親について

 学校で生じるいろいろな問題を考えるとき、しばしば先生側の問題点と共に、子供側の問題点が指摘されます。その指摘される子供側の問題点は、子供自身の持つ性格についてと、育てている親の子供への対応についてです。その多くは親の子供に対する躾の問題です。小学校に上がる前までにきちんと躾をしておかなかったから、現在の学校での子供の問題が生じるようになったと言う意見です。今の学校は問題が無くて、そこで学ぶ子供に問題が有り、学校の規格(例えば大人しく長時間椅子に腰掛けておられる)に合うように、親が予め子供を躾をしておく必要があるとの意見です。これは学校を第一義的に考え、子供の多様性を、多様性に富む子供達の人権を無視した意見です。とても許せない意見です。大切なのは子供であり、大切な子供を育てるためには、学校が子供に合わせる必要が有ります。そうは言っても学校側でも、子供に学校を合わせるには物理的に経済的に限界があることも事実です。

 親が子供を育てるとき、どの親も子供の幸せを願って一生懸命子育てをしています。それは親として当然です。ところが子供が幼稚園に入ってみると、小学校にあがってみると、中学生になってみると、子供に思わぬ問題が生じます。親として可能な限りの事を尽くして子育てをしてきているのに、子供に思いもかけない問題が生じています。その時には親としても手の打ちようが無いのです。そこで親はいろいろな相談機関に相談して何か解決法が無いかと捜しまわっているようです。相談機関や学校の先生のように、後から振り返ってある親の育児の問題点を指摘することは簡単です。しかし親にとっては昔に帰れるわけでもなく、指摘された問題点も本当に問題点なのかどうかかも分からないのに、徒に育児の問題点ばかりの指摘はその親を必要以上に苦しめる原因にも成ります。学校の規格に合わないために生じた子供の問題を、いくら親が解決しようとしても、それは親にはできるものではありません。子供を今の学校の規格に合わせるようにしようとすればするほど、ほとんどの場合問題はこじれて行きます。それはその時点で既に子供には大きな心の傷ができているからです。その時に親としてできることは、子供の心の傷をいかに癒すかの問題が有るだけであり、学校で生じた問題の解決はその後の事になると考えられます。

 学校の先生が何と言おうと、カウンセラーが何と言おうと、どの親もその親なりに一生懸命子育てをしています。それは決して間違いではありません。しかもその結果、いろいろな多様性を持った子供が生じています。それは決して躾の問題ではありません。親の責任でもありません。それは物質的に豊かになった時代がもたらしたものなのです。時代が進み、世の中が物質的に豊かになればなるほど、いろいろな性格の子供が、多様性のある子供が生じてきます。その事実は親にも、政治家にも、教育者にもどうにもならない現実です。しかし実際はその事実に気づかないで、その多様性のある子供達をある枠にはめ込もうとした対応がなされ、いろいろな子供達の問題を生じています。

 親が子供の幸せのために、その親なりに懸命に子育てをしている限り、その子育てには間違いは無いと思います。与えられた環境の下で、与えられた知識の下で、精一杯子育てをしているのを、誰も非難はできないと思います。例えその子育てが結果的に社会から非難されることがあったなら、それは親の周りの環境に問題があるか、親に与えた知識に問題があるのであり、その親にとってはその親なりに正しいか、またはやむを得ない子育てだったと思います。非難する人も、全くその親と同じ条件を理解できるわけでもないし、その親に代わって子育てができるわけでもないし、人の不幸につけ込む勝手な言動だと思います。ただ、親だけは自分の子供の心を傷つけて欲しくありません。そうは言っても、親も子供の心を傷つけることが多いです。また、子供が家の外で心に傷を受けて帰って来ることが有ります。その際には親は子供の心の傷に気づいて欲しいと思います。そして子供の心の傷を癒して欲しいと思います。子供の心の傷を癒せるのは親しかいないからです。もし親が子供の心の傷に気づかなかったなら、子供の心の傷を癒せなかったなら、子供は不適応行動を続け悪化するか、逆にいろいろな自律神経の症状に苦しみ続けるかです。そして親もそのことで悲しみ悩み続けなくては成りません。

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