頭が良い子に育つ

第0章 頭がよいとは

 我が子がテストで100点数を取って帰ると、親は嬉しいですね。我が子がこんなに頭が良かったのかと思う時もあります。ところが我が子が毎回50点だ、40点だとなると、どうしてこの子は勉強ができないのだろうと思いますよね。自分が子どもの時にはもっと良い点を取っていたから、親からの遺伝ではないと思うでしょう。でも我が子は手先が器用で、上手にプラモデルを作るし、工作も得意だから、きっと我が子は馬鹿ではないと思うのではないでしょうか。
 学校での成績が良い子どもに、多くの人は頭が良い子どもと評価します。その頭が良いと言われた子どもの内で、大人になっても頭の良さを維持できる子どもがどれ位いるか疑問です。成績が良くないと入学が難しいと言われている有名大学に合格する、一流企業に就職する、そのためにテストで良い点数を取る。それはテストで高い点数を取るという点で、頭がよい事実は間違いないでしょう。しかし人間として、それだけでよいのかどうか疑問なことを多くの人は知っています。
 優秀なアスリートになるのも、優秀な芸術家になるのも、優秀な会社経営者になるのも、会社の中でその能力を発揮して大きな成果を上げるのも、頭が良くなければなりません。但しこれら頭がよいと社会から注目される人たちは、単に頭が良いだけでなく、運の良さもなければなりません。社会生活を問題なくこなすのも、家庭でやりくりを上手にするのも、子育てで子どもを元気に育てるのも、全て頭が良くなくてはなりません。その人がなしえた結果が他の人と比べて、きわだって優れているという意味もありますが、他の人には認められていないけれど、その人なりに納得して生き続けたことも、脳科学では頭が良いと考えられます。
 少し脳科学的に考えてみましょう。人間は目や耳などから得た刺激感覚を脳で情報処理して、脳で反応のための情報を作って、体中の臓器や筋肉に情報を送って反応し、行動しています。目や耳などから得た感覚刺激を脳で情報処理する過程と、脳で作られた情報で反応し行動する過程は、脳を含めた身体に異常がない限り、どの人でもほぼ同じです。感覚刺激から脳内で反応するための情報を作る過程が、広い意味で知能になります。頭の良さになります。
 広い意味で知能とは、多くの知識(陳述記憶=言葉にできる記憶)を蓄えて、それをたくみに利用して、行動するための情報を作る能力(思考=知識に関する操作記憶)、受けた刺激情報について、又は過去の経験や思考結果から、たくみに体を動かす能力(反応に関する操作記憶)、刺激を受けた際に生じる情動(一応感情と理解しておいて下さい)、および情動(感情)行動などがあげられます。
 大昔、人間が一カ所に定住するまでは、自然の中で生き抜くことが大切でしたから、体をたくみに動かす能力や情動が重要な能力でした。人間が定住して文明を築くようになりますと、知識に基づいて行動すること(知的行動)が人間の重要な能力になっています。現在の学校教育の目的は、主としてこの点に有ります。しかし最近、知識や知的行動だけでは苦しむ人間が増えてきています。人間の全ての活動の根底にある、情動や情動行動の大切さに目を向けだしています。多くの社会常識は、知識や知的行動について、経験的にできあがっています。大人の心に当てはめられます。子どもでは情動と情動行動が大きな意味を持っていますから、多くの社会常識が子どもの心に当てはまらない場合があります。子育てに当てはまらない場合があります。
 ここであまり聞き慣れない言葉、情動について説明をしておきます。脳神経生理の知識が必要ですから、分かりにくいと思います。人間が感情として認識する時に、体中に起こっている変化のことです。感情として認識しないことも、気付かないこともあります。
 体外からの感覚刺激は脳の感覚野から感覚連合野で処理されて、前頭前野に送られて、感覚刺激が認知されます。それと同時に、大脳辺縁系に送られて、感覚刺激に対して動物としての反応の仕方が決定されます。その決定された情報は脳幹で具体的な反応の仕方の情報にされて、体中の臓器(皮膚、循環器、消化器、呼吸器、内分泌器など)に送られて、情動(体中にその刺激に伴う変化を生じます)が表現されます。その決定された情報は前頭前野から運動連合野、運動野に送られて、具体的な体の動きの情報にされ、体中の筋肉に送られて、情動行動が表現されます。そこで人は感覚刺激を認識すると同時に、体中に現れた情動と情動行動を認識します。その体中に現れた情動と情動行動を認識して、人間が持っている感情の概念に照らし合わせて、言葉で表現した物が感情です。人は体外から刺激を受けると、その刺激によってその内容や程度が異なりますが、その刺激に基づいた体の中の変化、すなわち情動を生じます。
 例えば蛇を見たとしましょう。蛇の情報は目から視覚野、視覚連合野で処理されて、前頭前野に送られて蛇を認識します。それと同時に大脳辺縁系に送られて、蛇についての反応の仕方が決められます。その決められた情報が脳幹で具体的な情報にされて、心臓に送られると、脈拍が強くなり、早くなります。どきっとした感じを生じます。肺に送られると呼吸が深く荒くなります。興奮した状態です。胃腸に送られると、胃腸の動きが強くなり、気持ちが悪くなる状態です。皮膚の血管に送られると、血管が収縮して緊張状態になります。副腎に送られた情報で、アドレナリンやグルココルチコイドが分泌されて、緊張状態に対処できる状態にします(これらの変化全てが情動)。大脳辺縁系から別ルートで前頭前野から運動連合野、運動野に情報が送られて、具体的な情報にされます。その具体的な情報が体中の筋肉に送られて、目がつり上がり、手足が震え、逃げたり、蛇と戦ったりします(情動行動)。このように体中に生じた変化、情動を感じ取って、既に持っている感情に関連した言葉、びっくりした、緊張した、怖かった、気持ち悪かった、というような言葉で感情を意識します。


第一章 頭が良い子に育って欲しい

1、 若い夫婦

 若い夫婦と2歳の男の子孝夫君の家庭です。親子三人で楽しく夕食のテーブルを囲んでいました。男の子はスプーンを使ってオムライスを食べていましたが、ぼろぼろとこぼしていました。母親は「困った子ねぇ〜」と言いながら、子どもがこぼしたご飯を拾って食べていました。すると子どもはスプーンを置いて、素手でオムライスを掴むと、それを口に持って行って食べてしまいました。それを見た父親が子どもの手を強くたたきました。子どもはわ〜と泣き出しました。
 「お前がきちんと躾ないから、孝夫が手で食べてしまうのだ!」と父親は母親を叱りました。妻は「孝ちゃん、おててでご飯を食べるのは止めようね」と言いながら、子どもの手をぬれタオルで拭いていました。子どもが泣き続けているのには無頓着でした。夫婦は子どもが小さいときから、他人に迷惑を掛けないように、しっかりと躾るつもりでした。

 この若い夫婦はその夫婦なりに、子育ての知識を持っています。その知識に基づいて子育てをしようとしています。しかし現実の子育てでは、夫婦の持っている知識からではなくて、自分の経験から、多くは自分を育てた母親の行動を思い出して無意識に行動しています。子どもへの対応をしています。その自分が行った行動を見て、自分の知識と照らし合わせて、納得しています。
 孝夫君が未だ上手にスプーンを使えないことを夫婦は知っています。ぼろぼろとスプーンからこぼす事実も理解できます。でも、今の内からスプーンを使う練習をしておくと良いと信じています。孝夫君も与えられたスプーンを孝夫君が持っている能力の限りを尽くして利用して食べようとしています。しかしその能力が不十分で、食べたいという情動が強く働いたものですから、素手でオムライスを食べてしました。
 父親はその孝夫君の行動を見て、反射的に孝夫君の手をたたいています。それは父親の親や社会常識などから、父親が学んだ結果からの反射的行動です。その自分の行った行動を、子どもをしっかり躾るという父親の知識で正当化しています。しかし父親の思いを孝夫君は理解できません。孝夫君にとって父親は、食事の時には怖い存在として情動に記憶されてしまっています。
母親も孝夫君をしっかり躾るのに賛成しています。父親を責めようとはしません。しかし孝夫君が泣く程強く叱って躾るのには問題を感じています。孝夫君が泣くことで母親に「助けて」という情動からのサインを出していると考えられますが、母親はこのサインを無視しています。孝夫君は大好きな母親に、少しばかりの不信感を潜在意識で持つようになったと思われます。
 孝夫君が母親に少しばかりの不信感を持っても大丈夫です。母親はいつもたくさんの喜びを孝夫君に与えています。孝夫君が欲しがる物をいっぱい与えています。その喜びが孝夫君の不信感を直ぐに払拭して、孝夫君は母親を信頼して、孝夫君なりの成長を続けます。

2、 成績が良くて、クラスで目立つ誠君

 誠君は小学五年生。クラスの活動に率先して加わります。同級生と学校生活を楽しんでいるように見えます。毎週三日間、学校が終わると学習塾に通っています。それ以外に、週一回、書道教室に通っています。以前はサッカーもしていたのですが、それは中学受験をするので止めました。習字の先生はとても風変わりでおもしろい先生だから、誠君は書道教室を止めようとしません。塾や書道教室がない日は、誠君はゲームに熱中しています。
 学校で行われる試験で、いつも誠君は満点に近い点を取ります。授業の内容も、誠君が既に知っていることばかりですから、先生が出す問題や質問に誠君はすらすらと答えてしまいます。けれど授業がつまらないから、先生の目を盗んで落書きをしたり、いたずらをしたりしています。時には友達が隠し持ってきた漫画を借りて、机の下で読んだりすることもありました。

 一般に頭が良い子どもとは、テストでよい点を取る子どもを指します。テストでよい点を取るという意味を脳科学的に考えてみますと、それは陳述記憶(言葉や文字で表現できる記憶)を多く持っていて、状況に応じてその陳述記憶を追憶(記憶の中から必要な記憶を探し出す)し、表現できるという意味です。しかし多くの大人は気付いていませんが、子どもは知識を言葉や文字に表現できて、テストでよい点を取れても、その知識から行動できないか、行動するのが大変に難しいという事実があります。大人になったらそれができるようになりますから、子どもの内に知識を蓄えておくと、大人になって役立つようになります。
 誠君も”授業中は授業に集中しなければならない”という知識を持っています。しかし授業の内容を既に知っているので、授業に興味を持てません。授業に興味を持てなくても、大人なら授業に集中できます。授業に集中できなくても、大人ならその興味を持てない授業時間をその大人なりに耐えて乗り切られます。しかし誠君は子どもですから、授業に集中すべきという知識から、授業に集中しようとしてもできません。授業に集中できない時間を子どもは耐えられません。誠君なりに先生に叱られないように、何かを始めてしまうのです。
 誠君は”落書きをしてはいけない”、”いらずらをしてはいけない”、”授業中漫画を読んではいけない”という知識を持っています。いけないことをすれば罰せられることも知っています。誠君は子どもですから、これらの知識から行動できないのです。しかし叱られるのも嫌ですから、誠君なりに上手に工夫をして、先生に見つからないように遊ぶ方法を見つけ出してしまいます。誠君は授業に集中しているふりをして、落書きをしたり、いたずらをしたり、漫画を読んでいます。この誠君の行動は、先生から見たらとんでもないことをしていますが、誠君の立場から言うなら、子どもとしてごく自然な行動です。先生に見つかると酷く叱られるでしょうが、誠君は今までの経験を利用して、先生に見つからないようにできるのです。その意味でも頭がよいです。
 テストで良い点を取るとは、上手に陳述記憶を追憶して表現できる能力があるという意味です。しかしテストでよい点を取るだけでは、今まで経験してない状況下で陳述記憶を追憶できません。実生活の中では、陳述記憶の応用性、評価、思考(陳述記憶を加工する)などが必要です。これらの陳述記憶の応用性、評価、思考は、陳述記憶に関する操作記憶でなされます。これらは一見意識的な活動のようですが、潜在意識の機能です。その結果を認識することで意識に上るから、意識的な活動と感じられるだけです。これらの操作記憶は、日頃から繰り返し真似をするという形で経験するとできあがってきます。
 誠君には誠君らしく心が落ち着く時間が少ないです。その辛さをゲームにぶつけなければなりません。誠君にとって、ゲームはとても楽しいです。ゲームで日頃の辛さを解消して、学校に行き、塾に行きます。教室の勉強に誠君の興味をそそる物はありません。しかしじっとして授業に参加しなくてはなりません。その辛さを癒すため落書きやにいたずらをせざるを得ません。誠君にとって、塾で勉強をしたために、学校での勉強の意味が薄れてしまっています。

