていると考えた方が間違いが少ないです。
 子どもが「転校したい」と言ったとき、親は転校を考えないで子どもが納得するまで安心して学校を休ませてあげると良いです。教師もきっと「それでは休みなさい」というかもしれませんが、教師が休んで良いと言っている期間は1週間ぐらいです。一ヶ月も休むと教師は子どもを学校に来させるように対応を変えます。それでは学校を休んだ意味がないです。親は子どもに安心して何年も不登校をさせるつもりでいて欲しいです。安心して不登校を続けられたら、子どもは自分から学校に登校するようになる場合もあります

高校一年生
 高校一年生男子。中学二年生よりいじめを受けたりして、学校を休みがちだった。そのころから親は学校やいろいろな相談機関と相談して、男子の問題点を解決して学校に行かそうとした。親が男子に学校に行かせる対応をすると、男子は暴れてガラスなどの物を壊した。それでも中学卒業の際、親の薦めで私立高校を受験して合格した。
 高校生になったら学校に行けるかと親は期待していたけれど、男子は入学式に参加したけれど、それ以後は朝になっても起きてこないで、学校に全く行かなくなった。学校に行かそうとして親が男子を起こすと、男子は親に暴力をふるった。「学校に行きたい。どうにかして学校に行かせてくれ!」と泣き叫んだ。
 親は学校に行けない男子がかわいそうだと思って、いろいろな相談機関と相談して、夏休みまで学校を休ませることにした。しかし男子の荒れる様子に変りがなかった。親は男子が病気ではないかと考えて、男子を病院に連れて行こうとしたが、男子は病院にも行こうとしなかった。親が病院でもらってきた薬を初めの内は飲んだが、すぐに効かないと言って飲もうとしなくなった。親は男子の荒れの対応に手をこまねいていた。
 困った親が今までとは違った相談機関に相談すると、男子の心は既に学校に行けない状態だから、学校を退学させるようにと指導を受けた。親はとても受け入れられなかったけれど、男子が荒れ続けて困り果てていたので、思い切って男子に学校を辞めるように言った。すると男子は「学校に行きたいのに、行かなくてよいというなんて、親の言うことではない」と言って今まで以上に荒れた。それを相談機関に伝えると、それは親をテストしているのだから、荒れるのに負けないで学校を辞めるように言い続けるべきだと説明を受けた。親はとうてい受け入れられなかった。
 夏休みに入っても男子の荒れは収まるどころかますます酷くなった。親は休学か退学かを決めなければならなかった。親はせっかく高校に入ったのだからと、休学を希望したけれど、夏休みに入っても荒れている男子の姿から、休学では解決しないと認めざるを得なかった。しかし今までの親の経験から、退学をさせると「学校に行きたい」と言って今まで以上に荒れるだろうと親は考えた。それでは親が困ると言って、親は男子に退学を勧めようとしなかった。
 あまりに酷い男子の荒れに、親は再度相談機関を訪れた。男子の荒れの原因は登校刺激だから、学校を忘れさせる必要があると説明を受けた。男子に断りを入れなくて退学をさせても大丈夫だからと言われて、親は退学の決心をした。高校から考え直すように勧められても、退学の手続きをとった。退学の手続きをしたことを男子に伝えると、男子は他人事のように話を聞いていた。それから男子は今までのことが嘘のように荒れなくなった。昼夜逆転、ゲーム漬けは続いているが、少しずつ親との会話もできるようになり、表情も明るくなった。今まで弟をいじめていたけれど、今は二人で一緒にゲームをするようになった。

自分の中での戦い
 息子は中学一年生の夏休みを終えてから、二年近く学校に行っていません。その間、息子にとっても、私にとっても、辛いことがたくさんありました。私も辛かったですが、やっとこの頃、「息子は私の子どもだから、私しか息子を信じて待てあげられる人はいない」と思えるようになりました。
 この一週間、息子は朝七時半頃に起きてきます。今日も朝七時半頃起きてきて、
「飯」
とだけ言いました。私が急いで朝食の用意をしました。むすこは朝食を食べ終わると、洗い物をしている私のそばにやって、
「俺、学校に行こうと思っている」
とぽつりと言いました。即座に私は
「そう、健司は学校に行かなくてはいけないと思っているのね。でも母さんは、健司は学校に行かなくて、家で健司らしく楽しく過ごしていて欲しいと思っているのよ。」
と言いました。すると息子は
「おまえは俺のことをいつまでたってもわかってくれない。俺は家にいるのが飽きた。家がつまらない。学校にいきたんだ!」
と怒鳴って、自分の部屋に行ってしまい、また布団に潜り込んで寝てしまったようです。
