概念の身体化

 コンピューターが人間の心を持てるかという議論が有る。現在の所、そしてかなりの未来まで、不可能だと私は思っている。その理由としては、心と体とは切っても切り離せない関係にあることがあげられるからである。人間の持つ概念の多くは、体と密接に関連しているからである。それを概念の身体化と表現する。人間の場合、ある概念には、それを表現する言葉とともに、五感から得られた記憶が存在して、必要に応じて意識に思い出される。また、意識に上らないが、その概念により体の中に表現される情動を持っている(概念の身体化)。その情動を認識したときに、それをその概念がもたらす感情と表現する。

 科学技術の進歩は脳の研究を可能にした。脳の映像化技術の進歩は脳機能の解明に大きな進歩をもたらしてきた。今までの脳科学の成果を参考にして、身体化について考えてみる。今、紅いバラの花を見ているとする。甘い匂いも感じられて、美しいと感動しているとする。この際に、目から取り入れられたバラの情報は大脳新皮質で処理されて、紅いバラと認識するし、バラの花を見たと言う陳述記憶ができる。バラの花に触った感触、立体な形も記憶される。鼻からの情報も大脳新皮質で処理されて、バラの臭いが認知され、記憶される。それと同時に大脳辺縁系の扁桃体で、大脳新皮質内の記憶を用いて、紅いバラの花が情動評価されて、感動という形で体の中に表現される。体の中に表現された物とは心拍や呼吸数、胃腸の動き、消化液の分泌やホルモンの分泌などが含まれる。血流の分布や筋肉の動きなどにも現れる。それらがその紅いバラ花についての身体表現であり、紅いバラの花を見たときの情動表現と言える。紅いバラの花が情動に強い作用をもたらしたときには、紅いバラの花がもたらした身体表現即ち情動表現が、ほとんどそのまま条件反射の形で記憶される。その記憶された物がバラの花の身体化である。即ち以後、紅いバラの花を見たら、考えたら、美しいという感動が反射的に体中に表現されることになる。

 紅いバラを知っている人は、紅いバラの概念を持っている。その赤さは人によってまちまちであろうが、だいたい一致している。その形もいろいろであろうと考えられるが、それほど大きな違いはない。紅いバラの花に関した思い出は人によってまちまちである。その思い出や、紅いバラの花についての思いを客観的な事実として表現することは可能である。ところが、紅いバラの花に対する情動記憶、身体化した記憶は潜在意識の中にある。それ故に、直接それを認識し、言葉で表現することはできない。身体化した記憶は身体に表現された時に、知覚神経で感じ取ることで可能になる。バラの花を思い出したときに、これらの身体化した記憶を含めて、記憶の全てが思い出される。それが紅いバラの花の質感である。

 自分の庭で精魂込めて育てたバラに紅い花が咲いたときの感動、誕生日に貰っ た紅いバラの花から受ける感動、部屋の片隅に捨てられていた紅いバラの花か ら受ける感動、道ばたに踏みつけられていた紅いバラの花から受ける感動、紅 いバラの花の写真から受ける感動、それらは身体化されている。つまり、その人固有の情動記憶となっている。
 数字のようにほとんど身体化の伴わない概念もある。梅干しのように日本人にはほぼ共通して身体化が生じる物もある。身体化を伴わない概念は味気ない概念と言える。芸術は概念や知覚の身体化が大きな役割をする領域である。その結果として、人によって特に俳句のように短い言葉の中に大きな感動を与える物は、言葉の持つ身体化が大きければ大きいほど味わいも大きくなる。ただし、ある偉大な人と言われている人が作ったという認識だけで感動を生じるという、身体化を生じている可能性もある。

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