私としては

(1)対応している者としての考え方。

 子供には学校に行くと言う生き方と、学校に行かないと言う生き方が有そのどちらかを選ぶかは、子供が自分の意志で選択をする自由が有ると考えています。登校拒否は子供が自分の意志で行かない生き方を選んでいると私達は考えています。そのため、私達は子供が学校に行かなくても安心して成長できる環境作りに、努力しています。これが子供の立場からの登校拒否の対応の仕方だと考えています。

 親としては、子供に学校へ行って欲しいものです。その立場からの対応についてはすでにいろいろと言われています。その狙いの奥には子供が学校へ行けるように根回しするというものだと思います。決して悪いものでは有りません。大切なことです。しかし、既に登校拒否を起こした子供には、その子供の心の傷が癒えたとき、学校へ帰り安い環境の整備だと言うことだけでしかありません。私達の役目として、登校拒否児の心の傷をいかに癒すかも大切なテーマです。

 いろいろな性格の子供が生まれてきます。その子の性格が現在の教育制度に合わないから、と言う理由で差別されては、いけないと思います。その子が自分の性格を現在の教育制度に合わせなければ成らないという理由も無いと思います。その子は、他の現在の教育制度に合った子供と同じ権利を持っています。その子が学校を拒否しても、責任を追求されることは間違いだと思います。これらの理由から、登校拒否の責任を子供に求めることは許されないと思います。ただし、分析することは許されると思います。

(2)大人の城

 私が私の城を築いたのは今から20年近く前です。私としては10数年かけて自慢の城を作った積もりでした。私の宝でした。それが今から3年半前にがたがたに壊されました。私の自慢の子供に壊されました。

 子供は訴え続けました。城などいらないと。常識で自分を見ないで、自分そのものを有るがままに見て欲しいと。その言葉が私には解りませんでした。私は子供の言葉にはむかい続けました。そして城が骨だけになり、私が殺されたとき、やっと子供の言っていた意味が解りました。

 今私には城は有りません。雨露を防ぐ場所だけです。職業と肉体とは以前と連続していますが、頭の中は生まれ変わっています。私は子供達を認め支えるだけの存在です。常識を可能な限り捨てました。少なくとも子供を見るときは全ての常識を捨て、親を、大人を捨てて、子供を見ています。

 このことは私の人生です。自慢する訳でもなく、他の人にも押し付けるわけではありません。単なる事実です。こんな事を感じている親も居ると言うことだけです。単に子供が自分の意志で自分の人生を決めることを許している親だと言うことだけです。

(3)先生方の大きな誤解。私達の間違い。

 現在、学校の先生方は私達登校拒否の対応をしている者を敬遠なさっています。その原因の一つは私達登校拒否に対応する者が学校を否定した言い方をするところにあります。その学校を否定した言い方をする私達の子供が学校へ行っています。私達は自分の子供が学校へ行っている事実を喜んでいます。私達は不登校をしている親の相談を受けて、学校に行けるようにした例も幾つかあります。この矛盾した私達の態度はなんなのでしょうか?一貫性の無いこの態度こそ、子供達に私達を合わせようとする私達の許容力と考えて下さい。私達は決して学校を否定しているわけではありません。今のように知識を身につけさす学校も有って良いと考えています。もっと他の形の学校も有って良いと考えています。

 問題は強制的に今の形の学校が子供に押し付けられていることです。今の形の学校に合わない子供達には、学校には行かなくても良いと言っているだけです。学校に行くか行かないかは子供が決めて良いと言っているだけです。子供が学校へ行きたくないと言ったときにはそれを認めているだけです。無理して学校へ子供を行かせないだけです。行かなくても知識は身に付くと説明しているだけです。そして子供が学校に行くと言い出したら、行けるようにその子供の環境を整えて上げるだけの事です。

 この様な私達の態度が、学校を否定していると、先生方にはとられています。この誤解を私達は解く必要が有ります。機会が有る事に、この学校を否定していないと言う私達の態度を説明して行きたいと思います。

(4)親の役割

 子供に対する親の役割について私なりに経験から感じたことを述べてみたいと思います。これはあくまでも私の考えであり、根拠が有るわけではありません。私は親の役目を次の式の感じで良いのではと考えています。