 私には息子が家にいるのを飽きてつまらないと感じているは判断していません。息子はまだ学校に行かなくてはならないと思っています。けれど学校に向かって体が動かないので苦しんでいます。息子の本心が学校を拒否していますが、息子はこの事実に気づいていません。
 息子は「学校に行かなくてはならない」という思いと、「現実に体が動かなくて学校に行けない。それをどうにかしなくてはならない」という思いを、息子の中で戦わせています。今は「学校に行かなくてはならない」という思いが勝っています。そのような息子に私は何もできないけれど、まだ息子が知らないでいる「学校に行かないで成長をする道」があることを、私は息子に示し続けています。

不登校と登校刺激
 義務教育年齢の子ども、そして高校は現在義務教育のようにほぼ全員が行くようになっていますから、高校生以下の子どもの不登校について当てはまる事実です。
 子どもが不登校だという事実は、”子どもが学校に意識的に行こうとしても、体が拒否をして行けない状態”です。もちろん大人が子どもを学校に行くように押せば、子どもは学校に行く場合がありますが、それは子どもが学校を拒否する力以上に学校へ押す力が強かったという意味です。
 子どもが学校を拒否する(登校拒否)のは、「子どもの潜在意識で辛さを生じる条件刺激として学校を学習している」からです。小学生の低学年ぐらいですと、子どもが学校を拒否する場合、”辛さを生じる条件刺激は学校自体”です。学校に限定されています。しかし親や大人(主として教師)から学校へ押す力が強くて、心が不登校の子どもが学校に行き続けていると、”辛さを生じる条件刺激の汎化(辛さを生じる条件刺激が増える)を生じて”しまいます。”教師や友達、勉強、家の周囲の人に辛さを生じる条件刺激を学習”してしまいます。
 それは子どもの立場から言うなら、子どもの脳の立場から言うなら、子どもの性格(遺伝として受け継いだ反応の仕方と母親から受け入れた反応の仕方とその時までに繰り返して身につけた反応の仕方と条件反射として学習した反応の仕方)として学校や学校に関する物に拒否反応を生じるようになっているのです。お化けを怖がるのや、蛇を怖がるのと同じようになっているのです。
 子どもの立場から言うなら、無意識に、反射的に、学校について辛く感じるようになっています。学校に対して拒否するように反応するようになっているのですから、不登校の子どもにはどうにもならないのです。学校や学校に関する物で辛くなるように子どもはされたのであり、子どもには責任がないのです。大人では意識的にこのような潜在意識の反応を抑えることが可能ですが、子どもではそれが出来ません。大人から解決するようにと求められても出来ません。辛さを生じる条件刺激を受けると、どうしても辛くなってしまいます。辛くならないためには辛さを生じる条件刺激から逃げるしかないのです。学校や学校に関する物など、辛さを生じる条件刺激から逃げ出した子どもの姿が不登校なのです。
 つまり小学校の年長以上の子どもが不登校状態である限り、学校や学校に関する物を不登校の子どもに与えると、辛さを生じる条件反射を生じて、子どもはとても辛くなります。それでも学校に行かそうとしますと、荒れたり、病気の症状を出してしまいます。それが進行しますと身体に病的な変化を生じて命を維持することも出来なくなります。脳にも病的な変化を生じていわゆる精神病の状態になります。ですから「不登校の子どもに学校や学校に関する物を与えてはいけない」のです。
 多くの大人は、子どもが学校を拒否する姿にいろいろな理由をつけて理解しようとします。子どもがずるをして、怠けて、学校に行こうとしない。いじめる子どもがいるから、勉強が理解できないから、成績が悪いから、学校がおもしろくないから学校に行こうとしない。先生が叱るから学校に行きたくない等です。すでに不登校になった子どもはこれらの問題を解決しても学校に行けないか、学校に行ってもそのうちにまた学校に行けなくなります。そうすると大人は、学校には何も問題がないから、何か子どもに問題があるから、子どもが学校に行こうとしないのだと考えるようになります。子どもが辛さを生じる条件反射から学校に行けなくなったとは考えません。
 親や大人は不登校の子どもに、学校や学校に関する物、先生、勉強、友達、家の周囲の人(これらを登校刺激という)から、子どもを守ってあげる必要があります。先回りをしてでも守ってあげる必要があります。登校刺激から守ってあげていると、子どもが持つ成長の能力から、学校や学校に関する物に辛くなる反応が消失します。子どもが楽しく生活していると、心が元気になる速度が速まります。
