紙芝居
須藤透留(赤沼)
雪国生まれの良二は、父親の転勤で東京の下町の商店街に住むことになった。父親の職場に通勤しやすい所だったし、母親も近くの店を手伝い始めていた。
良二には年の離れた兄と姉がいたけれど、二人とも朝早く学校に出かけるし、夜にならないと帰ってこなかった。小学一年生の良二は、学校から帰ると近所の子どもたちとメンコやベーゴマをして遊ぶか、一人で近所を探検して過ごしていた。朝鮮戦争の特需で潤い始めた東京には活気があふれて、商店街もにぎやかだったが、それでも駅からやや離れた学校の周囲には、田んぼや小川がまだたくさんあったので、蛙や魚、ザリガニを捕まえて遊ぶことができた。
ある日曜日の午後、良二はいつもと違う小川にザリガニを捕まえ出かけた。梅雨の時期だけれど、澄み切った青い空に白い雲がゆっくりと流れていた。小さな木箱を持って、すり減った下駄の音を立てて歩いていた。
そのとき不意に近くで太鼓の音が聞こえた。ドン、ドン、ドンッガラッカ、ドンッガラッカ、ドンッガラッカ。この太鼓の音を、良二はしばしば聞た。何のための太鼓か興味を持っていたのだが、こんなに近くで聞くのは初めてだった。良二は太鼓の音がする方向へ向かって急いでみた。
良二の目に飛び込んできたのは腰に太鼓をくくり付けたおっさんの姿だった。おっさんは太鼓を左右に揺らすようにして、両手に握った大きなばちで上手に太鼓をたたいていた。そのおっさんの後から十数人の子どもがついて歩いている。
良二もおもしろ半分にその子どもの列の最後に加わった。おっさんの太鼓を先頭にした行列は、子ども達を加えながらやがて小さな広場に着いた。
そこには荷台に大きな箱が付いた、黒いがっしりとした自転車が一台止めてあっ
た。
おっさんが自転車の側に立つと、次から次へと子どもたちが、5円玉や10円玉をかざして、いろいろな駄菓子を注文していた。おっさんはにこにこして、
「はい、おまちどおさま。ありがとう、ありがとうね。」
と言って、荷台の箱の引き出しから駄菓子を取り出して渡したり、それにソースやジャムを塗って渡していた。
一通りこの商売が片づくと、おっさんは箱の一番上にあった紙芝居の入れ物を立てて、声を張り上げた。紙芝居は、タイガーマンという強くて格好いい男が、王様を襲い、その美しいお姫様を奪おうとする悪人と戦う物語だった。おっさんは熟練した話術と、片手でたたく太鼓の音で、子どもたちを見事にその話の世界に引き込んでいった。良二も子どもたちの一番後ろから、食い入るように紙芝居を見ていた。
物語はこの日のクライマックスに達し、タイガーマンと悪人が剣で激しく戦い始めた。悪人の手下たちが次から次へとタイガーマンに襲いかかる。勇敢に手下どもをやっつけるタイガーマンだったが、悪人たちの悪巧みで絶体絶命の窮地に陥ったところで紙芝居は急に終わってしまった。その続きは次の日曜日まで待たなければならい。子どもたちは興奮した面持ちで広場から立ち去っていった。良二もタイガーマンの活躍に胸をときめかせて、その先の物語を気にかけながら、またリガニ捕りに出かけた。
次の日曜日の午後、良二は先週見たタイガーマンの活躍を思い出しながら、広場で他の子どもたちとおっさんを待っていた。おっさんは先週とほぼ同じ時刻に広場に現れた。子どもたちが自転車の周囲に集まったが、おっさんは機械的に太鼓を下ろして腰に付けると、太鼓をたたきながら広場を出て行った。何人かの子どもがおっさんの後に続いたけれど、良二は一人でメンコをして待っていた。
