狐の赤い手袋

 或山の森の中に狐のコン吉は両親と一緒に暮らしていました。コン吉は幼い時から人間に大層興味を持っていました。そしていつか機会が有ったら、人間に化けて人間社会に行き、人間の世界を見てやろうと考えていました。しかしコン吉はまだ化けるのが下手で、人間にも上手には化ける事ができませんでした。そこでコン吉は自分が成人したのを機会に、父親に特にせがんで人間に化けさせてもらいました。りりしい人間の若者の姿になったコン吉は意気ようようとして真冬の山を降りて、麓の町を見に出かけました。

 麓の町に入ったコン吉には、見るもの聞くもの全て驚くものばかりでした。木や石で家が建ち、道には自動車が疾走しています。おいしそうな食べ物を売る店が沢山あります。多くの人々が忙しそうに行き来しています。コン吉は町中でただおどおどするばかりで、次第に人間社会が恐ろしくなり、とても心細くなってきました。

 ちょうどそのような時、どこから来たのか野良犬がいっぴき、コン吉めがけて飛びつき、咬みついてきました。コン吉は必死の思いでこの犬を振り払うと、大あわてで山の方へ走って帰りました。

 同じ山の森の中に狐のキヌ子が両親と一緒に住んでいました。キヌ子も幼い頃から人間のことについてあれやこれやと聞かされていましたから、人間に化けて人間の様なおしゃれをしてみたくてたまりませんでした。そこで年頃になったキヌ子は父親に頼んで、特別に一回だけ人間に化けさせてもらいました。女の人に化けたキヌ子は、頭に赤いリボンをつけ、赤い服と赤いズボンを身につけて、赤い長靴を履いて、踊る気持ちで雪の野原を歩いていました。ボタン雪が音も無く降っていました。キヌ子には踏みしめる雪の音も快く感じられました。

 キヌ子がこのようにして雪の野原を歩いていますと、向こうから若者が一人とぼとぼと歩いてきました。キヌ子にとっては初めて見る人間の若者です。胸がどきどきとして、キヌ子はこの若者をまともには見ることができませんでした。若者は大変疲れているらしくよたよたとしていました。服は汚れ、破れて、寒そうでした。かわいそうにと思ったキヌ子は思い切って若者に近づくと頭や肩の雪を払ってあげて、その素手の両手に自分のしていた赤い手袋を填めると、自分の家に向かって一目散に掛けだしました。

 キヌ子の心臓が高なり続けていました。自分の部屋に飛び込むと、キヌ子はあの若者の事を思い、深くため息をつくのでした。

 翌日、キヌ子はあの若者にもう一度会ってみたくて野原に行ってみました。もちろんあの若者に会うことはできませんでしたし、あの若者の足跡ですらも夜降った雪に消されてしまっていました。その翌日も、その又翌日も、キヌ子はかすかな期待を持って野原に行ってみましたが、ただがっかりして帰る日々が続くだけでした。

 やがて春が来て野山の雪が溶け出すと狐の世界ではお嫁入りのシーズンです。キヌ子はあの雪の野原で会った人間の若者の事を忘れることができませんでしたが、狐の世界のしきたりに従ってお見合いをして、お嫁に行かざるを得ませんでした。

 一方コン吉は、人間の世界はとても恐ろしいものだと思いましたが、あの雪の野原で会った優しい娘だけはどうしても忘れる事ができませんでした。来る日も来る日も部屋に閉じ込もり、あの娘のくれた一対の赤い手袋を見てため息ばかりをついていました。

 やがて春が来ました。ある日コン吉が自分の机の上のあの赤い手袋を見ようとすると、それが二枚の紅葉したカエデの葉に変わっているのに気付きました。

「そうだったのか。あの娘は狐だったんだ。狐の娘が人間の姿に化けて、僕に優しくしてくれたんだ。ぜひもう一度あの娘に会ってみたいなあ。」

と思ったコン吉は、あの娘と会った野原に行ってみました。春の明るい太陽に照らされた野原はもう既に雪は皆溶けて、若い緑の草花で覆われていました。翌日も、その又翌日も、コン吉は毎日のように来て、人間に化けていたけれど優しかった狐の娘のことを考えていました。けれどこの頃には、キヌ子はもう隣の森にお嫁に行ってしまった後でした。

 

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