 ”先回りをして守ってあげるのは、学校や学校に関する物、先生、勉強、友達、近所の人だけ”です。その他のこと、つまり辛さを生じる条件反射を生じさせない物は、決して先回りをして対応をしてはいけないのです。子どもの心を元気にするために、子どもの意志を大切にするという意味です。
 不登校の子どもが「学校に行きたい」と言うとき、それは子どもの意志ではないかという人が多いです。子どもは大人と違って、心には意識に上り言葉で表現できる顕在意識の心と、意識に上らなくて、言葉にならなくて、体に表現される潜在意識の心とがあります。「学校に行きたい」という子どもの言葉は顕在意識の心の言葉であり、修正可能なのです。不登校の子どもが学校に行かないというのは、潜在意識の心で反射的に学校を拒否しているからです。”潜在意識の心が子どもの本心”です。言葉には成らない子どもの意志に、子どもの本心に相当します。
 潜在意識の子どもの本心を修正することは大変に難しいです。特に潜在意識の子どもの心を理解していない限り無理だと言えるかもしれません。それに対して顕在意識の心は子どもが持っている知識と理解して間違いありません。学校の勉強と同じことですから、その内容を変えることはそれ程難しくありません。

不登校の原因ときっかけ
 子どもが不登校になったとき、親や教師、その他の相談機関は、子どもが不登校になった直前の事件が原因であり、それを解決して子どもを学校に行かせようとします。例えば教室内でいじめを受けたのを機会に子どもが学校に行かなくなったとき、親や教師はいじめた子どもに「もういじめをしない」と約束させます。いじめられた子どもとと和解の場所を作って、それによりいじめが解決したとします。いじめられた子どもに学校に来るように関わります。そのようにしても、子どもは学校に来られないか、来てもやがてまた学校に行けなくなります。
 不登校についていろいろな説明がされていますが、脳神経生理的に考えると、不登校の子どもは「学校を辛さを生じる条件刺激として学習」した状態です。不登校の子どもは学校を見たり意識すると、辛さを生じる条件反射が働いて、体中に辛い反応を生じて、学校を拒否せざるを得なくなっています。潜在意識にある本心では学校に行きたくないのです。
 しかし子どもが学校を拒否しても、親や教師によって大きな力で学校に押されると、その押す力が学校を拒否する力より大きいと、子どもは学校を拒否していても学校に行ってしまいます。不登校になる子どもは、言葉では「学校に行きたい」と言い、学校に行くと元気に過ごしてきます。それは子どもが”よい子”を演じているだけであり、学校に押されて行っているだけであり、子どもに何かあると学校を拒否する力が強くなり、すぐに学校に行けなくなる状態なのです。上記のいじめの例では、たまたまいじめが不登校になるきっかけだっただけです。
 不登校の原因を見つけるのは大変に難しいです。子どもの姿に関係なく、知らないうちに子どもは学校が辛くなってきて、学校に行きづらくなっているからです。不登校のきっかけを不登校の原因と理解してしまう理由です。
 脳神経生理的には、不登校は「学校を辛さを生じる条件刺激として学習した」状態です。「学校を辛さを生じる条件刺激として学習」したとは、学校生活の中でその子どもにとって辛いことを繰り返し経験していたのです。辛い経験を繰り返す内に、「学校に辛さを生じる条件刺激の学習」が強化されてしまい、ついに辛さに耐えきれなくなったのです。
 何が辛かったのか、それは子ども次第です。不登校になった子どもでは、他の子どもでは何でもなかったこと、たいして辛いことでなかったこと、時には楽しかったことで、辛くなっていたのです。そのいくつもの辛かった経験が不登校の原因になっています。不登校の原因は一つでないです。特定が難しいです。

アンケートの中で
 「小学校の教諭をしています。子どもの問題で学校に非協力な母親がいます。母親がもっと学校に協力的になって貰うにはどうしたらよいでしょうか?」という質問を受けました。
 母親の協力が得られないと教師が感じるときには、子どもの姿に問題があると教師が感じたとき、教師の努力ではどうにもならないので、母親に協力して貰おうとする場合です。教師としては家庭に問題があると考えられるから、母親に家庭での解決を求めている場合です。
 その原因として、1)母親が子どもの心に無頓着で、子どもが苦しんでいる場合。2)教師として一生懸命子どもを守ろうとしているのに、教師の対応が子どもを苦しめていて、母親が教師に期待しなくなり、教師を拒否している場合があります。