二十分もするとおっさんは二十名ぐらいの子どもを従えて広場に帰ってきた。先週と同じように、おっさんは駄菓子を売り終わると、先週の続きを始めた。子どもたちはタイガーマンと一心同体のように感じて、紙芝居の中に吸い込まれていった。良二も子どもたちの一番後ろから、紙芝居を食い入るように見ていた。
次の週も、その次の週も、良二は子どもたちの一番後ろから紙芝居を見続けていた。本当はもっと前で見たかったのだけれど、駄菓子を何も買わないで紙芝居を見ることの後ろめたさが良二にはあったのだ。そういう気持ちでいながらも、おっさんの話術や物語の魅力に、良二はとりつかれてしまっていた。
良二の家では夕食時にラジオから流れるドラマを聞く習慣があった。良二もドラマを聞きながら夢をふくらませていたが、おっさんの紙芝居は、ラジオのドラマより何倍もおもしろかった。
良二は親に、紙芝居を見るからお金をくれとは言えないでいた。良二の家はとても貧しかったから、小遣いを貰った経験がなかった。メンコやベーゴマは、近所の子どもたちがいらなくなったものをもらって、それを元手に、必死で勝負して増やしていった。けれど他の子どもが真新しいメンコやベーゴマを持っているのが、やはりうらやましかった。日頃着ているズボンやシャツは兄からのお下がりで、穴が開いていた部分を母親がつぎあてをしてくれていた。それでも良二は十分満足していた。
日曜日の午後、いつものように紙芝居が始まろうとしていた。良二は集まった子どもたちの一番後で紙芝居の表紙を見つめていた。先週の続きをわくわくしながら待っていたのだ。するといきなりおっさんが
「おい、そこの坊主。おまえ、いつもただ見だろう。あっちへいけ!」
と指を指して怒鳴った。他の子どもたちも皆良二の方を見た。良二はびっくりした。自分のことであることは明らかだった。良二は悔しさと悲しさで、泣き出してしまった。泣きながら家に向かって逃げるようにかけだした。駆け出すと良二の背後から太鼓の音がド、ド、ドーン、と鳴って、紙芝居が始まったようだった。
家の側までたどり着くと、良二は立ち止まって涙が乾くのを待った。良二は涙を母親に見せたくなかった。良二にはお小遣いをくれない母の気持ちがよくわかっていた。だから母親を悲しませたくなかったのだ。
良二は駄菓子を買えないのが悔しいのではなかった。自分を怒鳴ったおっさんが悔しいのではなかった。楽しみにしていた紙芝居が見られないのが悔しかった。
そこで良二はくるりと方向を変えて、また紙芝居をしている広場の方へ走っていった。もちろん紙芝居を見るわけにはいかなかった。紙芝居をしている直ぐ近くで、おっさんからは見つからない茂みの陰で、おっさんが演じる紙芝居の声だけを聞いていた。紙芝居の絵を見られなくても、タイガーマンの活躍が想像されて、良二は心をわくわくさせていた。
駄菓子を買わないで紙芝居を見ている子どもは他にもいた。なぜ良二だけがただ見をおっさんから咎められたのか良二にはわからなかった。わからなくても良二は不満に思わなかった。おっさんの熱のこもった声と太鼓の音から、タイガーマンの活躍を想像するだけで、良二には十分に満足できたからである。良二にはラジオのドラマを聞くよりも遙かに楽しかった。
メンコ仲間の中にも紙芝居をただ見している子どももいたから、良二に同情する子どももいたが、良二を非難する子どもは一人もいなかった。良二はいつものように近所の子どもたちと遊んで次の日曜日を待っていた。
次の日曜も広場で他の子どもたちと紙芝居のおっさんを待っていた。他の子どもたちの中で良二のただ見を気にかけているものはいなかった。子どもたちはそれぞれ思い思いに遊びながらおっさんを待っていた。紙芝居の自転車が到着して、おっさんが太鼓を打ちながら一回りして帰ってくる頃には、他の子どもたちに気づかれないように、良二は広場を離れた。家に帰るようなふりをして、ぐるっと一回りをして、前回の茂みの陰で紙芝居が始まるのを待った。紙芝居が始まり、おっさんの巧みな話術と雰囲気を巧みに演出する太鼓の音だけで、今日も良二はタイガーマンの活躍を想像できたし、わくわくして物語の展開に聞き入っていた。