3、 一人遊びが好きな勇樹君
 幼いときから勇樹君は一人で遊んでいるときが多かったです。もちろん兄弟や友達と一緒に遊んでいるときも多かったのですが、他の子どもと比べて、一人で黙々と遊んでいました。親からは手のかからない子どもと言われていました。親はもっと勉強をして欲しいと思っていたようです。しかし共稼ぎの両親は生活に追われていて、勇樹君に勉強しろとも何も言いませんでした。
 小学校でも、中学校でも、勇樹君は目立たない存在で、成績も中ぐらいでした。塾や習い事をしていませんでしたが、授業中は目を光らせて先生の話を聞いていました。先生の質問に突拍子もない答えを言うので、先生も閉口していたというような子どもでした。
 勇樹君がその才能を示しだしたのは中学3年生の夏休みからでした。突然自分から受験勉強を始めてしまったのです。その勉強法は勇樹君が自分で工夫したやり方でした。勇樹君は誰にも頼らないで、どんどん実力をつけて、学年トップの成績を取るようになり、進学を目指す子どもが多い高校に合格してしまいました。
 高校に入るとテニスに興味を持ちました。時間さえあればテニスをするようになりました。授業中は集中して勉強をしていましたから、成績は中程でした。三年生になると、勇樹君は又猛勉強を始めました。中学のようにどんどん成績を上げることはできませんでしたが、それでも国立大学に入学し、大学卒業後はある大手の会社に就職、研究員として製品の開発に貢献しています。

 勇樹君は、勇樹君の心が命ずるままに成長ができました。両親は勇樹君に勉強を要求しませんでした。躾も特にしませんでした。勇樹君は両親に信頼されていると感じて、勇樹君なりに友達と関わり、学校と関わりました。勇樹君なりに能力を伸ばせました。社会との関わりも勇樹君なりに問題なくこなしています。両親が何も言わなくても、両親の思いを感じ取り、勇樹君なりに素直に成長し、自立しました。
 勇樹君は特別な才能を持っていたのではありません。両親が生活に忙しくて、勇樹君に関われなかったので、結果的に決して先走ることなく、勇樹君の心のままに成長しました。誰からも強要されないで、勇樹が成長の過程で自分から身につけた勉強の仕方、勇樹君なりに工夫をする勉強の仕方が、他の人ではなかなか行けない大学に合格して、勇樹君の特性が発揮できる職業に就けました。勇樹君が納得できる生き方を続けられています。
 子どもには本能から、勇樹君のように自分から能力を伸ばして、自分にあった生き方ができるようになれます。しかし今の社会や学校は、子どもの本能を無視して、社会や学校が要求するものを、子どもが達成するように求めています。達成しないと子どもに親を介して達成するように強要してきます。勇樹君の場合には親が強要しなかったので、勇樹君は勇樹君なりに能力を伸ばすことができました。
 社会や学校が要求するものと子どもが求めようとしているものとが一致しているなら、子どもは喜んで挑戦を続け、その子どもなりにどんどん能力を伸ばしていきます。それは勇樹君の受験にも見られています。しかし社会や学校が要求するものと、子どもが求めようとしているものとが一致しないとき、子どもの心は辛くなります。その苦しさを回避するために、子どもは良い子(”第七章、良い子を演じる”を参照)を演じるようになります。その子どもが辛くなって良い子を演じる姿と、喜んで挑戦を続けている姿と、区別ができません。子どもが辛くなってよい子を演じている姿を、親や大人達は子どもが喜んで挑戦をしていると誤解をして、子どもに要求を増やしていきます。辛さを回避するために良い子を演じている子どもはますます辛くなり、大人の目が届かないところで、いじめなどの問題行動をするようになります。それでも辛さを解消できない子どもは、不登校になったり、暴れるなどの問題行動をするようになったり、病気の症状を出すようになります。


第二章 心という意味での脳

 子どもの場合、子どもの心は脳の機能と定義しても問題ないと思われます。実際に子どもの問題を、子どもの心は脳の機能と考えて対応をしますと、解決できます。
 脳を前後から見ると右脳と左脳に分けられます。心という意味では全体の脳を区分して、前頭前野(”思考の心”と呼ぶことにします。額の部分に有ります)、運動野と運動連合野(”反応の心”と呼ぶことにします。頭の前の部分から、頭の頂にかけて有ります)、頭頂葉から側頭葉(”知識の心”と呼ぶことにします。頭の頂から頭の両側面に掛けて有ります)、大脳辺縁系(”情動の心”と呼ぶことにします。頭の中心部にあります)に分けられます。それ以外の大脳新皮質は”情報処理の脳”(受けた刺激を処理する脳)、脳幹は”生命の脳”(命を直に調節している脳。後頭部の下の方にあります)と表現されます。
 脳はいろいろな細胞から構成されています。心という意味では、脳神経細胞、脳神経細胞体から伸びる樹状突起や神経繊維、樹状突起と神経繊維末端の間で構成されるシナプスに注目する必要があります。脳の成熟という意味は、神経繊維が髄鞘で覆われて、情報伝達が可能になる(活動電位が伝わる)ことを指しています。ここではこれ以上詳しいことを説明しません。
 脳内に情報が蓄えられる、記憶されるという意味は、樹状突起と神経繊維との間でシナプスによって結合した神経ネットワークができることです。この情報の記憶である樹状突起と神経繊維の間を結びつけるシナプスで構成されるネットワークは、構成された当初は自然と壊れてしまう(一時記憶)ようです。しかし何度もこのネットワークが使われる(追憶する)と、シナプスの結合が強化されて、消えることがないネットワーク(永久記憶)に成ります。又は、強い情動を伴って作られたネットワークは、消えることがない永久記憶になります。記憶を忘れてしまうとは、一時記憶の段階の記憶の場合と、永久記憶になっているが追憶されなくなっている場合があります。一時記憶が無くなると、二度と思い出されませんが、永久記憶になると、何かの折りにひょっと思い出されたり、夢の中に出てきたりします。
 このようにしてできあがったネットワークにいろいろなホルモンが作用して、そのネットワークの情報を修飾します。ホルモンが脳神経細胞自体にも作用する場合もあります。心という点で注目しなくてはならないのがストレスホルモンと脳神経との関係です。

 前頭前野(思考の心)は人間特有の脳といえます。意識的な思考活動をする脳です。情報処理された刺激を受けると、大人の場合、前頭前野(思考の心)はその刺激に関連する陳述記憶(言葉として表現できる記憶)を追憶して、その記憶を加工して、その結果を運動野と運動連合野(反応の心)に送り出して、意識的な反応を行うところです。
 この前頭前野(思考の心)は思春期頃になって完全に成熟(前頭前野にある脳神経細胞から伸びる神経繊維が髄鞘で覆われて、情報が伝わるようになります)します。完全に成熟すると、前頭前野(思考の心)は大人と同じ思考活動が可能になりますし、情動を調節できるようになります(意識的に自分の感情を抑えられるようになります。例えば悲しくても我慢をして、泣いたり、涙を流さないでいれます)。思考活動から意識的な反応をし、情動を調節して、大人としての思考活動をするには、前頭前野(思考の心)が成熟してから、ある期間思考活動の学習を必要とします。外見上、思春期を過ぎて何年か経て、大人らしい知的な思考行動と情動調節ができるようになります。

 運動連合野と運動野(反応の心)は情報処理された刺激について直に反応する場合(皮質反射)、情報処理された刺激で生じた情動から反応する場合(情動行動)、思考活動の結果から反応する場合(思考行動)とがあります。思春期以前の子どもでは皮質反射と情動行動から反応し、行動します。思考行動は前頭前野の成熟と機能の関係上、思春期を過ぎて、それなりの経験(学習)を繰り返すことで可能になってきます。
 生下時に運動野はほぼ成熟しているようです。運動連合野は一部完成していて、成長していくための行動を可能にしています。生下時以降、運動連合野はどんどん成熟していって、行動のための情報をどんどん蓄えていきます。学童期ぐらいになると、生きていくために必要な情報は、ほぼ全て持っていると考えられます。但し学童期ぐらいですと、その情報を表現する体力と経験が不十分なために、大人のように巧みな行動ができません。行動のための情報には、日常社会生活をするための情報や、スポーツなどの体を鍛えたり、物を作るときの技能などの情報も入ります。

 頭頂葉から両側頭葉にかけての領域(知識の心)は、生下時から急激に成熟していきます。どんどん記憶を蓄えていきます。今の学校教育の主たる目的は、知識の心の情報(知識)を増やすことに置かれています。
 記憶には意識に上る陳述記憶(学童期前ぐらいから成立し、急激に増加する)と意識に上らない記憶とがあります。意識に上らない記憶には意識活動を支える記憶と、情動活動を支える記憶とが有ります。これらの意識を支える記憶と情動を支える記憶はお互いに重なり合っていて、区別できません。

 大脳辺縁系(情動の心)は情動(情動を認識したものが感情)を体全体に表現するための脳です。感覚情報を評価する(受けた感覚情報について反応の仕方を決める)ところは扁桃体です。その評価された結果は脳幹に伝えられて、具体的な情報にされて、体中の臓器(循環器、呼吸器、消化器、内分泌器、皮膚など)で情動を表現します。命に直結しますから、人間の”本心”と表現できます。また、その評価された情報は大脳辺縁系前部から前頭前野に伝えられて、運動連合野から運動野(反応の心)に送られて、具体的な情報にされて、情動行動(情動だけから生じる行動)を生じます。前頭前野では、意識や思考に大きな影響を与えます。
 情動には刺激を受けたときその刺激を求めようとする反応(接近系)とその刺激から逃げようとする反応(回避系)と大きく二つに分けられます。人間の場合この接近系と回避系を、その人間が置かれている状況からいろいろと表現しす。例えば接近系なら、嬉しい、楽しい、欲しい、などです。回避系なら、怖い、悲しい、辛い、などです。子どもの成長しようとする能力や母性などは接近系に属します。回避系の本能として逃げる、良い子を演じる、暴れる、すくむ、などがあります。これらの本能について、子どもに関する本能は”第四章、子どもが持つ、成長しようとする本能とは何か”、”第五章、子どもが辛い状態になった(回避系の刺激を受けた)時の反応の仕方”で詳しく述べます。
 情動に接近系と回避系の刺激が同時に加わったとき、全体としての情動は、接近系と回避系の刺激が互いに相殺して、その強かった方の刺激への反応が、その強かった分だけ、情動反応として表現されてきます。現実の子どもが示す情動について、この事実をふまえて考える必要があります。又、子どもが回避系の刺激で苦しんでいるときには、接近系の刺激を与えてあげると、接近系の刺激が回避系の刺激を相殺して、子どもの心を辛さから守られます。
 接近系の刺激には一般に慣れが有ります。同一の接近系の刺激を与え続けると、その接近系の効果が無くなります。無関刺激になってきます。回避系の刺激には慣れがありません。それどころか回避系の刺激には相乗効果があります。はじめは微弱な回避系の刺激が、同一の回避系刺激を繰り返し経験すると、同一の回避系の刺激がだんだん強い回避系の刺激になってきます。多くの人では些細な嫌なことで、子どもによっては大変に苦しんでしまうようになります。
 大人は回避系の刺激を自分の意志で調節して、耐えて、回避系の刺激が無くなるまで待てます。ですから大人は子どもに、辛くても耐えて、辛さを乗り越えるように要求します。大人は辛くても耐えて、辛さを乗り越えられますが、子どもには無理な要求です。この事実を多くの大人は知りません。そのために、子ども達が苦しんでしまう場合が多いです。大人は苦しむ子どもが悪いと考えてしまっています。