     (子供の年齢)X(親の役目)=常数。
     (子供への信頼)X(親の役目)=常数。

 小学生位になったら、親は子供に介入をすべきでないと考えています。子供が幼いときに、親として十分なことをしたと自信が有れば、子供が大きくなってきたときには、信頼して待つだけでよいと考えています。子供が求めてきたときにだけ、親の役目を果たせば良いと考えています。ただし、子供が求めてきたことを無視したのでは意味が有りません。多くの登校拒否やいじめの事例では、親が子供の訴え(サイン)を無視するか、気づかないことが多いです。

(5)家庭学習について

 12月9日の朝日新聞「きょういく ’96」で学校へ行かない子供の家庭学習に関する記事が出ていました。それを要約しますと ” 現行憲法では「子供は教育を受ける権利(義務ではない)があると位置づけ、親に「普通教育を受けさせる義務を課している」が、その場を学校に限定していない。親には、子供をどこでどう教育するかを決める自由がある。子供の権利を保証するために、親は子供を学校教育でなく、家庭で学ばせて普通教育義務を果たすことが可能である。” 

 子供は学校へ行く義務は無い。そのため子供は、学校が自分に合わないと言う理由で学校を拒否して、学校以外の場所で普通教育を受けても良い。

 以上は一般論です。実際に存在する学校はいろいろです。そこで学ぶ生徒もいろいろです。そのある学校に合わない子供がいても少しも不思議ではありません。それどころか、その学校に合わない子供が居ないと言うことの方が不思議ではないでしょうか?学校に合わない子供は学校で緊張の連続です。大変に疲れて帰ってきます。「お疲れ休み」を認めて上げましょう。そうすれば、子供は疲れが取れたところで、又元気に学校へ行きます。もし子供が登校拒否を起こしたら、家庭の中でゆっくりと好きなことをさせてやりましょう。親には普通教育を受けさす義務が有りますが、子供が家庭の中で普通に生活していれば、普通教育で得られる知識は十分に身に付けることが出来ます。高等学校の勉強でも、その気になればいつでも身につけることが出来ます。登校拒否をしている高校生以上の子供達に取って大切なことは、どこかの学校へ行くこと、どこかの教育施設に属することではなくて、勉強したい、なになにをしたいと言う気持ちになることだと思います。その気持ちになるまでは、思い切って楽しい時間を過ごすことだと思います。

(5)登校拒否とマインドコントロール

 マインドコントロールを言い直すと、精神領域、知的領域、または心の領域での条件反射と言えると思います。ある命題が与えられたときに、その途中の思考過程を抜きにして、強く結論と結び付くものです。学習の繰り返しにより、獲得するものです。ただし、最近のマインドコントロールにはその結果が好ましくないと言う意味を含んで居るかも知れません。私達の周りにも多くのマインドコントロールがあります。その第一が”しつけ”でしょう。常識と言うのもマインドコントロールの一つだと思います。校則、規約、法律、などもマインドコントロールの一つと言えないこともありません。登校拒否はこのマインドコントロールを拒否して、自分としての、人間としての生き方を求めようとするものだと考えられます。逆に言えば、世の中の大人は、知らず知らずの内にマインドコントロールされて、マインドコントロールされた状態で生きていると言えると思います。ただほぼ全ての人がマインドコントロールされているために、自分がマインドコントロールされていると気が付かないだけではないでしょうか?その様な意味からも、登校拒否をしている人は、時代の最先端を、人間として生きようとする最先端を行っていると思います。昔、ルネッサンスと言う時代が有りました。それは宗教によりマインドコントロールされたことからの、精神の解放でした。現代、登校拒否をしている人は、現代の能率主義からの精神の解放をしようとしていると思います。新しい、二十世紀のルネッサンスの先駆者になろうとしています。

