子どもの立場からの登校拒否、不登校、いじめ、引きこもりについてQ and A version 4

{3。 いじめ、いじめられ }(3)いじめと学校関係

教師の指導が厳しいといじめが生じやすいと聞きました。」 目次へ戻る
 教師の体罰は学校教育法で禁止されています。しかし、未だに教師の間でも、父兄の間でも、体罰を容認する発言が見られています。その容認する理由の内の一つが”愛の鞭”です。体罰を受けた子どもの中からも”おかげで目覚めた”と言う発言も聞いたことがあります。しかしその反面、教師の体罰でどれだけ多くの子ども達が傷ついているのを知る必要があります。現在、教師はいじめの問題で苦慮しています。そのいじめの原因のかなりの部分がが教師の体罰にある事実を、教師は気づく必要があります。体罰と言わないまでも、教師の不適当な対応が子どもの心を傷つけ、教師不信を生じています。この様な不満は他の子ども、特に弱い立場の子どもや教師に関連した子ども(教師に気にいられている子ども)に向けられることが多いようです。いじめが生じる初期には、子どもは無意識に教師の真似をして、教師が用いる理由で、教師のやり方を真似て、他の子どもをいじめだします。そのいじめがだんだんエスカレーションしていきます。いじめのモデルは教師の場合が多いです。教師による体罰は子どもの心に”暴力容認”の考え方を植え付け、それはいじめをも容認する雰囲気を作り、いじめの雛形を提供します。

今学校で何ができますか?」 目次へ戻る
 登校拒否についても、いじめについても、その主たる原因の一つが生徒の先生に対する恐怖感と不信感です。このことについて先生方はきっと「そんなはずはない。我々はこれだけ子ども達のことを考えて一生懸命やってきている」と言われると思います。しかし殆ど全ての登校拒否やいじめを受けた子ども達が先生に対する不信感を訴えていることも事実です。この認識のずれの原因は、先生の”子どもの為”がこのような子どもにとっては少しも”子どもの為”ではないことにあります。子供達は先生からの押し付けと解釈してしまうからです。先生は「自分たちの誠意を理解しない子どもが悪い。その子どもを育てた親が悪い」と主張します。つまり先生の描く生徒像から外れた子どもが悪い子どもとして扱われるために、子どもは先生を信頼しなくなります。
 生徒は先生の言行と先生の行動との違いを強く指摘しています。私達がよく聞くものは「自分のことは自分でしなさい」と言う先生が職員室の掃除を生徒にさせている事実です。生徒には制服を着せて於きながら、自分たちは好きかってな服を着ている事実です。授業の中では暴力はいけないと教えながら、生徒を殴る先生です。生徒は先生の一挙一動を見ています。生徒は先生を聖職者とは見ていません。ただ単に一人の大人とだけしか見ていません。
 生徒の信頼を取り戻すことが叫ばれています。しかしなぜ未だに先生は生徒の信頼を取り戻せていません。それは先生の気持ちや考えで、生徒からの信頼を回復しようとしているからです。その先生の気持ちや考えは、生徒の気持ちや考えを全く反映していないからです。では先生はどうすればよいのでしょうか?その第一は、先生は自分の感情を抑えて、生徒の話をとことんまでよく聞くべきです。どんなに馬鹿げた話でも、先生の意見を抜きにして聞くことです。先生が徹底的に(中途半端ですと意味がありません)聞き役に回る必要があります。これは先生にとっては大変に辛いことですが、絶対に必要な条件です。子ども達は必ずしも先生に問題の解決を望んでいるわけではありません。子ども達が先生に望んでいるのは子どもの言い分を聞いて欲しい、理解してほしいと言うことです。先生が解決できないのなら、見守っていて、支えてほしいと言うことです。現実には先生は忙しすぎます。一人の子どもの話を十分に聞く時間すらありません。

まずは、できるところからでも良いのではないでしょうか?」 目次へ戻る
 現在の小、中学校では、先生が忙しすぎる事が指摘されています。学校は土曜日が全て休みになり、授業時間の減少は、ますます先生を忙しくします。受験戦争が有る限り、先生は雑用と学級運営で、先生が十分に子ども達と接することはできません。学校では子ども達の心はすさみ、親は勉強を学校に期待しなくなります。その期待しない学校へ、それでいてほぼ100%よりかかっている学校へ、子どもを親は押しだして行きます。子どもは塾中心の勉強になり、学校を授業を馬鹿にする子どもも出てきます。このような親の改革もいそがなければなりませんが、それと平行して学校も変わる必要があります。先生をもっと増やす必要があります。先生の雑務を減らすために、先生を補助する先生がいても良いでしょう。学校改革、義務教育のあり方が見直されかけています。しかし、その根底にある子どもが学校に行くのは義務だと言う概念がぬぐい去れてはいません。義務だと言う言葉を言わなくなった人でも、その内容は「そう有るべき教育」であり、義務だと言うのとほとんど変わりがありません。子どもの権利教育という呼び名に変える勇気を持っていません。
 子どものゆとりのある学校生活は、言葉の上では簡単ですが、実際はとても難しいです。学校に学問に行くのなら、学校での授業は学問だけでよいと思います。主として、学校を先生と生徒、生徒同士の人間関係を作る場所にするのも良いと思います。クラブ活動にしても本当に希望者だけにして、顧問の先生も希望者だけにすると良いと思います。スポーツや芸術の好きな子どもにはそれらのための小中学校またはそのための学級を作っても良いかも知れません。
 子どもは自分の将来を決める能力を持っていないから、可能な限りあらゆる経験をさせるという考え方も間違いではありません。けれど既に有る方向性を持った子どももます。これらを踏まえて言えることは、現在子供達は多様性がありますから、そのような多様性のある子供達に合わせたいろいろな学校があって良いと思います。全国一律の学校を作って政府が管理する必要はありません。政府はお金だけを出せばよいのです。教育には無駄が付き物です。無駄が合ってもやむを得ません。学校のある地方やその地区の特色に合わせた学校があっても良いと思います。子供達の教育を考えるなら、生徒に沿った学校を作るのであって、学校教育は学校にあった生徒を作るのではありません。学校は決して工場ではありません。経済性や効率を求められる所ではありません。


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