第三章 大人とは、子どもとは

1、 大人とは

 人間以外の哺乳類では、大人というと形態的に、性的に、成熟していて、子孫を作り残せます。人間の場合、非常に大きな社会生活をしていますから、単に体格(形態)的に、性的に、成熟しているだけで大人とは言えません。社会生活ができる状態になることも大人の条件に入ります。
 人間が社会生活を営むのに必要はものは理性です。人間の大人は、理性的(社会的な経験が十分にあり、思考の心が十分に機能をしている)である必要があります。理性的である、理性からの社会生活ができるきるとは、次の四つの条件をどれかを満たす必要があります。

1、行動が子どもの行動と異なり、理性からの行動になっている(他人からの指示や社会常識に従わないで、自分の情動を調節して、自分の考えから行動する)
2、無意識に行う習慣的な行動が、社会に適している(毎日の生活が周囲の人に迷惑を掛けない)
3、社会生活をするに必要な知識を持っていて、その知識から思考し、行動する(社会常識から考えて行動する)
4、経済的に自立している(人間が社会生活を営むのに、経済面からも考える必要がある)

2、 子どもとは

 特殊な例外を除くと、この大人の条件を満たさない人間を子どもと表現して、間違いないと思います。
 思春期以前の子どもを考えるとき、子どもは大人を小さくして未熟にした物と、多くの人が考えがちです。それは大きな間違いを生じます。確かに身体は大人を小さくして未熟にした物ですが、その心は本質的に異なっていると考えた方が良いです。一番間違いやすい事実は情動に関するものです。3、4歳を過ぎた子どもは、既に大人と同じような情動を持っています。大人と同じように扱う必要があります。それどころか子どもは知識で情動を調節できないために、とても素直に情報を表現します。子どもの感情の純粋さを感じる要因です。
 思考の心は思春期頃に成熟します。この思考の心を利用して行動できるようになるには、それなりの経験を積む必要がありますから、思考の心が十分に機能し出すのは、思春期から遅れます。その遅れ具合は子どもによって異なります。思考の心を利用して反応する練習をしている子どもは、早く大人と同じような行動が可能になります。思考の心を利用して反応する練習が不十分な子どもは、大人と同じような行動を期待できません。年齢の割に子どもっぽく感じる原因です。
 思春期以前の子どもでも、知識の心や反応の心は大人に負けないぐらいに情報を持っています。大人と違って、子どもは経験が不足していますから、知識を上手に表現できないことが多いです。しかし子どもによっては大人顔負けの知識を表現できる子どもがいます。思春期以前の子どもは体が大人と同じように成熟していませんから、反応の心からの情報を上手に表現できないことも多いです。しかし大人と同じような体力を必要としない分野、芸術などの分野では、とても素晴らしい技術や能力を示す子どもがいます。大人は子どもだからと言う考え方をしますが、子どもといえども、大人と対等に考えた方がよい場合が多いです。


第四章 子どもが持つ、成長しようとする本能とは何か

 自分が育ってきた事実、他の子ども達が育つ姿を見て、子どもが何らかの原因で死なない(他の動物では淘汰されない)限り、子どもが育つことを私達は知っています。子ども達は毎日、寝て、起きて、食事をして、学校に行って、遊んでの繰り返しです。この繰り返しの中で、子ども達は身体的な成長をし、知識を増やし、社会性を得ています。時間が経つに従って、目に見える成長をして、いつの間にか大人になっています。
 子ども達は子どもが持つ本能(人間という種に共通)、性格(その子どもなりに親から受け継いだ物と、その時までにその子どもなりに学習した反応の仕方)と周囲(環境)との関わりで、その子どもなりに、育ち(生き)続け、生きていくための知識を得ています。社会性を得ています。
 子どもが成長するために、衣食住に相当する物が必要です。その衣食住に必要な物を親(主として母親)から求めます。親に守られて、子どもは成長をしていきます。必要な物を親から十分に得られないとき、または子どもが親から得ようとしないとき、その子どもなりに周囲から得ようとします。それもその子どもなりの成長の仕方です。子どもは周囲と関わりながら、社会性を得て、その子どもなりに成長をしていきます。
 その成長には一定の方向性があります。それは大人にはないものですから、子どもの本能として列挙しておきます。これらの項目は、全てダーウィンの自然淘汰の原理から弁証法的に、子どもの本能として証明できます。

1、成長する。母親と認識する人に信頼されている必要がある
2、与えられた環境に順応しようと学習する
3、自然に湧き出すエネルギーが大きい
4、新しいもの(刺激)を求める
5、習慣化していない
6、優しい。特に、母親が喜ぶのが好き
7、刺激に素直に、精一杯、反応して行動する
8、知識からの行動が大変に難しい

 子どもが成長をする事実は、現実を見ていればわかります。家畜などの動物は、餌などを与えておけば、成長をして大人になれます。人間の場合、子どもが母親と認識する大人がいないとき、子どもの心はとても不安定になり、社会に順応する形で心が育ちません。それどころか肉体も十分には育たない場合が見られます。
 子どもが子どもを取り巻く環境に順応しようとする事実に、気付いている人は少ないです。子どもはその心が安定している限り、自分を取り巻く環境と仲良くして、その環境に適合するように成長します。つまり、子どもの心が安定していると、子どもは周囲に迷惑を掛けるようなことをしないという意味になります。子どもが周囲に迷惑を掛けるようなことをするときには、子どもの心が安定していない、何か子どもがとても辛い状態にあると考えられます。又は、子どもは経験不足なために、失敗をしたという意味になります。親や大人はその子どもを正そうとするのではなくて、その子どもの辛さから守ろうとしなくてはなりません。経験不足を許す必要があります。子どもはその心が安定していると、家族が大好きです。家族を含む故郷が大好きです。その故郷を含む日本が大好きです。
 子どもの心が安定していると、自然に湧き出すエネルギー(何かをしようとする意欲)が子どもにあります。子どもは何もすることがないと、その子どもなりに何かすることを見つけ出して、それに夢中になります。子どもなりの学習をします。それは大人にはないので、大人は子どもが何もしていないと思うときには、無理に子どもを動かそうとします。子どもが何もしていないと見えるとき、子どもは何か辛いことがあって、動けなくなっています。それを無理に動かそうとすると、子どもはますます辛くなり、ますます動けなくなるか、問題行動を起こしたり、病気の症状を出すようになります。
 子どもは心が安定していると、次から次と子どもにとって新しい物を求めて動きます。子どもは同じことを続けてすることが難しいです。子どもは自分が知らないことを知ろうとして、自分を取り巻く社会に積極的に順応しようとします。
 子どもは経験が少ないから、毎回同じようにできません。同じことを繰り返す場合でも、大人にとっては馬鹿げた失敗を繰り返します。失敗を繰り返すと失敗をしなくなります。経験を繰り返すことで、上手に生活をできるようになります。習慣化していきます。大人は子どもの失敗を許さない傾向にあります。失敗しないように子どもに指導をし、手出しをします。それは子どもが伸びようとする能力を奪ってしまいます。
 子どもは本来、周りの物や人にとても優しいです。周りの人や物に守られて、子どもは成長していく必要があります。優しくないと、子どもは与えられた環境に順応できません。子どもが周囲に優しくない場合、それは子どもの心がとても辛い状態にあるというサインです。大人は子どもが優しくないことを正そうとするのではなくて、子どもが何か辛い状態にあることから、子どもを守る必要があります。
 子どもは刺激を受けると、その刺激に精一杯反応して行動します。子どもが持つ物理的なエネルギーを精一杯注入して、行動しようとします。その子どもなりに精一杯学習をしようとします。子どもが精一杯反応して学習しようとしない姿を見たら、それは子どもの心が何か辛い状態にあり、精一杯反応できない状態にあると考えられます。
 子どもの前頭前野は未だ成熟していません。その機能が不十分です。前頭前野の機能とは思考からの行動や情動を思考で調節することです。子どもは思考や思考行動、情動を調節できないかとても下手です。子どもが教えた通りに行動できなくて、子どもを叱る大人がいます。子どもは教えられた知識から行動ができないか、とても下手です。子どもが大人の思うように動いてもらうには、子どもが喜んでその行動をして、反復して、反応の心の知識として覚えるしか方法がありません。