(6)マニュアル化した親の愛情

 いじめられの際に見られることですが、感情からだけの親の愛はかえって子供を苦しませることが有ります。すなわち、子供がいじめられていると知った親は、子供を救おうとして、行動を起こします。それは親としての優しさから、その子供を守ろうとする行動です。親は学校に掛け合います。虐める相手の親に掛け合います。しかしそれは次に、いじめられている子供には、「ちくった」と言う理由で過酷ないじめの報復が待っています。また、いじめられている子供は苦しくて、それに耐えるのに精いっぱいなのに、親は子供をを元気づけようとして、しきりと子供を励まします。それは苦しみで辛い心をいっそう辛くします。親の優しさが、かえって子供を傷つけ追い込みます。親ははげまして子供を学校に送りだします。子供は恐怖におののきながら、学校で生活しています。自分を守るのに精いっぱいです。しかし、自分を守りきれないで、傷つき続けます。多くの親はいじめられに関する知識が不十分です。ただ単に親としての愛情からだけで動きます。それはかえって子供を傷つけることが多いです。親の愛情とは何でしょう?単に、子供のためと思われる親の行動は、一見愛情のように見えますが、必ずしも愛情ではないのでしょう。それは各々の子供の状態によってかわらなくてはなりません。子供の状態をよく理解して、細かい配慮をしないと愛情にはなりません。「子供の状態を正確に理解すること、子供の要求を素直に受け入れること」が愛情そのものかも知れません。いずれにしてもマニュアル化した愛情は子供を傷つけることが有ることに、親は注意する必要があります。

(7)不良行為といじめ行為

この意見は単に、私の分析です。心の傷を念頭に入れて考えるとこのような結論が導き出せます。ここで述べている不良行為やいじめ行為は子供の未熟さからくる、失敗行為ではなく、子供の心が傷ついていることによって引き起こされる不良行為やいじめ行為について、考えています。不良行為(万引、タバコ、シンナー)といじめ行為とは、一見違うものの様に思われます。しかし私には、本質的には同じ物で、単に表現の違いに過ぎないと思われます。子供達は、頭の中ではこれらの行為が悪いこと、してはいけないことと言うことを知っています。子供達は悪い事をしてやろうと思って、これらの行為を始めるものではないようです。子供達は何か面白いことをしてみたくて、これらの行為をしているように、少なくとも最初にこれらの行為を行なうときには、遊びとしてこれらの行為を行なっています。学校に行っても面白くない、家にいても親ががみがみ言って、面白くない。何か面白いことをして、すっきりしたい、と思った子供の内の一部がこれらの行為に出るようです。何故一部かと言いますと、子供達はこれらの行為が悪いことだと知っているため、悪いと思いながらこれらの行為はする事ができません。良い悪いと言うことを考えられる状態では、子供達はこれらの行為をしていないようです。ところが、いらいらが募って、自分を維持できなくなるとき、子供達は刺激を求めてこれらの行動に出ています。其の行為の対象が人間であったり、商品だったり、薬物だったりしているだけです。不良行為やいじめ行為が繰り返されて来ると、其の内容は変わってきます。子供としての打算、みえ、習慣の要素が加味されて来るので、このような簡単な表現では表わせません。子供達が強い刺激を求めて、なぜ不良行為に走るのでしょうか?それは心の傷のためだと思います。学校や家庭で心に大きな傷を負った子供達は、其の傷の痛みから逃れる必要があります。しかし心の傷が痛んで逃げられないとき、其の痛みをやわらげる方法は、別の強い刺激を加えることしかありません。スリルがそれに相当します。子供達は自分の心の苦しみから逃れるために、自分の痛む心を麻酔するために、不良行為に出ています。この考え方が正しいとすると、不良行為やいじめ行為をした子供を罰しても全く意味がないか、かえってそれらの行為を増悪する可能性を示唆します。不良行為やいじめ行為を行なった子供は刺激を求めています。刺激が強いほど、これらの子供には行なう意味があります。これらの子供を罰すれば、不良行為やいじめ行為がよりスリリングな、より刺激の強い物になって行きます。よってこれらの子供には、刺激を求めて、不良行為やいじめ行為を止められなくなる可能性が有ります。これらの行為の問題を解決するには、子供達の心にある傷を癒すしか方法がないと、私は考えています。

