器の中を
私は両親と別荘に来ていました。人気のない、昼下がりのテラスには、真夏の太陽がじりじりと照りつけていました。ビーチパラソルで直射日光を避けて、丸いテーブルに頬杖をついて、私はぼんやりとして、青黒い海を眺めていました。空も、海も、陸上も、皆じっとしていました。頭の中は空白でした。ただ耳の奥でには波の音だけが変化をしていました。私は時間が過ぎ去るのに任せて、座っていました。
ビーチパラソルの陰が時間とともに少しづつ動いて、テーブルに太陽の光が当たるようになりました。そこで私はテーブルを動かして、またビーチパラソルの陰にテーブルが入るようにしました。そのテーブルの上には、大きくて、真っ白な、ボールのような形をした灰皿がありました。私は今度はその灰皿の中をじっとながめていました。
その灰皿にはタバコの灰は入っていませんでした。その代わり、一センチメートル位の黒い、硬い羽根を持った昆虫が入っていました。その昆虫は灰皿の縁を一生懸命登ろうとしていました。少し登るのですが、すぐに滑り落ちてしましました。それを飽きる事なく、続けていました。場所を代えて登ろうともしました。しかし結果は同じでした。繰り返し、繰り返し登ろうとしました。私も心で応援をしながら、しかし意地悪にも滑り落ちるとほっとして、この昆虫の動きを見続けていました。
見ているうちに、私は不思議に思うようになりました。それは、この昆虫が羽根を持っている事に気づいたからでした。羽根を広げて飛んでしまえば、こんな灰皿の縁など問題ではないはずです。それなのにこの昆虫は、羽根を広げて飛ぶことはルール違反とでも言うように、頑として飛ぼうとはしませんでした。
さすがに、私も見ているのに疲れてしまいました。灰皿をひっくり返して、昆虫をテーブルの上に落としました。すると昆虫は誰か悪者にでも追われているかのように、急いでテーブルを横切って、テーブルの縁から落ちて、どこかへ行ってしまいました。
またぼけっとして、頬杖をついて、ぼんやりと海を見ていると、そのうちに、一生懸命白い壁を登ろうとしている私自身が見えてきました。私は夢中で壁をを登ろうとしていました。登り始めると少しだけ壁を登れるのですが、すぐに私は滑り落ちてしまいました。その壁は私をぐるっと一周取り囲んでいました。私がここを抜け出すには、この壁を登るしか方法がなかったのでした。その壁のあちこちには私の両親の顔が描かれており、その顔は優しい眼差しで私を見ていました。しかし良くみると、私が壁を登り出すと嫌な顔をしだしました。私が滑って落ちて、しりもちをつくと本当に優しそうに私を見つめていました。私は両親の顔が憎らしくなりました。私は拳を作って、父親と母親の顔を叩きました。するとどの父親の顔も、鬼よりも恐い顔となり、二度と私は見ることができませんでした。母親は泣きました。泣かれていまっては、二度と私は刃向かうことができなくなりました。私はよたよたと地面にしゃがみ込んでし舞いました。
悔し涙が私の頬を伝わって流れました。その涙を手の甲で拭うと、突然私の背中に羽根が生えていたのに気づきました。
「そうだ、この羽根で飛んで行こう。」
と思ったとき、
「その羽根で飛んではいけません。そんなずるいことはしてはいけません。」
と壁に描かれている母親が言いました。その母親の言葉だけで、私には十分でした。私の頭の中から、羽根を使ってどこかへ飛んでいこうという考えは消え去りました。私はよたよたしながら立ち上がると、むなしく塀をよじ登ろうと繰り返していました。
電話が鳴って、また自分を取り戻しました。電話に出てみると、買物に行った母親からでした。母親は寄り道して帰るので、帰りが少し遅れると言うものでした。
「母さんの帰りが遅くなる。そのあいだに、思い切ってどこかへ行ってしまおう。今がチャンスかもしれないわ。」
私は急いで部屋に行き、衣類をスーツケースに入れ始めました。財布を調べると一日分の生活費も有りません。私は床にどっと腰を落とすと、無力感に襲われました。