被害者・加害者認識にズレについて

 いじめいじめられについて、いじめられた子供の人権とともにいじめられた子供の問題点も議論されています。当然いじめた子供が非難され、いじめを傍観した子供も、その子供の正義感について、大人からの非難が集まっています。その結果、いじめ問題の解決のために、学校内での生徒の管理、生活指導、道徳教育の充実、が叫ばれています。しかし、本当にそれでいじめ問題が解決できるのでしょうか?単にいじめを力で押さえつけるのでなく、子供達の心に沿ったいじめ問題の解決には、いじめの際に子供たちが何を考え、感じているかを理解する必要があります。さもないとなされるいじめ対策は的はずれの対策となりかねません。そこで一つの方法論として、以前いじめをした人、いじめに加わった人、いじめを受けた人達の話を聴くことができます。そしてそこで気づくことは、いじめた側の人と、いじめられた側の人との間に「認識にずれ」があったことがわかります。

いじめた側の人はいじめの際に、いじめられた子供のことを考えていなかったと言っています。自分達の遊び、自分達のうっぷん晴らし、いじめないと自分がいじめられる、と言うような話が聴かれます。これらの話を分析してみますと、いじめた子供達も現代社会のストレスの中で、息苦しくて、どこかへ逃げ場を、息抜きの場を、求めているのだと考えられます。いじめた子供達も現代社会の被害者だと言うことだと思います。だからと言って、いじめた子供が許されるわけではありません。

 今のいじめをなくそうとするいじめ対策は、いじめる側を力で押さえつけるような形の物が多いです。いじめる側を力で押さえ込めば、事実としてその場でのいじめは無くなりますが、
力の及ばないところでいじめがよりひどく行われます。いじめの方法も陰湿化していきます。いじめがあっても大人には見えにくくなっています。このことはいじめられる子供達をますます窮地に追い込んで、より辛い状態に追い込みます。つまりいじめの解決にはなりません。日本社会が子供達の間のいじめを減らそうとするならば、子供達に加わるストレスを少しでも少なくするしかないと考えられます。そして私たち親には、子供達に加わったストレスをいかに癒してあげるかが大切だと思います。

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