(8)「加害者、被害者認識にズレ」

 いじめ行為をする子供もいじめが悪いことだとは、言葉の上では知っています。いじめ行為を行なう子供は強い緊張(今回はこの言葉で済ませておきます)の中にいます。家庭でも、学校でも、緊張の連続です(これを否定すれば、これ以後の議論は成立しません。私は存在していると思います)。そこで息抜きをしないと、生活が維持できません。息抜き、それは遊びです。そこで遊び感覚で色々なことをします。特に手っとり早い遊びは人を相手に遊ぶことです。遊び方は先生やテレビや漫画の内容が題材にされます。遊ぶ相手は遊んでも遊びがいのある相手(当然弱い)、逃げ出さない相手、が選ばれます。息抜きは遊びばかりでなく、いじめる子供の恐怖や不安をいじめられる子供にぶつける形もとります。そうして自分の気持ちの維持をします。其の結果として、いじめ行為をした子供は自分のしたことをいじめとは感じていません。単に遊んだと思っているのです。決して自分の行為をごまかすためでは無いのです。本心いじめたとは思っていないのです。医学的な表現をします。いじめる子供の緊張、不安を素直に表現できるとそれでおしまいなのですが、表現できないで、押さえつけられたときには、潜在意識に存在する恐怖により色々な自律神経の反応症状がでます。それはその子供にとっては大変に辛いものです。そこで緊張や不安の原因にさらされたとき、恐怖を感じないために、大きな快楽刺激を必要とします。それが遊びという形をとります。より大きな刺激で恐怖の反応を抑えてしまう必要が有るのです。

 緊張の刺激−−X−−>恐怖(潜在意識の中にある)
              ↑
      強い刺激(いじめ、万引、不良行為)

(9)「昔に比べて今の子は」について

私たちの親も「昔に比べて今の若い奴は」と言われたそうです。私たちも「昔に比べて今の若い奴は」と言われてきました。そして今私たちが親となって、若い人と向き合っているとき、「昔と比べて今の若い奴は」と言っています。その言葉の裏には、今の若い人を理解できない、不満だ、と言う意味があります。自分達が良くて、若いものが悪い、と言う意味合いも込めています。

 何故この様な言葉が出るのでしょうか?それは判断基準が違うと言う意味だと思います。自分達が培ってきた判断基準と、若い人たちが持っている判断基準が違うと言う意味だと思います。

 江戸時代や其れ以前の社会では、一世代の間の環境の変化はほとんど有りませんでした。親が子供だったときの環境と、親の子供の環境と、ほとんど同じでしたから、親の判断基準を子供に当てはめることに問題は有りませんでした。ところが現代はどうでしょうか?日進月歩です。一年で大きく変わることも有ります。十年たてば、もう大変な環境の変化をしています。その大きな環境の変化の中で育た子供の培った判断基準が大人の判断基準と同じ訳がありません。親と違っているのが当り前と考えられます。もし子供の判断基準が親のそれと同じだとすれば、社会から取り残されているか、親から強要されている可能性も考える必要が有ります。 其の事実をふまえると、「昔に比べて今の若いものは」と言う大人は自分の判断基準に固執して、相手の判断基準を認めない立場の人と言えるかも知れません。少なくとも若い人の判断基準を認めない人だと思います。それはそれで構わないことです。しかし、若い人たちの判断基準を認めない、時代錯誤の判断基準を若い人、特に年少者に押しつけると、其れが年少者を迷わせて、傷つけてしまうことに、気をつけるべきです。 

  青少年問題は子供の性格や躾の問題と主張する人、問題を起こす子供が悪いと主張する人、がいます。私の観察する限りでは、この青少年問題を起こした子供の多くが、大人の時代錯誤の判断基準を押しつけられて傷ついた子供達であるように観察されます。つまり大人の無理解の犠牲者だと言いたいです。

(10)「今の子供には夢がない」について

 今の子供には夢がないと言う大人がいます。確かに私たちが子供だった頃持ったような立身出世の夢は少ないようです。私たちの子供の頃の夢とは違っていても、子供達はみなそれぞれに夢を持っています。私たちが子供の頃と今では環境がだいぶ違います。私たちが子供の頃では、かなりの子供達が中卒、高卒で職業に付きました。遊びと言えば近所の友達と外で遊ぶことでした。思う存分遊べたように思います。食事も今から比べれば貧しく、私の時にはアンパンと牛乳が格別の食べ物でした。つぎあての着物を着て(有ればまだ良い方でした)いました。私たちに取って、この貧しさから逃げ出すことが夢でした。其の結果いわゆる偉い人になる希望を持ったものです。今から比べて貧しかったが故に、とてもハングリーだったと言えるでしょう。

 ところが現代の子供は欲しいものは何でも手に入ります。いつもおいしいものを食べています。物質的には満ち足りています。そのような中で物質的にハングリーになれと言われても其の意味が解らない、またなれない事は当然の成りゆきだとおもいます。この様に物質的には満たされていても、子供達は毎日心の中では辛い生活をしています。子供の数が少なくなったこと、親が賢くなったこと、などから、子供にとても大きな要求がなされます。学校ではいろいろと強制されます。家に帰っても塾が待っています。ゆっくりと遊ぶ暇はありません。とても自分の将来を考える余裕は有りません。今現在の自分を維持するのに精一杯です。夢を持てと言われても夢を描きようがない生活をしていると私は観察しています。