第五章 子どもが辛い状態になった(回避系の刺激を受けた)時の反応の仕方

 子どもが回避系の刺激を受けると、その刺激から逃げようとします。怖い人を見たとき、子どもがその場から逃げようとするなど、わかりやすいと思います。登校拒否(心の中が不登校)の子どもが、学校から逃げようとする、学校に行こうとしないのも、このためです。人間以外の動物では、回避系の刺激を受けて逃げられないときには、死に直結してしまいます。それ程、子どもでは回避系の刺激を受けたとき、逃げることが大切です。子どもが逃げていく場所は、母親の側です。
 その回避系の刺激から逃げられないとき、子どもは良い子を演じます(”第七章、良い子を演じる”を参照)。良い子を演じるとは、その時までに学習した知識を利用して、子どもを辛くする(回避系の刺激を与える)人の希望に沿った行動をすることです。その人の希望に沿った行動をすることで、その場の回避系の刺激を、辛さを回避しようとします。この回避系の刺激を回避しようとする行動は無意識に行われれます。子どもが叱られて、言われたことを実行しようとするのは、子どもが良い子を演じようとするからです。大人でも子どもと同じような良い子を演じる場合もあります。
 子どもが良い子を演じている姿と、子どもが本質的に良い子である姿と、区別することが大変に難しいです。多くの大人は子どもが良い子を演じている姿を、子どもが本質的に良い子だと理解しがちです。大人に都合良く解釈してしまうからです。子どもが良い子を演じている場合は、良い子過ぎるように感じられる程、良い子の姿をします。逆に、子どもが良い子過ぎると感じられるときは、子どもが良い子を演じている可能性を考える必要があります。
 その回避系の刺激を受けて、逃げられない、良い子を演じられないとき、子どもは暴れたり、大人の嫌がる行動や不法行為をします。家庭内暴力、学校内暴力、虐めをする、暴走行為をする、酒を飲む、シンナー、たばこを吸うなどもこのような行動からです。子どもがこれらの問題行動をするとき、大人は子どもの性格に問題があるから、子どもの性格を正さなくてはならないと考えます。子どもの性格を矯正しようとします。大人の力で子どもの問題行動を押さえつけようとします。その様な対応を受けた子どもは、自分の辛さを解消できないばかりか、それ以上の辛さを感じるようになりますから、押さえつける大人の力がなくなったときには、もっと酷い問題行動をするようになります。問題行動が繰り返されて習慣化する(例えば盗み癖)と、子どもが大人になったとき、問題行動を繰り返してしまいます。”問題行動をするだめな人間”、犯罪人として、社会から一生見放されてしまう可能性が高くなります。
 その回避系の刺激を受けて、逃げられない、よいこを演じられない、暴れられないとき、子どもは自律神経症状、精神症状などの病気の症状を出します。自律神経症状としては、頭が痛い、お腹が痛い、吐き気がする、嘔吐する、下痢をする、めまい、しびれなどがあります。精神症状としてはチック、不眠、こだわり、幻聴、幻覚などがあります。多くの大人は子どもが病気ではないかと考えて、子どもを病院に連れて行きます。医者は症状から診断をしますから、病気の症状がそろっていると、病気だと診断します。薬を投与します。親は医者が病気だと診断すると、子どもが病気だと信じ込みます。治療を受けさせようとします。医者の指導する通りに薬を飲ませます。子どもが辛さから病気の症状を出しているとは全く気付きません。子どもが一生心の病人として過ごさなくてはならなくなる可能性が高くなります。
 子どもが辛い刺激を受けて、その刺激から逃げられる限り、子どもの心には影響がほとんど無いです。しかしその刺激から逃げられなくて、良い子を演じたり、暴れたり、病気の症状を出すようですと、心に解決が難しい問題を生じるようになります。 
 子どもが暴れるなどの問題行動を行うとき、大人は子どもに問題がある、子どもの性格を正す必要があると考えます。子どもに対して大人の力で問題行動を押さえつけようとします。それは心が辛い状態の子どもをより辛くします。大人の力で押さえつけられて、その時は問題行動を止めますが、大人の力がなくなったときには、より激しく暴れるなどの問題行動をするようになります。子どもが暴れるなどの問題行動の解決にはなりません。子どもが暴れるなどの問題行動を見たときには、その子どもに辛い刺激が加わっていて、それから逃げられない状態にあると考えなければなりません。子どもをその辛い刺激から守る必要があります。
 子どもが自律神経症状や精神症状を出すときには、大人は子どもが病気だと考えて、子どもを病院に連れて行きます。医者も症状から診断しますから、子どもに病名をつけて、投薬などの治療を行います。子どもが自律神経症状や精神症状を出しているのは、子どもに辛い刺激が加わっていて、それから逃げられない状態にあるのです。病気として治療をしても解決になりません。確かに薬は症状を軽減させますが、それは脳が症状を出すのを抑制するからです。そればかりでなく、薬は子どもの心が元気になろうとする力まで奪いますから、子どもの症状が薬で無くなっても、子どもの問題解決を先送りしているだけになります。
子どもが感じている辛さを測定する方法はありません。しかし子どもが回避系の刺激を受けたときに示す反応の仕方が、子どもが感じている辛さの程度を測定する目安になります。回避系の刺激を受けて、その刺激から逃げようとするのが子どもの辛さとして一番軽いです。その次がよい子を演じているときです。その次が暴れる、問題行動をするです。子どもの辛さが一番強い状態は、病的な症状を出す状態です。それ故に社会常識に反していて、とても信じられないかも知れませんが、子どもが病的な症状を出していると、その子どもは心の病気と考えるのではなくて、とてつもなく心が辛い状態にあると考える必要があります。子どもが暴れたり、問題行動をしているときには、子どもの性格がおかしいと考えるのではなくて、子どもの心がとても辛い状態にあると考える必要があります。

第六章 子育ち、心の成長

 子どもは身体的な成長と同時に、脳が成長して、生命を維持するのに必要な領域から脳が成熟していきます。脳が成熟した領域の中に、経験した結果(学習情報)を蓄積していきます。生命を維持する脳とは脳幹と大脳辺縁系です。大脳辺縁系の中には人間の本能的な能力と、生まれたときから必要な情報が存在しています。
 子どもでは、外から働きかけなくても、大脳辺縁系にある子どもの本能(第四章、子どもが持つ、成長しようとする本能とは何か”を参照)が機能しています。子どもは眠っていない限り、何かを求めて動き出すという、大人にはない心の働きがあります。何かを求めて動き出し、その動いた結果を学習情報として記憶して、子どもに与えられた環境や、子どもを取り巻く社会に順応していこうとします。

1、 胎児の心の成長
 胎児は胎内で脳の成熟と共に、胎内での経験を蓄積していきます。胎内での経験とは生きていくための情報です。大脳辺縁系が成熟するとその中にある本能や、親から譲り受けた情報で、胎児は動き、反応して、大脳新皮質に記憶を蓄えていきます。また、大脳新皮質の知覚領域も成熟してきますから、胎内で聞いた音を記憶している可能性があります。母親の情動も血流やホルモンなどを介して、受け取り記憶している可能性があります。その胎児なりの情動を形成し始めている可能性があります。
 妊娠中の母親がストレス状態にあると、母親の副腎からグルココルチコイドが分泌されます。それが胎盤を通して胎児に移行します。胎児に移行したグルココルチコイドは成熟過程にある胎児の大脳辺縁系に作用して、ストレス刺激に敏感な子どもになる可能性があります。類人猿などのあらゆる哺乳類でその可能性が指摘されていますから、人間の子どもにも当てはまる可能性が高いと考えられます。

2、 新生児の心の成長
 新生児は大脳辺縁系の中にある本能的や親から譲り受けた能力と、既に胎内で学習した能力とで、周囲に働きかけます。大脳新皮質の知覚領域は成熟していますから、周囲からの刺激に反応して、頭頂葉から側頭葉に掛けての領域が成熟すると共に、新生児としての経験を記憶情報として蓄積していきます。同じ経験を繰り返すことでその記憶を強化していきます。その子どもなりの感性を含めた情動ができは始めています。
 母親は本能的(母性から)に、新生児が希望する物(接近系)を与えようとします。新生児が嫌がる物(回避系)から守ろうとします。新生児が嫌がる物を与えると、新生児の生命が危機危機に陥るし、心や体の成長に悪影響を与えるからです。

3、 乳幼児の心の成長
 乳幼児期の子どもは移動が可能になり、受けた刺激や、その時までに学習した能力から生じる欲求で動きます。移動をします。移動した環境下で、大脳辺縁系の中にある本能や、親から譲り受けた能力と、既に新生児期までに学習した能力とで、子どもは周囲に働きかけ、反応をしていきます。この移動の仕方、周囲に働きかけ、反応する姿を、親や大人達は、その子どもが持って生まれた性格だと理解してしまいます。大脳新皮質の知覚領域は成熟していますから、周囲からの刺激に反応して、頭頂葉から側頭葉に掛けての領域が成熟すると共に、乳幼児としての経験を記憶情報として蓄積していきます。習慣化した反応や行動がはっきりと見られるようになります。その際に生じた情動も、情動記憶として記憶していきます。同じ経験を繰り返すことでその記憶を強化していきます。その子どもなりの感性がだんだんはっきりしてきます。その子どもなりの情動を完成させていきます(三、四歳ぐらいには情動が完成して大人の情動とほぼ同じようになっています。その現れの一つがいわゆる第一反抗期と言われているものです)。
 知覚情報として、ミラーシステムという学習の仕方があります。人間だけでなく霊長類でも見られる学習の仕方です。主として親の行動を、情動を、子どもは見るだけで、聞くだけで、あたかもその行動や情動を自分が経験したかのように情報として記憶します。そのミラーシステムで得た情報から、同じ状況下で行動をし、情動を表現することが可能です。いわゆる真似と表現されるものです。真似を実行し、繰り返すことで、その子どもなりの能力にすることができます。
 この時期は感覚的な能力が効率よく身に付き易い時期です。芸術的な能力や発声、発音、感性などの能力を伸ばすのに良い時期です。これらの能力は情動の心の完成時期と同時に知識の心が完成(知識の心の領域が全て成熟しているが、情報は未だ記憶されていない)してきている時期でもあり、ミラーシステムでの学習の仕方も効率よくなされるからだと考えられます。
 母親は本能的に、乳幼児が希望する物(接近系)を与えようとします。乳幼児が嫌がる物(回避系)から守ろうとします。乳幼児期の子どもがストレス刺激から守られないと、ストレス刺激に対する感受性が高まります。成長の過程で、大人になって、ストレス刺激に敏感に反応して、社会への不適応を起こしやすくなります。いわゆる心の病気を生じやすくなります。
 乳幼児期になると、子どもが内在的な欲求から行った行動が親を困らす場合があります。親の希望と異なった場合があります。その時親が子どもの行動を制限しようとします。また、親は子どものためと考えて、子どもの内在的な欲求を抑えつけて、親の希望する行動をさせようとします。いわゆる躾です。躾については”第八章、躾”で考えてみます。

4、 学童期の心の成長
 学童期になると子どもは親が存在しなくても移動が可能になります。陳述記憶が発達してきて、言葉と文字を使った形の学習を可能にします。学校という集団でする生活が長くなります。受けた刺激や、その時までに学習した能力からの欲求で動きます。いろいろな環境下で、大脳辺縁系の中にある本能や親から譲り受けた能力と、既にその時までに学習した能力とで、子どもは周囲に働きかけ、反応をしていきます。この移動の仕方、周囲に働きかけ、反応する姿を、親や大人達は、その子どもが持って生まれた性格だと理解してしまいます。
 学童期になると思考活動をしているように感じられます。しかしそれはその子どもなりの経験の中から、その状況にふさわしい経験(行動や知識)を追憶して反応(潜在意識で行われていることに注意して下さい)したり、陳述記憶を追憶して表現しているだけであり、大人と同じように過去の経験や記憶を分析して、組み立てて、その結果に基づいて表現したり、行動をしたりしているのではありません。過去の経験を思い出して、その状況にふさわしい行動をするのは人間以外の動物でも見られます。
 大脳新皮質の知覚領域は成熟していますから、周囲からの刺激に反応して、頭頂葉から側頭葉に掛けての領域に、経験を記憶情報として蓄積していきます。運動連合野に蓄えられている習慣化した反応や行動が中心とした生活になっていきます。その際に生じた情動も、情動記憶として記憶していきます。同じ経験を繰り返すことで、その記憶を強化していきます。強い情動を伴った情報は、より早く強く永久記憶化されます。ミラーシステムで得た情報を繰り返すことで、その情報を記憶し、強化していきます。真似を実行し、繰り返すことで、その子どもなりの能力にすることができます。肉体的にも大人に近づいてきていますから、運動能力を伸ばすのに良い時期になります。
 母親は本能的に、子どもが希望する物(接近系)を与えようとします。子どもが嫌がる物(回避系)から守ろうとします。ところが学童期になると、子どもが内在的な欲求から行った行動が親を困らす場合があります。その時親が子どもの行動を制限しようとします。いわゆる躾です。親が子どもの行動を制限したり、親が希望する方向へ子どもを動かそうとするときに、親は子どもに子どもが喜ぶ物か、子どもが嫌がる物を同時に与えないと、子どもは動きません。