 1)の場合は教師が母親の代役をする必要があります。教師が母親を子どもの心を理解するように変えることは大変に難しいです。母親の代役ですから、男性教師には難しいので、養護教諭に頼むしかないでしょう。また、校長や教頭に理解できるかどうかも重要な点です。代役とは、共感の言葉とスキンシップです。子どもの要求を可能な限り認めて、決して子どもの問題点を責めないことです。それ以上の代役は無理でしょう。
 2)の場合はとても難しいです。今の学校のあり方と一人の子どもを守ろうとするあり方の板挟みになるからです。その一人の子どもだけについて、教師が今までの教育方針を変えて、教師が持つ常識を捨てて、その子どもに合わせる必要があります。特に教師の方にわかりにくい、「学校を辛さを生じる条件刺激として学習している子どもの存在」を教師は理解する必要があります。
 どちらにしても、子どもの立場で子どもを守ろうとすると、教師に途方もない負担がかかることになります。それは目の前の成果ばかりを求める今の教育のあり方に問題があるのですが、現場にいらっしゃる教師の方には大変に難しい問題なのです。

辛さと楽しさ
 動物と共通の人間の脳についてです。人間の生命を維持する脳には、本能であり、潜在意識の働きとして接近系と回避系があります。接近系とは私たちの言葉で楽しさ、喜びであり、回避系とは私たちの言葉で辛さ、怖さです。
 辛さとは危険から命を守る脳の反応です。脳が辛さを表現するときにはその辛さから逃げようとします。逃げられないときには外に向かって荒れたり、内に向かって病気の症状を出します。
 繰り返す辛さには相乗作用があります。初めは些細な辛さでも、繰り返す内にとても大きな辛さになります。他の人から見て何でもないようなことに強く反応してしまい、とても信じられない行動をしたり、心の病的な症状を出してしまいます。
 楽しさとは能力を高めようとする脳の反応です。成長をしようとする脳の反応です。ですから子どもの本来の姿は楽しさです。子どもはその楽しさからその子どもなりに成長をして行ってくれます。
 楽しさには慣れがあります。慣れがありますから繰り返す楽しさは楽しさでなくなり、当たり前になってしまいます。楽しさに慣れを生じると脳は新たに楽しいものを求めようとします。ですから楽しさには発展性があります。
 辛さと楽しさにはお互いに打ち消す作用があります。辛さは楽しさを軽減しますし、楽しさは辛さを解消してくれます。同一のことでいつまでも楽しさを感じたいなら、楽しさの後に適度な辛さが必要です。その辛さで楽しさが薄められたら、同一のことでまた楽しさを感じられるようになります。
 苦しんでいる子どもにその子どもなりの楽しさを与えてあげると、子どもは苦しまなくなります。ただし大人が子どもに与える楽しさは、その子どもが楽しいだろうと大人が判断しただけであり、子どもが言葉で「楽しい」と言っても、本当に楽しいのかどうかは別です。子どもが楽しいからと自分から求めるもので、子どもは辛さを薄めて心を元気にして行きます。
 子どもが出す心の病的な症状は子どもがとても辛いという意味です。いわゆる子どもの心の病の症状は薬で一時的に楽になっても、薬では治りません。子どもの心の病の特効薬は子どもが感じる喜びです。それも大人が与えた喜びでは効果がないと考えて下さい。大人の考える子どもの喜びは、子どもの喜びでないからです。子ども自身が求める喜びはとても効果的です。しかし子どもの心が辛い状態ですと、子どもの方から喜びを求められない場合が多いです。けれど母親だけは特別です。母親自体が子どもの本能からの大きな喜びですから、母親の共感とスキンシップが子どもの辛さを解消できます。いわゆる子どもの心の病は母親から受ける喜びだけが特効薬だという意味になります。
 子どもでは母親からの共感の言葉や母親との触れ合い(スキンシップ)で、本能的にとても大きな喜びを得られます。子どもは辛くなると母親の側で、母親に触れながら過ごそうとしますし、母親も母性が働いているときにはそのような子どもを許そうとします。それだけで子どもは楽しくなれますし、心が元気になることができます。子どもが暴れるなどの問題行動をしたり心の病的な症状を出しているとき、母親の共感と触れ合いから受ける子どもの喜びを使うことで解決を可能にします。
 経験からの子どもと母親の関係です。子どもが荒れたり心の病的な症状を出している原因は母親でないのですが、母親の対応が悪く(母親が知識から子どもを理解しようとして、子どもの本心に沿った対応をしていない)て子どもがそのような反応を出し続けています。その母親が対応を変えて、子どもの本心に喜びを与えようとしても、子どもはすぐに受け入れないことが多いです。子どもの本心に喜びを与える対応で子どもの心は楽になるのですが、初めのうちは母親の対応を拒否する行動をとることが多いです。それは子どもが母親の本心を確かめる(テスト、お試し)行動です。それで母親がひるまないで、子どもの心に喜びを与え続けたなら、子どもは無条件で母親を受け入れるようになります。心が楽しくなり、自分の問題を自分で解決できるようになれます。