 其の辛い心を休めるビデオゲームやテレビ、漫画などは親から制限をされています。今の子供達がハングリーになっているものは其の子供の心を休ませてくれる物、つまりビデオゲーム、テレビ、漫画などになるのも、解るような気がします。今の子供に私たちの小さいときのような夢が無いのも止むを得ないことだと私には感じられます。それは私たち年長者からみれば心の貧しさと見れますが、物質的な豊かさの中で、子供達が夢みれる物は、この様な目先の心の癒しであることを、大人は否定的に見るのではなくて、まず大人が、それほど子供達は辛い状態にあるのだと認めることが大切だと思います。

 このことは全ての子供達に当てはまるものではありません。しかし、かなり多くの子供達に当てはまると思います。この様な議論をするときには、心の傷を考えると良いと思います。心の傷を体に出来た傷と対比しながら考えるのです。

 軽い体の怪我なら、消毒や傷バンなど親の優しい治療で治ります。しかし心の傷の治療に関しては親は治療をしていません。それどころか傷を広げるように子供を責めつけることが多いです。

 命に関わるような大怪我でしたら、入院をして、安静をとって、治療をする必要があります。其れが心の傷では、登校拒否やいじめられ、ひきこもり、パニック障害です。今の子供達の多くは、体の怪我で言うなら、縫合したり、薬を与えたりしなくては成らないぐらいの、心の傷を受けていると考えられます。そんな子供達には、未来を語る前に、いま目の前にしている傷を治す必要があると言うことです。其の傷を治すに必要な包帯が、ビデオゲームや漫画だと思います。

(11)ストレスと喘息、アトピーなどのアレルギー疾患に付いて

 喘息、アトピーなど、アレルギー疾患は、アレルゲンという物質が体に取り込まれ、体の中にある抗体との間で抗原抗体反応を生じ、その反応物質がリンパ球に認識され、マストセルからヒスタミンが分泌され、症状が出ます。この過程に於てストレスは関係しません。いくらストレスにさらされても、抗原が体に入ってこないとアレルギー反応を、症状を出しません。抗原が入っても、抗体が無ければやはり、アレルギー反応を、症状を出しません。すでにアレルギー反応を起こしている人でも、本質的には、ストレスとアレルギー性疾患の間には関係がありません。

 ストレスが加わったときにおこるチックを考えてみて下さい。ストレスが加わると無意識にある一定の動作をする事をチックと言います。其れと同じ理由で、息苦しさやかゆみに意識が集中して、息苦しさをを強く感じたり、かゆみを強く感じて、喘息を其の病態以上に強く感じ、アトピーではぼりぼり掻いて湿疹を悪化させます。そこで言えることは、アレルギー反応を起こしている人に取っては、ストレスとアレルギー反応の症状とには間接的な関係が有ると言えます。少し極端に言えばアトピーの悪化はストレス状態と言えるかも知れません。最近かゆみや喘息の原因となるマストセルが自律神経の支配を受けているらしいことが言われだしました。もしそうだとすると、ストレスとこれらの疾患とには直接的な関係が有ることになります。

(12)ストレスと睡眠

 ストレスと睡眠には、二つの相反する場合が有るように思われます。第一は、大きなストレスの原因を目の前にして、そのストレスの原因と向かい合っているとき、その時は眠れません。ストレス自体が意識を覚醒させます。その代わり、其の後で、其の分の睡眠を取ることになります。学校へ行き渋り出した子供にみられます。翌日の学校の事が気になり、夜眠れないことになります。其の結果、翌朝眠くて、朝一人では起きれません。母親がしつこく起こさなくては子供は起きてこれません。ある種の慢性的なストレスではかえって眠り続けます。ある種というのは、登校拒否関係の慢性なストレスです。他のストレスでは経験が少ないので、結論的に言うことが出来ません。

 この種のストレスでは、体を動かさなくても、脳の活動は一般の人以上に絶えず活動しまくっています。そのために消費されるエネルギーは膨大です。其の回復のために睡眠を要求します。既に登校拒否を起こしている子供は、夜、まわりが静まると、他の人からの攻めが無くなるので、安心して起きていろいろと活動をします。其の中にはかなりな精神活動をしています。私たちが考える以上に自分の事、親の事、学校の事、社会の事を考えています。そして朝になると、夜の間の疲労と、他の人の目が恐い、他の人からの攻めが恐いので、部屋に閉じ込もり寝てしまいます。