5、 思春期の心の成長
 思春期の子どもの心は基本的に学童期の子どもの心と同じです。前頭前野(思考の心)は成熟してきていますが、まだその機能を発揮させるような経験が不足しています。
 思春期になると身体的にも、性的にも成熟していますし、自分を表現する体力を持っていますから、子どもが行う表現は大人と同じになってきます。大人と対等な行動や性行動ができます。
 思春期になると、子どもはしっかりと自我ができていますから、自我に基づいて反応し、行動します。親は力で子どもを動かせなくなっています。しかし親は親の希望する方向へ子どもが動くことを求めます。

6、 思春期以後の心の成長
 思春期以後の子どもは基本的に思春期の子どもと同じです。しかし子どもによっては前頭前野(思考の心)が大人並みに機能をしている子どももいます。その様な子どもは、その子どもなりの思考行動に基づいて行動できますし、自分の情動を調節することができますから、大人らしく感じられます。前頭前野(思考の心)が大人並みに機能していない子どもは、子どもっぽく、幼稚に感じられる大人に見られます。

7、 心が不安定な子どもの子育ち
 乳幼児から思春期以後の子どもまで、どの時期の子どもについても当てはまります。心が不安定という意味は、情動の回避系の刺激閾値が低下(嫌に感じる刺激に敏感になっている)していて、回避系の反応を起こしやすい状態です。情動で回避系が働きやすいと、接近系が働かなくなりますから、子どもで見られる、内発的な欲求が生じなくなっています。回避行動に関係する経験が蓄積されて、子どもに与えられた環境に、子どもの周囲の社会に、不適応を起こす経験が蓄積されていきます。接近系の反応が少ないので、心の発達として感じられる物が無い場合が多いです。

 母親のお腹に赤ちゃんができると、赤ちゃんは胎盤を通して母親から栄養を貰い成長していきます。母親は意識をしていないけれど、赤ちゃんはその本能から育っていきます。生まれ落ちたら直ぐに生きていける能力をつけるために、子宮内で胎児なりの活動をしています(例えば手足を動かす。指を吸う)。子育ちを始めています。
 赤ちゃんが生まれると、母親は母乳やミルクを与えて、着物を着せて、おむつを取り替えて、赤ちゃんを育てます。このとき母親は赤ちゃんを育てていますが、赤ちゃんから見たら成長に必要な物を母親から貰って、本能に基づいて育っているのです。その育つ過程で、周囲の人が刺激に対して反応する反応の仕方を真似をして(ミラーシステム。相手の動きや反応を見ているだけで、脳の中でその動きや反応を自分でしているのと同じ情報伝達や神経回路ができる。その後必要なときに、同じ神経回路が働き、情報伝達がなされて、同じ反応や行動ができるようになる)、赤ちゃんの情動を形成していきます。周囲の人が気付かなくても、赤ちゃんは真似をするという形で、赤ちゃんの基本的な反応の仕方を形成します。初めのうち、その形成した情動反応は不完全です。その形成した情動反応を赤ちゃんが繰り返すことで、情動反応を強化していきます。赤ちゃんの性格形成が始まっています。
 乳、幼児期になると、子どもはその本能から育って、子どもの本能と情動から動き出します。子どもの方から周囲と関わってきます。その子どもの動きに母親は、して良い動きと、して悪い動きを教えようとします。子どもの心を育てようとします。子どもから見たら、母親の関わりを拒否したり、受け入れたりして、その子どもなりの行動の仕方を確立していきます。子どもなりの心が育っています。いわゆる躾が始まっています。
 子どもが言葉を使えるようになると、子どもは自分の心を言葉で表現するようになります。その言葉に反応して、母親も言葉で子どもに関わってきます。子どもも母親の言葉から、その子どもなりの反応を始めます。このとき母親は言葉で子育てをしていると判断しますが、この時期の子どもに言葉は単にサインです。子どもは言葉も利用して、その子どもなりの反応の仕方を形成しながら、育っています。
母親は子どもを子ども同士の集団の中に入れます。子どもはその本能から、その情動から、それまで経験して得た反応の仕方から、他の子どもと関わります。母親は子どもが他の子どもとの関わり方を言葉で、行動を強制することで関わります。母親は子育てをしていると理解しますが、子どもは他の子どもや大人達との関係の中で、その子どもなりに関係して育っているだけです。家庭では得られない環境の中での経験から、その子どもなりの経験を蓄積していきます。知識の心と反応の心に情報を蓄えます。
 子どもが学校に行き出すと勉強する(陳述記憶を増やす)ように要求されます。子どもの中には、興味を持って勉強をする子どももいます。それは子育ちです。多くの子ども達は勉強を強要されています。それは子育てです。勉強を強要された場合、強要された辛さを中和するために、子どもが楽しめる物が必要です。どの子どもでも楽しめる物とは、得て嬉しい物とは、母親の喜びです。子ども達は母親からの喜びを得るために、心が元気な子どもの良い子を演じ(未だその子どもができないことに挑戦して、できるようになっていく)ながら成長していってくれます。親は子どもに学業成績が上がることを希望して子どもに関わります。子どもに学業の機会を与える形で行われる子育てになります。子どもの方は学業成績を上げたくて勉強をするのではなく、母親を喜ばすために勉強に挑戦しながら育っています。そのようにして育った結果、知識が増加して、学業成績が上がります。
 親や大人は意識的に、多くの場合意識しないで、親として当たり前なこととして、子育てを続けています。子どもは親や大人からの子育てを受け入れながら、子育ちをしています。しかし親や大人は否応なしに子育てを意識しなければならなくなるときがあります。
 それは学校や社会から、子どもの問題点、子育ての問題点を指摘された時でしょう。親は一生懸命子どものためと思って子育てをしています(親が子どもに虐待をする場合は除く)。普通は誰かから子育ての問題点を指摘されない限り、又は子育ての問題点を感じるような状況にならない限り、それまでしてきた子育てを続けて、子育ての問題点を考えません。
 子育ての問題点を親が意識したとき、それは今までの子育てが違うから、もっと正しいと考えられている子育てに従おうとします。社会一般で言われている子育てを行います。それで子育ての問題点が解決すれば、それで良いですが、多くの場合、社会一般で言われている子育てでは、子どもの問題点を解決できないことが多いです。そればかりか、社会一般で言われている子育てで、子どもの問題がもっと悪化して、子どもがますます辛くなっていきます。親はますます子育てに苦慮して、悩み続けることになります。
 そこで考えていただきたいことがあります。それは、多くの子どもは学校や社会から問題点を指摘される前まで、とても元気な良い子に育っていたという事実です。それが子ども社会と関わりだしたときから、子どもが学校に行きだしたときから、子どもに問題点を指摘されるようになっています。そして学校から子どもの問題点を指摘されたときには、親は子どもの問題点ばかりを気にしてし、それを解決することばかりを考えて、既に子どもの心は辛い状態にある事実を親が気づかないことです、


第七章 良い子を演じる

 動物に強いストレス(嫌悪)刺激を与えると、そのストレス刺激から逃げ出します。逃げ出せないときには、暴れます。暴れられないときには、すくみの状態(ストレス刺激を受けていても動かなくなる)になります。人間の子どもでも同様です。子どもが辛くなると、その辛い場所から逃げ出します。逃げ出していく場所は母親の側です。子どもが辛くても、その辛い場所から逃げ出せないと、暴れたり、他の人が嫌がるような問題行動をします。子どもが辛くて、その辛い場所から逃げ出せなくて、問題行動もできないとき、子どもは病的な症状を出します。これらの反応の仕方は、子どもによって程度の差があることを注意してください。周囲から見ても気づかない場合もあります。
 人間の子どもの場合、ストレス刺激から逃げ出せないときに、暴れないで、いわゆる良い子を演じます。良い子を演じるとは、人からストレス刺激を受けたとき、無意識に相手の希望する行動をして、相手を納得させて、それ以上のストレス刺激を受けないように行動する場合です。どのようにしたら相手の希望する行動になるか、子どもの方で知っている必要があります。子どもに優れた記憶力がないとできない反応です。なぜ良い子を演じるか、その点は分かりません。理由はいろいろと考えられますが、脳科学的には不明です。傾向として、頭の良い子に、良い子であるようにと親から繰り返し対応されている子どもに、その傾向が強いです。
 良い子を演じている子どもは、良い子を演じなくて良い状況で、問題行動、反社会的行動をしやすいです。時にはこの問題行動や反社会的な行動が、大事件にまで至ってしまう場合もあります。「あんなに良い子がこんな事件を起こすなんて!」と周囲の大人が言うような場合です。これも子どもを観察した結果の子どもの傾向です。脳科学的な説明は付きません。
 学校で良い子を演じる子どもは先生の前でとても行儀正しいです。模範すぎるぐらいに良い子です。成績も良い場合が多いです。先生のお気に入りの子どもになります。けれど、先生や親のいないところで、程度の差がありますが、問題行動、反社会的行動をします。いたずら、いじめ、物を壊す、万引きをする、たばこなどを吸うなどを行います。良い子を演じている子どもについて、親や先生から見たら、とてもいじめなどの問題行動をするとは考えられません。先生や良い子を演じている子どもの親、大人たちは、いじめられている子どもに問題があると考えてしまいます。
 良い子を演じられる子どもはストレス刺激を受けると、その子どもの限界まで良い子を演じ続けます。良い子を演じ続けて、限界を超えたとき、子どもは荒れたり、問題行動をしたり、病気の症状を出すようになります。周りの大人は「あれだけ優秀な子どもが、どうしてこのようなことになったのか」と不思議に思う場合です。
 一般に人は社会常識を信じます。自分で見聞きしたことを信じます。自分で経験しないことを信じられません。子どもが良い子を演じてしまうと、その子どもは良い子であり、問題がない子どもと信じ込んで、子どもの本当の姿がわからなくなります。良い子を演じている子どもを理解するには、周囲の大人は脳科学的に考えなければならないのです。
 登校拒否、不登校、引きこもり問題に関わる人たちの中には、子育ての経験のない人、不登校の子どもを育てた経験のない人が結構多いです。そのような人は自分の経験の範囲で、自分の知識から、この問題を考えます。そのような人には、登校拒否、不登校、引きこもりを子どもの心に沿って理解しようとしても、それは大変に難しいです。それでいて、登校拒否、不登校、引きこもりを良く知っていると主張しています。
 良い子を演じている内に辛さから逃れられたら、子どもは素直に行動し、よい子を演じなくなります。良い子を演じていても辛さから逃れられないときには、良い子を演じる限界が来て、子どもは問題行動を起こしたり、病気の症状を出すようになります。
 元気な子どもが演じる良い子(挑戦を続けている姿)と、心が辛い状態の子どもが演じる良い子と、その子どもの姿から区別をつけられません。子どもが良い子を演じるようになる前の子どもの姿と、良い子を演じている経過から判断をするしかないし、判断できます。
 心が辛い子どもが良い子を演じるには、子どもが良い子を演じるに必要な知的な能力が無くてはなりません。子どもが過去の経験から、どのようにしたら大人が喜ぶかを学習していなければなりません。学習しただけでなく、必要な場面でその記憶を思い出す必要があります。つまり良い子を演じるためには、それなりの知的能力が必要です。いわゆる頭が良い子どもです。人間以外の動物にはあまり見られない反応の仕方です。
 子どもが本来の良い子の姿で成長している姿と、子どもが辛さを回避しようとして良い子を演じている姿と、外見上からは全く区別がつきません。強いて言うなら、良い子を演じている姿の方は、不自然な程良い子過ぎる傾向にあります。また、良い子を演じている子どもは、大人の前ではとても良い子ですが、大人がいない場所では、大人から見たら問題行動をしている場合が多いです。
 多くの大人は子どもが良い子なのか、子どもが良い子を演じているのか、区別をしません。良い子を演じている子どもの姿を、良い子だと理解するようです。そして子どもが良い子を演じ切れなくなって、子どもが問題行動を起こしたり、病気の症状を出すようになって、子どもの問題点に気づくようになりますが、その場合も子どもに問題点がある、子どもを正さなくてはならないと、考えてしまいます。


