子どもの立場からの登校拒否、不登校、いじめ、引きこもりについてQ and A version 4
{3。 いじめ、いじめられ }(1)いじめの基本概念
「SOSのサインとはなんですか?」 目次へ戻る
大人社会の子どもへの一方的な押し付けと要求(大人はそれがその子どものためになると考えてしているのだが)が子どもを押しつぶし、追い込んで、身動きでくなくさせ、苦しませて、かえって子どもを傷つけ動けなくしています。動けなくならないまでも、無気力で自主性のない、与えられたことをだけを上手にこなす大人のためのロボットになっている子どもを作っています。このような子どもの状態を良いと考える人はまずないと思います。ただ現実には、今の社会で生きるために、やむをえないと思っている人が多いのではないかと思います。そこで私は、少なくとも助けを求めてSOS信号を発している子どもたちについては、大人の責任において助けの手を差し伸べるべきだとおもいます。
言葉ではSOS信号と言っても、実際にSOS信号とは何か、まだ定説は有りません。そのために大人たちが子どもたちからのこのSOS信号に気が付かないのも、やむをえないことなのかも知れません。そこで私は経験的にSOS信号として
1・ 原因の分からない病気(自律神経の症状)
2・ 不適応行動(学校への行き渋り、いじめる、非行)
の二つをあげることができると思います。ただし、1・の病気に関しては、普通の大人には大変にその判断が難しいです。医者にかかっても病気として治療される場合が多いです。けれど追い込まれた子どもたちはこの二つのSOSサインを出して、「議論はいらない。今の自分を助けてくれ」と言っています。
登校拒否ではこれらのサインを出すことが子どもの性格上の問題点として考えられています。いじめの問題は、いじめが罪悪というモラルの観点から、いじめる子どもを処罰することで、解決をはかろうとされいます。ところがこれらはSOSのサインであり、決してことの本質ではありません。大人達は、言葉では子ども達の出すSOS信号に注目しておきながら、現実にはSOS信号を問題点そのものと解釈して子どもに対応しています。
登校拒否そのもの、いじめそのものは、子どもが辛い状態にあるというSOS信号であることに気づいていません。いじめられている子どもについても、いじめる側の問題点ばかりが取り上げられて、いじめられている子どもを救う議論ばかりがなされています。
もちろんいじめられている子どもを助けることは絶対に必要です。しかしいじめている子ども達も、そしてそのいじめている子ども達さえもも大人社会の犠牲者であるということ気づく必要があります、大人社会から傷つけられて、助けを求めても助けてもらえずに、もがきあえいでいる姿であるということを、私たちは良く知っている必要があります。私たち大人はまずこの子どもたちからのSOS信号とは何かを理解することから始めなければならないと思います。
「いじめに気がつきにくいのはなぜ?」 目次へ戻る
”いじめは絶対に悪い、根絶しなければならい。”という意見を良く耳にします。この何年間か、子どものいじめが社会問題化しています。ではいじめとは何でしょうか?その答えは言葉の上では簡単です。ところがそれを具体的に判定するのは大変に難しいです。殴る、蹴るなどの体に傷を負わせるよう暴力によるじめはわかりやすいと思われます。
心に傷を負わせるようないじめは外からみただけではなかなかいじめかどうかわかりません。分かりやすい暴力によるいじめについても、例えばプロレスごっこを考えて見てください。男の子の間ではしばしば見られる遊びです。数人の子ども達が輪になって見ています。その輪の中で二人の男の子がプロレスの技を掛けています。もちろん一方が技を掛ける役、他方はいつも掛けられる役となります。この程度ですと、もういじめとはわかりません。ここで一方が他方を殴るか蹴るかします。された方の子どもは大変痛がります。するとした方は「後免、後免、軽くするつもりだったのだけど、まともに当たってしまった。」といって謝る格好をします。これですとどう見ても遊びとしか見えません。しかし、技をかける子どもは本気で殴ったり蹴ったりしてます。技をかける子どもは他の周囲にいた子ども達と相談して、「次はどんな手で行こうか、」とか「あの時はされた方の子どもはどんな格好をして反応した」かとか話し合って、げらげら笑って楽しんでいます。これでは学校の先生方や多くの同級生には遊んでいる数人のグループとしかみえません。しかし暴力を受ける子どもはそのグループの中の一人だけで、その子どもはいじめに苦しみ続けています。
これがいじめの手段として良く使われているますから、遊びといじめとを区別することは大変難しいです。この事実は、いじめを根絶することの難しさを表しています。ある意味では根絶は不可能ではないかと思われるくらいです。
「登校拒否といじめとは紙一重の差と言う話を聞きました。」 目次へ戻る
今の子ども達は勉強に追い立てられて大変疲れています。家に帰ってもゆっくり休むことができません。そこで学校へ行きたくないと言う情動反応が強くなり学校に行き渋るようになります。しかし親は学校へ行けと言って、子どもを押しだします。先生は、学校を休んではいけないと言って子どもを学校へ引っ張ります。「子どもは学校に行くものだ」ということを、子どもはよく知っています。そこで子どもは、口では学校に行くと言いながら、頭痛、腹痛等、色々な自律神経症状を出すようになります。これが登校拒否の初期症状となります。
ところがこの様な自律神経症状を出さない子どもがいます。それらの子どもは自分の心を維持するために息抜きの行動をとります。それが他の子どもを利用して遊ぶ、つまりいじめの始まりです。最近は校内暴力が力で抑えられているので、いじめの割合が多くなっているように感じます。
「いじめは遊びから始まると聞きました。本当ですか?」 目次へ戻る