(12)ある人のMSGに感じるところ

 ある人のMSGを興味を持って読みました。今日のいじめや登校拒否の縮図を見たようなきがします。考えたことを述べさせて下さい。

 

>「親と教師が現状では敵対関係になっているのでは?」< 

 

 なぜ敵対関係になっているのでしょうか?それは子供の気持ちを無視しているからではないでしょうか?ひどいいじめが起こること自体、学校で子供の気持ちを無視した教育が行なわれているからだと分析しています(先生は反発するかも知れませんが、すでにそのことに気づき出した先生もかなりありますし、そのような取り組みも先生の間で始まっています)。親も子供の辛い気持ちを無視して、そのようないじめの行なわれている学校へ子供を押しだしています。共通して言える事は、ともに子供の気持ちを無視していることです。

 子供の気持ちを無視して議論しても、そこには解決は見えてきません。なぜなら、いじめ行為に出るのも、いじめられて苦しんでいるのも子供自身の心だからです。子供とは鉄とか木材とかのような物質ではありません。大人と同じ自分の心で動く人間です。先生や親と同じよう主体性を持っています。生んだのは親ですが、其れ以後は親や先生の影響を受けて自分で育って、行動して、大人になっているのであって、親や先生が子供を、鉄を暖めて、叩いて製品にするように、大人に作り上げていると考えたら、とんでもない事実誤認です。

 子供は親も選べません。住む地区も、学校も、先生も選べません。これらの問題の原因に、子供は責任を持てと言うのは、無茶な話です。其れでいて傷ついて、苦しんでいるのは子供です。逃げようがありません。この問題で親が苦しんでいる場合、それは親の思いと現実の子供とのずれで苦しんでいるだけです。其の証拠には親の思いを子供の現実に合わせれば、親の苦しみは無くなるという事実からも間違い有りません。学校で大切なのは、まず子供が存在して、成長をして行くことです。その成長に必要なものを学校が供給することです。

 確かに今日の学校の様に一方的に知識を与えるだけで良い生徒もいます。しかし其れでは不十分な生徒も多い事に学校が気づくべきです。それどころか不消化を起こして、傷つく生徒が多いことに学校が気づくべきです。本当は学校は気づいています。気づいているのですが、生徒の心を知らないために、対応の取りようが無くて、親や生徒の責任にしています。そればかりではありません。学校側も学校としての実績を上げなくてはなりません。それは先生方の生徒を無視した勝手な理由(給料をもらい、其れを増やすと言う物質欲が表面に出て来る)なのですが、自分達に不都合な生徒や事実を無視するか、隠してしまいます。そして、学校の実績を示せるような生徒を注目し、強調してます。その学校の見かけの実績ばかりに注目している親も多いと言う事実もあります。

 まず大半のいじめは学校で起こっています。其の学校を担当しているのが教師です。教師は子供の事を解った積もりで教育に当たっています。しかし、其の実、解っている教師はほとんど居ないのではないでしょうか?もし解っていたら、この様な悲惨ないじめは少なくなるはずです。いじめに気づいても、其の対応は子供中心の対応に成るはずです。ところが、いじめが発覚すると、いつも判子で押したような対応が取られているだけです。先生方は子供の心を解っている積もり、プロの積もりでいますから、解っていないことに気づきません。

 その例が>先生の方が言うには、どう問い詰めてもなかなかいじめがあることを生徒は言ってくれない、と言っていました。何をいっても聞かないし。<です。この言葉は先生が先生の立場で言っている言葉です。もし、子供の心を知っていたら、こんな言葉は出ません。生徒は先生を信頼できない。信頼できない上に、自分を傷つける先生に、子供が自分の心の内を話すわけが無いと言う事実に気づいていないからです。信頼できない先生の言葉に従うわけが無いことに、気づかないからです。そればかりか、親や我々いじめ問題に対応している人の指摘も相手にしません。そして問題が起こると、解らないものですから隠そうとします。そして長くても3年隠し通せれば、子供達が卒業してしまえば、自分達とは関係なく成るわけです。