紙芝居が終わると良二は満足して、他の子どもに見つからないように早々と家へと帰りだした。
その次の日曜日も、良二はその茂みの中で紙芝居を聞くために待っていた。子どもたちに駄菓子を売るおっさんの声が聞こえていて、その売り声が終わると紙芝居が始まるので、そのときを今か今かと待っていた。おっさんが
「もう、欲しい子はいないか?」
と言う声の後に、紙芝居の箱を用意する時に生じる、板と板とがぶつかる音と、太鼓を紙芝居の箱の後ろに置く音とが聞こえた。この後直ぐに、ド、ド、ド、ドーンと太鼓がたたかれて、紙芝居が始まる音がするはずなのに、今回はしなかった。良二は特に不思議だとは思わないで、じっと紙芝居が始まる太鼓の音を待っていた。
そのとき突然、おっさんが良二が見える場所に現れたのだ。
「おい、そこの坊主、こっちに来い。」
と、強い語調で声をかけた。良二はびっくりして、体を硬直させた。良二はおっさんの言葉に従わざるを得なかった。良二はおっさんの方へ向かってびくびくしながら歩いていった。おっさんのほうへ歩いてくる良二を見て
「こっちに来て、紙芝居を見ろ。」
と、おっさんは言って自転車の所へ戻っていった。語調は強かったけれど、優しい言葉だったので、良二はまたびっくりした。良二はおっさんの言葉に従って、子どもたちの一番後ろから紙芝居をより一層楽しむことができた。
良二には紙芝居を楽しめることだけで十分であった。今までのタイガーマンが活躍した話を思い出し、これから先タイガーマンがどのように活躍するのかを想像して楽しんでいた。他の子どもたちとタイガーマンの活躍を語り合いながら、メンコやベーゴマにふけっていた。だからなぜおっさんが、良二が茂みの陰で紙芝居を聞いていたことに気づいたのか、なぜおっさんが良二のただ見を許したのか、良二は全く考えなかった。
ある日、学校からの帰り道、良二は道ばたに十円玉が落ちているのを見つけた。その十円玉を拾って家に帰り、正直に母親に10円玉を拾ったことを告げた。母親は良二を見つめてしばらく考えていたが、
「拾ったお金は交番に持って行って、落とした人に返すものよ。だから駅前の交番に届けていらっしゃい。」
と言った。良二はお金を拾ったら交番に届けることを知らなかった。
良二は素直に母親の言葉に従って、駅前の交番に行って、お金を拾って届けに来たことを告げた。交番ではお巡りさんから、お金を拾った場所や時間、状況をいろいろと聞かれた。良二は聞かれるままに、拾ったときの様子を覚えているだけ詳しく話した。お巡りさんは良二の持ってきたお金を袋にしまうと、自分の財布から10円玉を取り出して、
「ご苦労様。拾ったお金の代わりにこのお金をあげるからね。」
と言って、10円玉を良二の手のひらに置いた。良二はお礼を言うと、10円玉をポケットに入れて家に帰った。家で母親に一部始終を告げると、母親は
「それは良かったね。その十円は良ちゃんが使っていいよ。だけどお金を使うときにはお母さんに言うのよ。」
と言った。
「うん、そうするよ。お金を使うときには、母ちゃんに言うからね。」
良二は答えた。
実は今まで、良二は一度も自分一人で買い物をしたことがなかった。母親は良二が一人で買い物を練習する良い機会だと思ったようである。けれど良二は嬉しくて嬉しくて有頂天だったから、直ぐに母親との約束を忘れてしまった。