第八章 躾(例えば勉強をする習慣をつける)

 大人が希望しない行動を子どもがしないように、大人が希望する行動を子どもがするように、子どもに習慣づけることを躾といいます。乳幼児の時期、子どもの可愛さや子どもの能力の限界を理解できますから、親や大人が子どもの要求に合わせる場合が多いです。親によっては子どもが家庭以外の社会と関わりだしたときのことを考えて、この時期でも子どもの要求を抑えつけて、親や大人の要求を子どもに従わせ、それに基づく行動を習慣づけようとする場合もあります。子どもが家庭以外の社会と関わり出すと、親は強く子どもの要求を押さえつけて、親や大人の要求に子どもを従わせ、子どもの行動を習慣づけようとします。親が希望するように
 子どもはその時までに身につけた行動の仕方で行動をします。親や大人達の要求に従った行動が、子どもはできません。それでも親は子どもに、親や大人達の要求に従った行動をさせようとします。そこで親は子どもに、親や大人達の要求に従った行動をするとご褒美(接近系の刺激と表現します)をあげたり、親や大人達の要求に従った行動をしないと威嚇したり、罰(回避系の刺激と表現します)するなどをしなくてはなりません。
 親は子どもに言葉で、親や大人達の要求を伝えます(例えば勉強をしなさい)。親は言葉で子どもが動く(勉強をする)と考えています。子どもは言葉だけでは動けません。子どもは親からの言葉で行動(勉強)すると、親から得られる喜び(ご褒美、誉められる)を期待して、行動(勉強)をしようとします。又は、子どもは親からの言葉で行動(勉強)しないと親から受ける罰(叱られる)を感じ取って、その罰を回避するために行動(勉強)をします。親は子どもが親の言葉を理解して行動(勉強)をしたと考えます。子どもがご褒美か罰を感じ取って行動(勉強)をしたとは考えません。
 子どもが喜び(親から誉められる)を期待して行動(勉強)をするとき、喜びが与え続けられますと、子どもは行動(勉強)を繰り返して、その行動(勉強)が習慣化(自分から勉強をする)されます。習慣化された行動(勉強)は、喜びが無くても、必要なときに子どもは行動(勉強)をするようになります。習慣化される、躾ができあがります。母親は子どもにとって最高の喜びです。母親の言葉はそれだけで、子どもに喜びを与えます。父親については、それまで子どもにどれだけ喜びを与えてきたかで決まってきます。父親の言葉で、多くの子ども達は威嚇を感じるようです。学校の先生にも子どもは威嚇を感じます。父親や先生はその後ろに、子どもが母親の存在を感じています。その母親の感じ方で、子どもが言葉から喜びを感じて行動(勉強)するか、威嚇として辛さを回避するために行動(勉強)するか、決まってきます。
 子どもが罰(叱られる)を感じ取って行動(勉強)をするとき、その都度罰を感じ取ったり、罰を与え続けられますと、子どもは行動(勉強)を繰り返します。その姿は一見、その行動(勉強)が習慣化したように見えますが、子どもは罰(叱られる)を感じないときは行動(勉強)をしません。罰を感じさせる大人が居ないときは、その行動(勉強)をしません。それどころか罰を感じさせないところでは、求められた行動(勉強)の逆(問題行動)をしてしまう場合が多いです。子どもがいっぱい勉強をして、頭のよい子になってもらうのに、親は子どもを上手に誉めて喜ばしてあげる必要があります。どのように誉めたらよいか、それは親が子どもとの関わりで見つけ出すしか有りません。少なくとも叱って勉強をさせたときは、いずれ必ず限界が来ます。
 ここでもう一つ考えなくてはならないことがあります。ご褒美、喜びなどの接近系の刺激は慣れがあります。同一のご褒美なら、喜びの反応がだんだん弱くなっていきます。威嚇や体罰などの回避系の刺激は、作用の相乗作用があり、回避系の刺激に敏感に反応するようになります。子どもが欲しがる物を与えて躾しようとすると、子どもが欲しがる物を変えていく必要があります。威嚇などの回避系の刺激は、だんだん過敏に反応するようになります。回避系の刺激に過敏になると、躾をしているつもりでも、子どもに新たな恐怖の条件刺激(今まで恐怖を生じなかった物が、恐怖を生じるようになります。例えば子どものお医者さん嫌い)を学習をさせてしまいます。かえって子育てが難しくなります。
 多くの大人は子どもを叱ることで子どもを躾をしています。子どもを叱ることでうまく躾をできなかった経験を持っています。その際に、未だ叱り方が足りなかった、子どもを甘えさせてしまったと考えがちです。しかしそれは子どもに躾をする方法を間違っていたのです。子どもを叱ったり罰を与えたりして躾をしようとしても、子どもは罰からの回避行動をするだけであり、躾にならないのです。


第九章 物質的に豊かな時代

 子どもは親によって育てられます。親は子どもが必要とする物や、子どもが要求する物を子どもに与え(子育て)、子どもは親から与えられた物を利用して、自ら体も心も大人に向かって育っていきます(子育ち)。
 子育てとして一番わかりやすい成長は、身体的な成長でしょう。それは動物や植物を育てるのと共通しています。子どもに衣食住を与えることで、子どもは身体的な成長の保証を得て、成長をしています。ただし子どもに衣食住を与えるという意味が昔と、この半世紀の間では大きく異なってきています。昔、親は衣食住を子どもに与えるために大変な苦労をしました。子どもから見たら、衣食住が十分に満たされていないけれど、その満たされない状況下で、その子どもなりに育っていきました。ですから、衣食住が少しでも多く、良く、満たされることで、子どもは大変な喜びを得ることができました。
 最近の子ども、この半世紀間の子どもにとって、衣食住が満たされているのは当たり前になっています。昔の子どもでとても大きな喜びになった物が、最近の子どもでは喜びにならなくなっています。親から見たらとても贅沢な子どもになっていると感じられますが、子どもはそれが普通であり、贅沢だと意識していません。最近の子どもは物質的に満たされていますから、子どもの希望に添った衣食住を親がどのように与えるか、その対応の仕方が子どもが行動するための動機になっています。行動した結果のご褒美になっています。
 今まで子どもに与えられていた衣食住が与えられなくなった(罰として子どもが依存をしている物、大切にしている物を取り上げる。例えばおやつを取り上げる)とき、子どもはとても強い葛藤状態になります。ストレス状態になります。衣食住が与えられても、それが子どもの希望する物がない(他の家庭で有るのが当たり前と子どもが認識している物が、その子どもの家庭にはない場合。そしてそのないことに子どもが納得できないとき。例えばテレビゲーム機がない)と、子どもが納得できないと、子どもは葛藤状態になります。その状況をストレス刺激として感じるようになっています。けれど大人の方ではそれは子どもの我が儘と判断して、子どもの希望に添った衣食住を与えようとはしない場合があります。子どもの感じ方は時代による社会変化に沿って変わっていっているのに、親が自分の子ども時代の価値観を子どもに押しつけている場合です。
 物質的に豊かな時代に育つ子ども達は、物質的に豊かだからこそ、かえって葛藤状態に陥りやすくなっています。物質的に貧しかった時代の子どもに比べて、考えられないような物や事柄が子どもを辛くしています。いわゆる心が弱い子どもにしています。この事実に気付いている大人は少ないです。
 現在の大人達の多くは子ども時代に、親や大人達が自分達に無理解であったから、苦しんできた人たちです。その人たちが大人になると、子どもだった時の感じ方を忘れて、子どもだったとき親の無理解から辛かったことを忘れて、昔からの常識で、社会が物質的に貧しかった頃にできあがった社会常識で、子どもを判断するようになっています。大人達の親がしていたことと同じことをしています。そこで子どもと大人との間に心のずれを生じて、子どもが苦しむ原因になっています。大人達の不理解で子どもが苦しむと、その原因を子どもに求めてしまいます。大人達が子ども達を理解していないという問題点に気付こうとしていません。
 知的な能力を成長させる、身体的な機能能力的を成長させるという点でも、豊かな時代になると変わってきました。元来、子どもは自然の中で遊び、知的な能力をつけ、身体的な能力もつけました。遊びの中で生きていくための知識を身につけ、身体的な動きが俊敏になり、走るのも速くなったり、手先も器用になっていきました。これは子育ちです。学校では主として読み書き算数が主でした。その中で数少ない頭がよい子が、成績がよい子どもが、その先の学校に進んでいました。
 現在の親は子どもの知的な機能や身体的な機能を高めるために関わります。例えば塾に行かす、野球やサッカーを教えたり、水泳を教えたり、刃物の使い方など、生きるために必要と考えられる技術を教えたりします。それらは子育てになります。親の関わりが多くなればなるほど、子どもは遊びの中で自分の能力を伸ばす機会を失ってきています。子どもらしさを失う結果になっています。しかし子どもの希望と親が与えようとしているものとが一致したときは、子どもは無理なくどんどんその能力を伸ばしていきます。とても素晴らしい能力を発揮するようになります。
 現実に私達の子どもは、物質的に豊かな時代に育っています。子どもが納得できる程度の物質的に満たされた状態で、子どもが成長する必要があります。物質的に不足していると、子どもは葛藤を生じて辛くなります。それだけで問題行動を起こします。しかし少しでも満たされてくると、子どもは大きな喜びを感じて、学習に向かってくれます。物質的に豊かすぎると、子どもは物質に依存を生じて、学習に向かおうとする意欲を生じません。その豊かさが途切れたときに強い葛藤を生じて辛くなり、子どもは問題行動をするようになります。より豊かになれば、子どもは喜びを感じて、学習に向かってくれます。
 子どもが何かを要求するとき、その要求が親から見て途方もなく無理なものの場合があります。それは子どもが納得していないという意味で、子どもなりに意味がある要求です。親はとんでもないと否定するのでなく、可能な限り子どもの要求を満たす必要があります。もし親が子どもの要求を実現できないなら、親は子どもと相談する必要があります。子どもの要求を実現しようとする親の姿勢が必要です。子どもは親の姿勢に納得して、学業に向かってくれるようになります。


第十章 心が元気な子どもの論理、心が辛い子どもの論理

 子どもの心を分類すると、心が元気な子どもと心が辛い子どもに分けられます。子どもは元来、心が元気です。その子どもを辛くするものに出くわすと、心が辛くなります。その辛くするものがなくなると、子どもは心が元気になります。親や大人が子どもを辛くするものを取り除き、子どもを辛さから守ると、子どもの心は元気になります。親や大人が子どもを辛くする物を取り除けないと、子どもは良い子を演じるか、辛さを表現し続けます。子どもの心は辛い状態です。
 心の中に元気な状態と辛い状態が同時に存在している場合があります。心の中で元気さと心の辛さが互いに打ち消し合って、最終的に心が元気な状態か、心が辛い状態か、どちらか一方を表現している場合の子どもがいます。このような子どもはどことなくいつもの元気さがないか、予想される辛さ程の元気を失っていません。このような子どもは、例え心が元気なように表現していても、心が辛い状態の子どもと判断されます。