 その上に居るのが、文部省です。其の文部省がいまだに子供の心に注目しないのは、文部省が旧態依然としているためです。時代のニーズに合わないことに気づかないで、時代を文部省に合わせようとしています。

 ところが多くの子供達は自分を主張し続けています。其の主張は登校拒否、いじめ、非行と言う形で現われてきます。これらの子供は犠牲者であり、其の結果問題行動を起こしていると言う事実になります。もし現在、過去に比べていじめや登校拒否、非行が増えたと言うのなら、それは問題になる子供が多くなったというのではなくて、文部省がそれだけ問題になる子供を作った、時代に即応しなくなったと考えるべきでしょう。と言っても文部官僚はこのことを認めないと思います。文部省にとっては子供の心には関心の無いことで、見かけ上、何も問題が起こらなければそれでよいのですから。

 教育関係者や親に子供の心をはっきりと知って欲しいです。今の社会では、子供は生まれ落ちたときから自分を大切にするように成長しています。其れが民主主義です。親も子供が幼い内は其れを認めています。マスコミも個人を主張するような内容を流して、絶えず影響を及ぼしています。それにブレーキをかけ始めるのが幼稚園保育園、小学校です。自然にかかるブレーキには子供は子供達なりに上手に対応できます。親や先生がかけるブレーキが子供を苦しませます。子供の心を理解しないブレーキですから。そこに子供の心を理解しない要求を子供に加えたとき、子供は深く傷ついて行くのです。子供の心を理解しない状態での教育はありえないことに気づいて欲しいです。

(13)子供にとって学校が楽しいものか?

 子供にとって本質的に学校が楽しいものか、楽しくないものか、の議論が有ります。一般的に言って子供達は学校に行きたがる場合が多いのですが、中には行きたがらない子供もいます。それを発達心理学的に考えてみました。動機という立場から、刺激を神経生理学的に分類すると、其れを求めようとする刺激(接近刺激)、其れを避けようとする刺激(回避刺激)と全く影響を及ぼさない刺激とが有ります。新生児、乳児、幼児を見ている限り、その個体が受け入れ可能なものに対して、新しいものを受け入れることに喜びを示して、其れを求めようとしています(接近刺激)。それに対して、受け入れられないものに対してはいやがったり、泣いたりします(回避刺激)。刺激に対して素直に反応しています。回避刺激にも、全く受け入れられないものと、その時は受け入れられないが、成長とともに受け入れられる物とがあります。つまりある時点では回避刺激であったのが、成長をすると接近刺激になるということです。

 幼児で経験する幼稚園や保育園は社会性を持つと言う新しい刺激です。かなりの幼児は喜んで幼稚園や保育園に行きます。つまり接近刺激です。ところが幼稚園や保育園に行き渋る幼児がいます。回避刺激になっています。この様な幼児でも時間の経過で、幼稚園や保育園に喜んで行くようになります。つまり回避刺激が成長と共に接近刺激に成ったと言えます。この様に考えると、幼稚園や保育園を受け入れるに十分に成長した幼児には、幼稚園や保育園の社会生活は接近刺激であり、幼稚園や保育園が回避刺激になる幼児は、それらを受け入れるほどに十分に成長していないと考えるのが妥当だと思います。

 小学校でも子供はほぼ素直に刺激に反応しています。特に低学年は素直に反応します。其れ故、小学校も接近刺激だと考えて間違いないと思います。小学校は子供達に取っては楽しいところだと考えて良いと思います。しかし、多くの小学校に行けない子供達は、その心に学校への集団への恐怖を持っています。其の恐怖は幼稚園や保育園で持ってしまった物、小学校に入ってから持ってしまった物です。

 同様なことは中学校、高等学校でも言えると思います。しかし推定です。中学校、高等学校に行き渋る子供は、何かの理由で、心に傷を持っている子供だと推定しています。

(14)子供が学校へ行き渋り出したとき

子供が学校へ行き渋り出したときが、登校拒否の始まりと考えられます。登校拒否としては始まりですが、子供の心は既に大きな傷を受けています。それは既にそう簡単には癒すことの出来ない傷になっています。目先の対応を変えることでは、もう既にどうにもならない状態になっています。たとえ子供が学校へ行き渋り出した原因を見つけることができて、其れを取り除くことができても、子供は既に心に出来た傷のため、学校へ行けない状態に有ります。また、子供が学校へ行き渋り出した原因を追求することは、子供が辛い経験を再度経験することになり、かえって子供の心を傷つけます。