良二の頭の中には、紙芝居の駄菓子を買うことしか思いつかなかった。紙芝居をただ見している心苦しさがこれで一挙に解消できるわけである。これから安心して紙芝居を見ることができるからうれしさが倍増していた。今から何を買うか一生懸命考えていた。
良二はおっさんが売る全ての駄菓子とその値段を思い出せた。一番安いので一個五円、多くは一個十円だった。良二はどのようにしたら少しでも多くの駄菓子が食べられるかを考え続けて、次の日曜日を心待ちに待っていた。十円玉は良二の秘密の場所にしっかりと隠しておいた。
次の日曜日、良二はしっかりと十円玉を握ぎりしめて、広場で紙芝居のおっさんを待った。いつものようにおっさんは自転車を止めると、太鼓をたたいて周囲を一周してきた。おっさんが帰ってくるまでに、良二は胸を張って先頭で自転車の所に立っていた。お金を払って紙芝居を見られることの喜びと同時に、少しでも早くお金を使って駄菓子を買ってみたかったのだ。おっさんが帰ってきたときには良二の後ろに二、三人の子どもが並んでいた。
良二が迷わず最初に買ったのは、デンプン質の物を固めた5円のゲームだった。このデンプン質を固めた物の中に絵が描いてあり、その絵をきれいに切り出したら10円相当の駄菓子が貰えた。失敗しても小さなせんべいに杏子のジャムが少量のった駄菓子を貰えた。良二はこのゲームを何が何でもしたかった。今までこのゲームを買えなくても、他の子どもが失敗したゲームの一部を貰って絵を切り出す練習を続けていた。その練習の成果を試すチャンスが来たのだ。
良二は意気負ってゲームに挑戦したけれど、練習の成果もなく、切り出した絵が壊れてしまった。せんべいに杏子のジャムの駄菓子になってしまった。次に良二が五円で買ったのは、薄いバットの形をした板にチョコレート状のお菓子を貼り付けた物だった。そのチョコレート状のお菓子を食べ終わると、その板の上にあたりとかはずれとかの字が見えてくる。あたりだともう一本、この駄菓子を貰えるのだ。今まで食べたことのないうまい味のジャムを嘗めて、チョコレート状のお菓子を嘗め終わって、板の上に書かれていた文字ははずれだった。しかし良二は悔しいとは少しも思わなかった。初めて安心して、良二は子どもたちの前の方で、紙芝居を見ることができた。 良二は夢でも見ているような心地で家に帰ると、紙芝居と買った駄菓子のことを母親に告げた。当然母親はとても怒った。
「何で勝手なことをしたの。あれほど母さんが言ったでしょう、一人で買ってはいけないって。」
そのとき初めて、良二は母親との約束を思い出した。崖から突き落とされたような思いであった。泣きべそを書きながら、母親に謝るしかなかった。謝ると母親はそれ以上怒ることも止めて、何事もなかったように家事に戻った。良二は直ぐに遊びに出かけた。
それ以後も良二は紙芝居をただで見続けた。そのとき以後も駄菓子を買うことができなかったので、遠慮して子どもたちの一番後ろから紙芝居を見ていた。タイガーマンが悪人をやっつけて、王様とお姫様を救い出したところで、この紙芝居の物語は終わった。続いて次の侍の物語が始まったけれど、良二は父親の転勤で、東京の山の手に引っ越した。引っ越したところには紙芝居のおっさんは来なかった。
山の手はお金持ちが多かったので、テレビを持っている家があった。良二は性格が素直だったので、近所の老夫婦にかわいがられた。老夫婦が寂しさを癒すために、テレビの放送が始まると、良二を呼んでお菓子を出して、テレビを見させてくれた。テレビは白黒だったけれど、紙芝居以上におもしろかった。テレビを見出してから、良二はすっかり紙芝居のおっさんを思い出さなくなってしまった。