緊急放送
昨晩早く寝てしまったためでしょうか、正ちゃんはあたりが明るくなると、すっきりと目をさましました。ベットの上でぐずぐずしているのは退屈でした。お父さんお母さんを起こさないように、足音をそっと忍ばせて、部屋の外に出ました。まだ寝静まっているペンション。そのの台所では、すでに朝食の準備が始まっているようでした。玄関からペンションを抜け出してみると、庭の芝生はしっとりと朝露に濡れていました。正ちゃんは運動ぐつを朝露で濡らしながら、ペンションの周囲を歩いてみました。
高原の朝はまぶしい程でした。真っ青な空に白い雲が、幾らか登ったばかりの明るい夏の太陽と、朝の挨拶をしていました。ペンションの周囲の背の高い杉の林は、しっとりとおし黙って、朝日をいっぱい吸収していました。目の前に広がる麓の景色は、ぼんやりと朝もやに霞んでいました。ひんやりとした冷たい風が、ほっぺや額を気持ちよく冷やしました。その静かさの中にチ、チ、チ、と鳴く小鳥の声がより静けさを際だたせました。遠くで鴬も鳴きました。ぶっぽうそうも鋭い鳴き声をあげながら飛んで行きました。
正ちゃんは高原の舗装されない小さな道を歩いていました。正ちゃんは道ばたに咲いていた白や黄色の花を見つめたり、摘んだりしていました。すると突然、
「緊急放送、緊急放送、緊急放送、緊急放送緊急放送。」
と、たて続に叫ぶ、大きな声が聞こえてきました。正ちゃんはびっくりしました。どこかのスピーカーから聞こえてきたのだと思いました。どこか不明瞭な声なのは、野外スピーカーのせいだと思いました。それにしても、呼びかけるだけ呼びかけておいて、それでぴたりと止まり、その後の放送が全く有りませんでした。それも正ちゃんには不思議なことでした。正ちゃんはこの場違いな声に、しばらくぼっとしていました。
朝食の時、正ちゃんはこの話をお父さんにしました。お父さんは、
「緊急放送だって?なに馬鹿いってんだい。そんなところで緊急放送なんか聞こえるわけがないだろうが。何かのきき間違いさ。」
と言って、そっけなく、冷たい態度でした。
「本当にしたんだよ。本当なんだ。間違いなく聞いたんだ。」
「そんな所でそんな放送が有るわけが無いだろう。ここは山の中なんだよ。」
とお父さんは言って相手にしてくれませんでした。正ちゃんはたいへん不満でした。しかし誰一人、正ちゃんを相手にしてくれなかったので、もうそれ以上言うことができませんでした。
朝食が終わると、家族揃って登山に出かけました。山の中腹まで、バスで登りました。そこから、山頂近くまで、ロープウェイで上がりました。そこからは歩いて頂上を目指しました。岩がごろごろしている急な細い道でした。正ちゃんは息を切らしながら、みんなの後に続きました。
楽しかった登山で、正ちゃんは「緊急放送」のことをすっかり忘れていました。しかしちょうどペンションに戻ったとき、
「緊急放送、緊急放送、緊急放送、緊急放送、緊急放送、緊急放送、緊急放送、緊急放送」の声が聞こえてきました。
「ほら、お父さん、この声だよ、この声。」「は、は、は、は。この声か。うん、なるほど。緊急放送の声に聞こえるなあ。へー、そうか。これをいっていたのか。」
「お父さん、これは放送じゃあないの?」
「ああ、これは鳥の声さ。鳴き声だよ。山鳩の鳴き声だよ。」
「これが山鳩の声なの。ぼく、ぽーぽーって鳴くのかと思っていた。」
「そうか、緊急放送と聞こえたと言うのもおもしろいね。」
お父さんは仕切りと諾いていました。正ちゃんは疑いが晴れたので、ほっとしていました。