 学校へ行き渋る子供、行かない子供を見ることは、親に取っては大変に辛いことです。優しい親で有ればあるほど、親も辛くなります。しかしそれは子供が学校へ行かなくてはならないと言う常識を通して子供を見ているからです。学校は人為的に作られた物、行けるに越したことは有りませんが、学校へ行かない人生も有っても不思議ではありません。大切なのは学校へ行くことでは無くて、どの様な成長した人間になるかと言う問題です。心も重要な要素です。其の心を傷つけるような学校へ無理して行くことはありません。

 子供が学校へ行き渋り出した時、どんな対応が良いのでしょうか?ありのままの子供の状態を認め、それを親の思いで子供を動かさないことです。学校へ行かそうとしないことです。学校に行かない代わりに何かそれに取って代わることをさせないことです。又、病気だと思って、病院めぐりをする親が有ります。それは余計に子供を苦しめます。傷つけます。

 次に親は自分の心を白紙にして、子供が発する情報をしっかりと受けとめることです。子供の要求をしっかりと実現することです。親は登校拒否に関しては知識が無いか、有っても間違っているはずです。そうでなかったなら、子供の心がひどく傷つくことはありません。其れ故親は登校拒否に関する知識を全て忘れて、子供から登校拒否とは何かを学ぶことです。子供が先生、親が生徒でしっかりと登校拒否を子供から学べば、子供は親を信頼してくれます。親の支えをてこにして、自分で心の傷を癒して、自分の意志で学校へ行くようになります。

 しかし、親が登校拒否を学ぶ生徒になれるまで親を捨てきれることは、親に取って大変に難しいです。少なくとも親の気持ちを抑えて、子供の友達ぐらいには成ってあげてください。子供の気持ちをたてまえや常識を通して受け取るのでは無くて、そのまま素直に子供と同じ目線で受けとめてあげて下さい。そのようにすると家庭生活の楽しさを親も心から楽しむことが出来るようになります。

(15)夢分析、催眠分析の意義と限界

記憶には短期記憶と遠隔記憶とが有ります。短期記憶とは其の瞬間瞬間の記憶からせいぜい2ー3時間前の記憶です。遠隔記憶とは其れ以後の記憶です。短期記憶はある時間を超えると消えてしまします。絶対に思い出すことが出来ません。脳のある特殊な場所に一時的に蓄えられた記憶と言えます。それに対して遠隔記憶は消えることが有りません。脳の記憶領野にしっかりと記憶されています。しかしその個体が思い出せるかどうかは別です。短期記憶の内の有るものが選ばれて、遠隔記憶となりますが、どの様な条件の本に短期記憶が長期記憶になるのか、まだ解っていません。

 夢で見れる内容はこの遠隔記憶です。催眠分析もこの遠隔記憶です。短期記憶だけで消え去った物は見ることはできません。しかし其の個体に大きな影響を及ぼした事の記憶はまず間違いなく遠隔記憶に成っています。其の意味で夢分析や催眠分析は過去の経験を知るのにそれなりに大きな意味が有ります。

 遠隔記憶には簡単に思い出せる記憶と思い出さないように抑制のかかった記憶が有ります。夢分析や催眠分析はこの抑制が取れた状態ですので、理論的にはあらゆる遠隔記憶を呼び起こすことができる可能性があります。

 夢を見ている状態と、催眠状態徒では其の眠りの状態に大きく差があります。夢を見ているときは深い眠りの状態です。夢は見ていますが、体中の筋肉は弛緩しています。脳以外は非常にリラックスした動きの無い状態にあります。催眠状態は浅い睡眠の状態です。脳の動きで体中の機能が機能します。理論的には操り人形の様に動かせるかも知れません。この違いは分析に有効です。夢の混乱した内容は、その人の問題点を見つけるきっかけを与える可能性があります。催眠分析は一つ一つの問題点を詳しく分析するのに良い可能性が有ります。

 記憶には記述記憶と反応記憶があります。記述記憶とは短期記憶や遠隔記憶のように、脳に書き込まれた記憶です。反応記憶とは俗に言う体に書き込まれた記憶です。反応記憶は夢では見ることが出来ません。体中の筋肉が弛緩していて、脳からの指示で動く状態にありません。催眠状態ではこの反応記憶も再現できるはずです。

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