1、 心が元気な子どもの論理
 心が元気な子どもは、”第四章、子どもが持つ、成長しようとする本能”で書いてありますように、自分で育っていきます。子どもの方で周囲に働きかけて、成長をしていきます。子どもが持った興味や能力について、全力で挑戦して、大人の要求を受け入れて、自分の興味や能力を、伸ばしていきます。心が元気な子どもとしての良い子を演じて(困難なことに挑戦して乗り越えます)成長をしていきます。その姿は、大人が持つ経験や常識で、大人は理解できます。今の大人が持っている知識で子どもに対応をしても、子どもはそれを受け入れて、子どもの能力を伸ばします。学業や運動、芸術などの英才教育も可能です。多くの大人はこのような姿を子どもに求めています。
 心が元気な子どもが心が元気であり続けるために、子どもが信頼する大人(母親又は子どもが母親と認めている人、多くは女性)に守られている必要があります。俗説の「親はなくても子は育つ」という言葉は正しくありません。大人から見たら、衣食住をあたえて、教育して、躾て、子どもを育てているように感じられますが、心が元気な子どもは、親から与えられた物を受け入れて、その子どもなりに育っているだけなのです。子どもの心の成長は、基本的には与えられた環境の中でその子どもなりに育ちます。親は子どもに、親が希望する経験をさせるという意味で、親が子どもを育てています。
 胎児期では、子どもは遺伝情報から、情動を形成しています。新生児期も遺伝情報から反応して、情動を形成しています。 乳児期になると、遺伝情報と既に形成された情動から反応を続けて、ミラーシステムから情動を形成し続けて、情動を完成させます。幼児期になると主として既に形成された情動から反応して行動して、その子どもなりの反応行動を繰り返します。大人がその子どもの性格と感じる反応の仕方を確立していきます。学童期になると、情動行動を繰り返すに従って、経験からの行動が確立していき、増えていきます。思春期になると、情動が強く働くと情動行動になりますが、情動が働かないときには、経験からの行動が中心となって、反応して行動していきます。思春期以後になると、子どもによっては思考からの行動ができるようになります。しかし多くの行動は情動行動と、経験からの行動です。
 現在の日本社会で行われている子ども達の勉強法や、スポーツの指導法は、心が元気な子どもについて当てはまります。子どもを励ますことで、失敗を罰することで、子どもは挑戦を続けて、能力を伸ばしていきます。能力を伸ばした子どもにスポットが当てられて、社会から褒め称えられます。一般常識になっていて、全ての子どもに当てはめる傾向にあります。現在の子ども達の勉強法や、スポーツの指導法を、心が辛い状態の子どもに用いたなら、子ども達は良い子を演じるか、その場から逃げ出してしまいます。良い子を演じている場合は、その姿が挑戦をしている子どもと区別できません。しかし良い子を演じている子どもは、やがて良い子を演じ続けられなくなって、逃げ出すか、陰で問題行動をするようになります。

2、 心が辛い子どもの論理
 心が辛い状態の子どもは無意識に辛さから自分を守ろうとします。しかし守りきれないから、心が辛い状態のままです。辛さから自分を守ることで精一杯です。大人の要求を受け入れる余裕は有りません。大人からの要求は、心が辛い子どもにはとても大きな負担になり、ますます心が辛い子どもにしてしまいます。
 心が辛い子どもは、辛さから自分を守ることで精一杯ですから、心が元気な子どもでみられるような子どもの本能を発揮できません。”第五章、子どもが辛い状態になった(回避系の刺激を受けた)時の反応の仕方”に書いてありますように、辛さに対する生物としての心の反応を示します。それは辛さを回避するために良い子を演じたり、問題行動を起こしたり、病的な症状を出すようになります。
 今の常識的な大人は、子どもが辛さを回避するために良い子を演じていても、心が元気で性格も良い子どもだと理解してしまいます。自分の対応が間違っていないと判断して、ますます子どもへ要求を強めてしまいます。子どもが辛さを回避するための良い子を演じきれなくしてしまいます。子どもが問題行動を起こすようになると、常識的な大人は子どもの性格が悪いから、矯正をしなくてはならないと考えるようになります。
 それもますます子どもを辛くしますから、子どもは病的な症状を出してしまします。すると多くの大人は子どもが心の病気でないかと判断して、子どもを病院に連れて行きます。医者はその症状から病名を付けて、子どもに治療を始めます。子どもは辛くする物に反応して病的な症状を出しているのに、病気として治療をされたら、それは子どもをますます苦しめます。この事実は子ども特有の心理であり、今の大人の持つ常識で理解できません。
 心が辛い子どもへの対応は、子どもに問題があると考えるのではなくて、子どもが何かわからないもので苦しんでいると考えなくてはなりません。何で辛くなっているかわからないなら、心が安全な(子どもが辛く成らない)場所に子どもをかくまって、心が元気な子どもの本能が発揮するようにしなくてはなりません。辛さから守られて、その子どもなりの子育ちをする(心が元気になっていくような引きこもりをする)必要があります。辛い心を親から癒されると、子どもはより早く心が元気になって、自分から引きこもりを止めます。心が辛い子どもを早く元気にするには、親が子どもを辛さから守り、その辛い心を癒す必要があります。心が辛い子どもには、子どもの能力を伸ばす子育てをできません。


第十一章 子どもの学習法ついて脳科学的理解

 ”第四章、子どもが持つ、成長しようとする本能”に書いてありますように、子どもは自分の知らないことを学習しようとする本能を持っています。進んで学習に喜びを感じます。学習は家庭の中で始まり、能力が付いてくると、家庭外の子どもの中で学習を続けます。それが遊び友達であり、保育園や幼稚園であり、小学校、中学校となっていきます。子どもが自から学習をしようとするのは、喜びを伴った情動行動です。
 学校のような大きな集団は、子どもの自発的な学習だけでは成り立ちません。そこで子どもが好む、好まないに関わらないで、教育(勉強をさせる)が行われます。勉強に興味を持てた子どもは、教育に沿った自発的な学習を続けます。しかし勉強に興味を持てない子どもに、勉強を強制する必要があります。子どもを勉強するように動かすには、子どもが勉強をするとご褒美をあげるというやり方と、勉強をしないと罰を与えるというやり方があります。
 多くの大人は気付いていないけれど、子ども達の多くは先生の背後に母親を感じています。ですから先生が喜ぶ(子どもを誉める)とき、子どもは母親の喜びを感じています。子どもは自分の問題点に対して挑戦をしてくれます。心が元気な子どもに見られる良い子を演じてくれます。自分から学習をする子どもになっていきます。
 先生が怒るとき、子どもは辛さを感じます。辛さから回避行動としての良い子を演じます。良い子を演じきれない子どもは、問題行動や病気の症状を出したりします。回避行動としての良い子を演じた場合、子どもの学習効率がとても悪いです。回避行動としての学習ですから、辛さから回避できたら、それ以上の学習をしません。先生や母親の怒りがないと学習をしようとしなくなります。学習結果も回避行動としての意味が無くなると、早く消失してしまいます。
 先生が怒ることで子どもに学習をさせようとするときには、今まで気付かれていない大きな問題点があります。先生が怒ることで、子どもは辛くなります。その辛くなる程度は子どもによって差があります。先生がそれ程酷く怒ったつもりがなくても、子どもによってはとても辛くなる子どもがいます。その様な子どもは、子どもの周囲にある物について、辛さを生じる条件刺激を学習してしまいます。学校を見たり意識したり、学校に関連する先生や友達、勉強などでとても辛くなります。それは今の大人には理解できない現象です。いわゆる子どもの不登校や引きこもり、子どもが暴れたり、問題行動をしたり、病的な症状を出すなどの、性格の変化の原因になります。
 不登校(原因が何であれ、学校が辛くなって、学校に行けなくなる)や引きこもり(原因は何であれ、性格の変化を来して、家の周囲の物に辛くなり、家から出られない)にならなくても、子どもは学校での辛さを何かで解消しなければ、学校生活を維持できません。その辛さを子どもにとって最高の喜びである母親により癒されると、学校外でその子どもなりの遊びで癒されると、子どもは学校生活で生じた辛さを自分で解消して、学校生活を続けられます。学校での辛さを解消できない子どもは、学校内でその子どもなりの喜びを見つける必要があります。子どもは問題行動が悪いことだと知識で知っても、無意識にいじめをしたり、落書きなどの問題行動をしてしまいます。頭が良い子程巧妙にしてしまいます。それも、無意識にしてしまうことに注意をして下さい。


第十二章 全ての子どもはもともと良い子

 ”第四章、子どもが持つ、成長しようとする本能”に書いてありますように、子供は生まれながらに、その子供の周囲の環境に、自発的に順応しようとする能力と、母親の喜びに沿って成長しようとする能力を持っています。これは大人にはない能力です。大人の世界は競争(与えられた環境の中で自分の生命を維持するための競争)と、種を維持しようとする能力です。子どもは大人になると急激に子どもの能力から、大人の能力に変わっていきます。
 子どもが子どもの能力で大人になっていくためには、大人から、主として母親から守られている必要があります。子どもは母親の喜びを代償に、子どもなりの挑戦(その時の自分の能力以上のことをしてみる)を続けて、子ども自身の能力を高めて、大人になっていきます。その姿が心が元気な子どもの良い子です。どの子どもも辛さから守られて素直に育っている限り、心が元気な子どもの良い子です。ありのままの姿の良い子です。
 普通に子育てをしている大人にはとても信じられないでしょうが、子どもにはその子どもが生活している環境に順応しようとする本能を持っています。内発的な欲求から喜んでその家庭のあり方に沿って成長をしてくれます。親兄弟にとても優しくて、母親(常識に反しますが、父親ではありません。父親の希望を叶えようとするときには、父親からの威圧に対する回避行動か、父親が喜ぶと母親が喜ぶという、間接的な喜びから)希望に添った成長をしようとします。母親が喜んでくれるので、親兄弟から要求されたことを実現しようと行動をします。その要求が子ども自身を辛くするものであっても、その辛さを打ち消すだけの喜びを母親が与えてくれる限り、辛さに耐えて要求を実現しようとします。つまり親から見たら、子どもは本質的に良い子です。母親が与えられる喜び以上の辛さが無い限り、子どもは家庭では素直に良い子であり、辛さを回避するための良い子を演じていることはないです。
 心が辛い子どもが良い子を演じるとは、子どもがその子どもの持っている知識から、周囲の大人が喜ぶ行動や反応をいいます。それは子どものありのままの姿ではないのですが、周囲の大人はついついそれが子どもの本当の姿だと誤解してしまいます。子どものありのままの姿とは、子どもの内発的な行動(情動行動や習慣的な行動)や反応を言います。
 心が元気な子どもが良い子を演じる場合は、挑戦とも表現できます。子どもがその子どもの能力以上のことを求められたとき、子どもがその求められたことを達成しようとする姿です。それは子どもにとって辛いことですが、多くの場合、親から喜び(ご褒美)を得られるので、その喜びで辛さを解消して、良い子を演じ続けます。挑戦し続けます。親から得られた喜びで辛さを解消できないときには、子どもは良い子を演じるのを止めて、挑戦を止めて逃げ出します。この場合も逃げ出せることが多いので、逃げ出せたときには子どもの心に後遺症(辛さを生じる条件刺激を学習して、性格の変化を来すこと)を残すことはありません。
 逃げ出せないときには、または自分から逃げ出そうとしないときには、子どもは辛いという症状を出しながら良い子を演じ続けます。挑戦を続けます。その過程で目的を達したら、子どもは全ての症状を出さなくなって、能力を高めて、大きな自信を持てます。
 逃げ出せなくて、かつ目的も達成できないときには、子どもはだんだん心の元気を失っていきます。子どもは心が辛い状態になっていきます。心が辛い子どものよい子を演じるようになります。よい子を演じられなくなったときには、問題行動を起こしたり、病気の症状を出したりします。