 経験からの子どもと母親との関係です。子どもがいわゆる発達障害や心の病の症状を出しているとき、その原因は子どもによっていろいろでしょうが、子ども自身(生まれつき)や母親が原因ではありません。けれど子どもの心の状態を母親に理解ができなくて、その対応が子どもの本心に沿っていなくて辛いから、発達障害や心の病の症状を出しています。別の見方をすると母親の対応が子どもの本心に沿っていないから嫌だという子どもからのサインとも考えられます。傾向として子どもが幼ければ幼いほど発達障害だと思われてしまう症状を出し、子どもの年齢が進むと辛い心の症状を出すようになります。
 いわゆる発達障害でも心の病でも当てはまりますが、これらの症状を出し続けていると、これらの症状を出す原因に敏感に反応をするようになります。他の人では何でもない場所で、とても原因があるとは思えない場所で、子どもが症状を出してしまいます。その姿から大人も症状を出している当人も、発達障害だ、心の病だと確信してしまいます。また、これらの症状を出し続けていますと、脳内に変化を生じてしまいます。その脳内の変化からこれらの症状を出しやすくなってしまいます。症状の固定化を生じて、周囲の人は病気だと確信するようになります。それでもその脳内の変化は対応次第では回復可能なようです。ただし大変に難しくて時間がかかります。
 いわゆる発達障害や心の病で長年苦しんでいる子ども(年長の子ども)への対応を行っていて感じることがあります。子どもたちの症状は母親の対応が悪くて、子どもの辛さが改善しないという子どもの訴えなのですが、子どもは言葉でも行動でも母親を擁護しようとします。子ども自身の辛さの原因を診断されている発達障害や心の病に求めてしまいます。自分を苦しめている誰も気づいていない原因を解消しようとしなくなります。辛くなると医療にかかり、薬に解決を求めようとします。

脳障害と発達障害
 サバンと表現される人たちがいます。脳障害により日常生活に障害を持っていますから発達障害の病名を持っているけれど、ある特殊な分野で天才的な能力を発揮するようになっている人たちです。この人たちは発達障害の病名を持っていても、精神科領域での発達障害ではありません。精神科領域の発達障害とは、脳障害がないという前提条件があります。
 脳障害がない人が出す発達障害の症状と、脳障害がある人が出す発達障害の症状と、区別は大変に難しいです。その理由として精神科医は、脳障害がない人が出す発達障害の症状も、今の科学で知ることができない脳障害から生じていると考えています。それ故に多くの人が、発達障害の子どもに関係している人ですら、これらの区別をしていません。脳障害がある発達障害と言われた人への対応を脳障害がない発達障害と言われた人へ行っている場合が多いです。
 脳障害のある人への対応は、残っている能力を伸ばす対応です。脳障害がある人自身も自分の能力が伸びて周囲の人が喜ぶから、その能力を伸ばそうとする場合が多いようです。脳障害がなくて発達障害の症状を出している人に、脳障害がある人の対応を行ったなら、脳障害がなくて発達障害の症状を出している人はますます辛くなってしまいます。発達障害の症状を強めて言ってしまいます。
 脳障害がなくて発達障害の症状を出している人たちは、人によって異なりますが、人間関係に苦しんで発達障害の症状を出しています。というより子どもの時に誰にでもある幼児性から心が発達させられないでいる状態です。幼児性から心が発達させられないで、年齢が進んでも幼児性を表現している姿です。なぜ幼児性から心が発達させられなかったかという問題です。
 親や大人に子どもを苦しめたという記憶がなくても、親や大人がごく当たり前として行ってきた対応で、その子どもなりに身につけている感受性から子どもが苦しんで、子どもが自分の幼児性から心を発達させられなかったのです。このように親や大人の対応で苦しんで発達障害の症状を出している子どもには、親や大人の常識的な対応は今まで自分を辛くしてきた対応の延長線上にありますから、ますます苦しくなって発達障害の症状を強めていきます。年齢が進むに従って固定化していくことになります。

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