いじめが起こるきっかけを子どもの立場から考えてみましょう。今の子どもは試験の点数によって縛られています。点数の良い子が良い子で、悪い子は取り残されていきます。校則で学校生活は息が詰まります。朝練、夕練でくたくたになって家に帰れば塾が待ています。それを終えてほっとしてテレビを見ると、親からテレビを見たり、ファミコンをする時間を制限されます。宿題も多く息抜きをする時間がほとんど有りません。特に学校では遊びが制限されているので人を遊び道具とするようになります。これがいじめの芽と言えるでしょう。
現代の学校の内部ではいじめをしなければ子ども達の息抜きができない状態に成っているのです。いじめの対象となる子どもは弱いもの、孤立しているものが狙われ易いようです。いじめても反撃できない子どもが狙われます。いじめられている子どもはますます弱まり、孤立して、いじめの対象から逃げ出すことができなくなります。いじめる方でもそのあり方に変化が出てきます。いじめのグループ内の力関係ができて来ます。その結果グループ内の力の弱いものは強いものからのいじめを恐れてより弱いものをいじめると言う構図ができて来ます。このようないじめの構図に組み込まれた子ども達はいじめから抜け出せないように仕組まれてしまいます。担任に対する不満は直接先生には向けられないで、クラス委員や班長など、先生の仕事の代行を行なう生徒に向けられることが多いようです。
「ストレスのかかっている子どもがいじめをすると聞いていますが?」 目次へ戻る
子どもが学校内の緊張に疲れて学校へ行き難く成った場合、多くの例では色々な症状を訴えて学校へ行き渋ります。賢明な母親は、無理に学校へ行かすとかえって登校拒否を起こして、動けなくなることを知っています。そこで母親は子どもを病院に連れて行ったり、何日か休ませて、学校へ送りだします。その結果、学校へ行きづらいと言うことは変わっていないのに、病気になったのでは学校を休めないと言う状態となります。そこで子どもは学校でいじめを行います。いじめを含めて学校では好ましくないことを行って、自分から学校を拒否しなくても、学校から登校を拒否される様にするようにするのです。これらの行動を子どもは無意識に行っていますから、いくら問いただしても子どもは教えてくれません。
「理想の社会を作ればいもじめは無くなりますか?」 目次へ戻る
いじめが無くなることが理想です。ですから、理想社会ではいじめは有りません。では理想社会はどんな社会なのでしょうか?神の国は理想社会かも知れません。しかしそこに住んでいるのは神様で人間では有りません。では人間社会の中では理想社会を作ることができるのでしょうか?人間が均一で有れば理想も一つに限定できますが、多様な個人を認める人間社会では、ある人には理想でも、他の人には理想ではないと言うことがしばしば見られます。つまり理想社会は人間にはありません。
個人を大切にすればするほど社会はまとまりが無くなります。それでも理想社会に向けた努力は絶対に必要ですが、まとまりの無い社会もそれなりに良い社会と言えると思います。「矛盾だらけの社会」とある人が私に言いました。私はこれは現時点ではやむを得ないと考えています。この狭い日本の上に1億以上の人間が住み、その各々が対等に権利を主張するなら、そしてその各々の多様性を認めるなら、一見矛盾だらけの社会ができるのは当然です。矛盾が無い社会の方が、無理やりに矛盾を押し隠して居ることの可能性が高く、かえって危険です。
この世の中に完ぺきな真理は殆ど無いと思います。あの完ぺきな数学ですら、人間が最初に仮定した範囲で真理なのです。これほど発達した自然科学ですら、ある誤差の範囲で成立しているのですから、絶対とか完全な真理と言うものは現時点で人間はまだ見つけていないと言った方が良いでしょう。つまり矛盾の有るのが当り前と考えた方が我々は楽になれると思います。もちろん、理想の社会を目指すことは大切ですが、理想の社会自体は到達し得ないように思われます。
このようにやむを得ない範囲で全てを認めようとする立場から考えるなら、先生が生徒を苦しめると言う現実も事実として認めて、生徒にも苦しめる先生から離れて生活をすることを認めてやれば良いと思います。つまり登校拒否、不登校を認めて欲しいと言うことです。学校に行かない子どもも普通の子どもであることを認めて、その将来を差別しないことです。
この矛盾だらけの社会の中に、子どもは白紙の状態で生まれ、体の成長とともに心の成長もしていきます。体は大きくなる方向に、心は安ぎが求められる方向に伸びていきます。悪いことをする子どももその成長の過程で大人に心をねじ曲げられただけであり、子どもが悪いわけでは有りません。ですから悪いことをした子ども(子どもの感じ方は大人と違います。子どもは必ずしも悪いことをしたとは考えていないことが多いのですが)に対しては、その子どもの特異性を配慮した対応が必要です。子どもの多くは悪いことをしてやろうとして悪いことをしてはいません。やって仕舞ったことがたまたま社会にとって好ましくなかっただけの事が多いようです。子どもの心はまだ成長するところが大人と違うところです。大人に対するのとは違った、子どもの将来を考えた対処の仕方が、生徒の立場に立った学校教育と言うことになります。
「いじめのターゲットになり易さという物がありますか?」 目次へ戻る
登校拒否を起こした子どもは、クラス内で孤立する場合があります。そのような子どもは性格の変化をきたしています。その結果いじめの対象になりやすくなります。いじめる集団の中に取り込まれて、逃げられないようにされます。その結果、孤立していることが目立たなくなります。いじめられている子どもは集団を求めて、そのようなグループの中にいるのではなく、いじめの集団にターゲットとして取り込まれて、集団から逃げ出そうとしても逃げ出せないようにされています。いじめられている子どもは、そのいじめの集団から逃げ出したいのです。