第十三章 頭が良い子に育つ

 頭が良いという条件の一つは知識をたくさん持っていることでしょう。反応の心に、知識の心に、多くの情報(長期記憶)を蓄えていなくてはなりません。知識を増やすために学校教育があります。しかしいくら教えても、直ぐ忘れてしまう(短期記憶)では教えた意味が無くなります。子どもが反応の心に、知識の心に記憶してもらうために、親や先生を含めた大人達は、教えた内容を覚えなさいと要求します。
 子どもが教えられた内容に興味を持っている(子どもが教えられた内容に既に興味を持っていた場合と、子どもが持つ本能から自分が知らない事柄に興味を持つ場合があります。心が元気な子どもの場合です)なら、子どもの方からどんどん覚えて、その子どもなりにその知識を利用しようとします。学ぶのにとても効率がよいです。
 子どもが教えられた内容に興味がないなら、興味を持てないなら、子どもは覚えようとしないし、時には教えようとする場所から逃げようとします。それでは親や先生を含めた大人達は困りますから、覚えないと辛い思いをしなくてはならないという予告(後で叱られるという脅し)を与えたり、実際に叱ったりします。このような場合、子どもは辛さを回避するために覚えますが、教えられた条件の下で、要求された範囲を覚えるだけです。それ以上の学習をしようとはしません。断片的な学習になってしまいます。今日、子ども達の多くが行っている学習の仕方です。試験には役立つでしょうが、応用ができません。実生活には殆ど役立ちません。無理をして学習をしていますから、将来頭打ちになってしまいます。
 子どもは辛さを経験すると、その辛さを楽しさで打ち消す必要があります。昔の子どもは野山で遊ぶ、近所の子ども達と遊ぶなどで解消できました。今の子ども達にはそれがありません。ゲームをしたり、テレビを見たり、漫画を読んだりして、辛さを解消をしようとします。辛さを解消するのは、子どもが次の学習に向かって動き出すのにとても大切です。子どもが学習をしようとする意欲を作る源になります。
 ところが多くの親や大人達は、子どもがゲームをしたり、テレビを見たり、漫画を読んだりする姿を好みません。親や大人達は、子どもには学習が第一であり、学習の合間にできた時間だけ、これらのことを子どもに許します。子どもの学習に障害になると考えて、子どもに禁止や制限をします。それにより子どもは辛さを十分に解消できないで、次の辛さを経験しなくてはならなくなります。次の学習効率が悪くなります。子ども達がより辛くなった辛さを解消するために、長くゲームをしたり、テレビを見たり、漫画を読んだりするようになります。
 子どもが教えられた内容に興味が無くても、興味を持てなくても、子どもに他の楽しみ(ご褒美)を一緒に与えるか、与えられると予告された場合(後でご褒美を貰える)、子どもは喜んで学習をします。効率がよい学習の仕方です。学習をした内容を利用しようとします。子どもが学習に興味を持ったときには、その後ご褒美が無くてもどんどん学習をするようになります。子どもが学習内容に興味を持たなかったときには、ご褒美がないと学習を止めてしまいますが、学習により子どもが苦しむことはないです。
 ご褒美として、子どもが欲しがる物があります。子どもが欲しがる物の多くは、やがて慣れが来て、子どもが欲しがる物にならなくなります。ご褒美がご褒美でなくなります。どうしても限界を生じます。但し一つだけ子どもがもらい続けても、喜び続けられるものが有ります。それは母親の喜びです。母親の喜びを子どもに与え続けると、子どもは母親の喜びを楽しみにし続けて、学習を続けます。無理なく、母親の希望する学習をして、それなりの結果をもたらしてくれます。
 子どもが効率よく学習するには、子どもが学習する内容に興味を持っていると良いです。学習する内容に興味が無くても、学習と一緒にご褒美を与えるか、与えられると予告された場合に、子どもは学習を始めて、その内に学習内容に興味を持てるようになる場合もあります。学習内容に興味を持てたなら、子どもの方でどんどん学習を進めて、発展させていきます。子どもには母親の喜びが最高のご褒美ですから、母親の喜びが子どもの頭を良くする大きな要素になります。ご褒美として、子どもが好きな物があります。例えばお菓子やお小遣い、ゲーム、漫画、テレビなどがあります。多くの親はこれらのご褒美を制限して与えて、それを代償にして、子どもに学習を要求しています。この際に、子どもが制限されたこれらのご褒美に欲求不満を感じていたなら、そのご褒美の意味が薄らいでしまい、ご褒美を代償とした学習の効率が悪くなります。勿論、ご褒美がないよりは学習効果がありますが。
 子どもが効率よく学習する方法として、当面の学業には役立たないけれど、親としてとても信じられないけれど、子どもが興味を持っていることを徹底的に学習させる方法(学業ばかりでなく、子どもが興味を持って自発的に始めたこと。大人から見て、子どもの遊びと感じられるようなことを含めます。例えばプラモデルを作る、ゲームに凝る、好きな物を集めるなど。一見、子どもを勉強に集中できなくして、好ましくないように大人には思えますが、子どもは必ず卒業をして、その経験から勉強の方へ発展していきます。禁止をするといつまで経っても卒業をしません)があります。子どもは自分が興味を持っていることの学習を発展させる中で、必要を感じるようになって、親や大人達が求める学業を効率よくするようになります。その子どもなりの学習の仕方と表現できます。当面の学業には目立った結果がでません。親にとっては子どもを信頼して待ち続けるという我慢が必要です。信頼して待ち続けてあげると、大人になったときにとても大きな成果を出してくれます。
 あの人は頭が良いと表現されるとき、その中にいわゆる頭が切れると表現される場合があります。頭が切れるという場合は、その状況に応じて、素早く適切な知識を追憶して表現でき、対応できる場合です。知識をたくさん持ち合わせているだけでなく、その状況に応じてその状況に応じた答えを素早く見つけ出し、その答えから対応ができなければなりません。そのためには、多くの実地に即した経験をしておく必要があります。机上の学習では身に付かないので、多くの実経験を踏む必要があります。試験でよい成績をとる子どもでも、頭が切れると表現されるような子どもは今の時代に少ないと思います。学習内容に興味を持って学習を発展させていった子どもは、その子どもなりに実経験を重ね、その状況に応じて適切な答えを素早く見つけられるようになる子どもが多いです。


第十四章 あなたの子どもは

 きっとあなたは、あなたの子どもにもっと勉強をしてもらって、有名学校に行って貰って、大企業に就職してもらって、安定した生活をするようになって欲しいと願っていると思います。そのために子どもは規則正しい生活をして、学校で一生懸命勉強をして、学校だけでは勉強が不足だから、塾に通って、受験に備えようとしていらっしゃると思います。現実に子ども達はペーパーテストで振り分けられていますから、親であればこのような思いは仕方がないでしょう。だからと言って、闇雲に子どもを勉強に追い立てても、成果が上がらないことを経験していらっしゃると思います。成果が上がった子どもは頭がよいから、成果が上がらなかった子どもは頭が悪かったからと、決めつけていませんか?
 多くの子ども達は、心が元気な状態の子どもです。心が元気な状態の子どもでは、”第六章、子育ち、心の成長”で述べましたように、子どもの脳の中の記憶(陳述記憶や操作記憶)は子どもの経験(学習)から蓄積されていきます。経験すればする程、脳内の記憶が増えます。あなたの子どもも経験をたくさん積めば、頭の良い子どもになれます。学校だけで経験する機会が不十分だっら、塾やクラブなどに行かせるのも間違いではないです。それらは親が喜ぶペーパーテストを意識した学習法です。それに加えて、日常生活で経験したものも大切な学習です。ペーパーテストに直に役立たなくても、子どもの知識を増やすのに役立ちます。親や大人は、子どもが失敗しないように、ついつい手出しをしてしまいますが、失敗も大切な子どもの経験です。成功しても子どもを誉めてあげ、失敗しても失敗自体を残念がってあげて、子どもがそれだけ努力したことを誉めてあげて下さい。親の喜びを代償として子どもに学習をさせるという親の対応法は、子どもが自発的に学習し出すという躾法(第八章、躾)と考えて良いです。
 子どもなりに経験をして得た記憶を忘れて(一時記憶)しまったら、せっかくの経験が無駄になります。忘れないために、繰り返し経験(復習、反復学習)する必要があります。子どもが自ら知りたいと思った経験(意欲的な学習)は、一回で子どもの身に付いた知識(永久記憶)になります。親に嬉しい学習法です。ところが親や大人達にその積もりが無くても、子どもの方で無理矢理にやらされたと感じる経験は、直ぐに忘れてしまう(一時記憶)か、回避行動としての記憶になってしまいます。直ぐに忘れてしまう学習法は、「もっと一生懸命勉強をしなさい」と親が叱る勉強法です。親に叱られたりして行う回避行動としての学習結果はペーパーテストで役立ちますが、発展性や応用性に欠けます。親や大人達には頭がよい子どもと理解されるかも知れませんが、年齢が進むに従って、学力が伸びなくなります。
 数は少ないですが、心が辛い状態の子どもへの対応は全く異なります。心が辛い状態の子どもは、学習よりも辛い心を癒す方が先になります。心が辛い状態の子どもに学習を要求すると、学習できないばかりか、ますます子どもの心は辛くなってしまうからです。常識に反しますが、心が辛い状態の子どもの親は、子どもに学習を要求するのではなく、子どもの反応や表情が落ち着いてくるような対応が優先します。
 しかし多くの親や大人は、心が辛い状態の子どもが学校に行きたがらないとき、それは子どもに問題があるからその子どもの問題を解決して、子どもを学校に行かせようとします。暴れて物を壊したり、暴力を振るったり、物を盗んだり、たばこを吸ったりする子どもは、子どもに問題があるから、子どもの性格を正して、学校に行かせようとします。それはますます子どもを問題行動に走らせます。親は子どもに学習をさせようとする前に、子どもの辛い心を癒す必要があります。子どもの心が落ち着くと、子どもの方で学習を始めてくれるようになります。遅れた学習を取り戻そうとします。普通に学校に行っている子ども以上に学力を持つ子どもも出てきます。
 親は、特に母親は、子どもの心が元気か、元気でないか、判断をする(”第十章、心が元気な子どもの論理、心が辛い子どもの論理”を参照)必要があります。特別の場合を除いて、子どもは母親の前で、よい子を演じることがないからです。先生や他の大人の評価(子どもがよい子を演じている可能性がある)ではなくて、母親が見る子どもの姿が子どもの自然な姿だからです。特別の場合とは、子どもが自分の辛さを母親に訴えられない、訴えても母親に理解されないで、かえって母親から責められてしまうときです。そのときには、子どもが母親の前でよい子を演じてしまうからです。この場合には、子どもがどこかで問題行動をしているという噂が立つことが多いです。