本当の親切とは

 親切の定義ははっきりしません。辞書を見てもわかるようなわからないような表現です。 親切は、できる人がすれば良いのであり、しないから非難される物では有りません。親切は以下に分析するように、余裕のある、能力のある、人がすれば良いものだと思います。決してすべての人に要求される物ではありません。

 一般的に親切には親切をする側と、される側があります。親切をする側から言うなら、その人のためになる(倫理的に)と思うことをする事です。される側から言うなら、されて感謝する気持ちになれることです。このする方の気持ちとされる方の気持ちが一致した時が、親切ではないでしょうか?。ただし、この関係は短時間で終わらなければなりません。感謝の気持ちが依存や打算の気持ちになったときには、それは親切ではなくなります。お節介、施しでしょう。親切をされる相手が、感謝の気持ちの分かる人間だったら、これが一応の目安になります。しかし、感謝の気持ちの分からない、小さな子供だったり、動物だったり、自然界の物だったりしたらどうでしょうか?そのときは親切にしたつもりの相手の様子から、判断するしか有りません。その判断もその場限りの物でなく、長い目で見なくてはなりません。特に親切を受ける側が親子関係のように互いに信頼できる関係なら、親切を受ける側が要求することを無条件で満たしてあげることが親切だとはっきりと言えます。そして親切を受ける側が要求しないことをしてあげることは親切ではなくてお節介になると言えます。

 このように考えると、親切ほど難しいものは有りません。相手次第で親切がお節介になります。又、親切で行なったことがある人には親切だったけれど、同時に他の人にはお節介だったと言うこともあります。つまり、親切とは、お節介だと思われることを覚悟してからでないとできないことになります。親切なことをすると言うことは、口で言うことは優しいですが、実際は相手の結果を見てと親切だったかどうかを判断することになります。親切だと思ってしたことでも相手の様子を見て、その様子からすぐに引き下がる必要もあります。相手に親切にするには、自分が親切だと思う行動を止める勇気も必要です。またこのようなことが言えると思います。すなわち、自分で親切の気持ちからあることをした時に、相手がお節介だと思ったとします。その際に、相手が人の心を理解しないと怒るのも悪くは無いのですが、自分も相手を理解しなかったのだとも解釈する必要があります。たしかに、あいては人の心を理解していないことは事実ですが、自分も相手の心を理解しなかったのです。このように考えると、続いて次のような事が言えると思います。「相手の要求が良くわからないときには、親切をしなくてもよい」です。相手の要求を理解して行動するのが、親切と言えるでしょう。ある意味では無難な親切とも言えるかも知れません。

 「本当の親切」とは、相手の要求がわからなくても、行動を起こして、その結果として、相手に感謝されることだと思います。相手に感謝されるかされないかは一種の掛けになります。場合によっては自分も大きな被害を被る可能性も有ります。このように条件を付けないで、自分の犠牲を省みないで、有る行動を起こして、その結果が相手に感謝されたときには、本当の親切と言えるでしょう。相手が感謝しなければ馬鹿を見たことになります。馬鹿を見ることを厭わないで、自分の損を省みないで、行動に出なければ本当の親切はありえないと思います。例えば、電車が来ているのに、踏切で遊んでいる子どもを救出するというようなものが考えられます。

 幼い子供が転んだとします。けがをしたようすもありません。それなら無視しておくのが親切でしょう。子供が痛みに耐えかねて動けません。それなら側に行って、痛みを共有してやるのが親切でしょう。大けがをしていたら、ほとんどの人はその子のために対応するでしょう。そのようなことがわからなかったら、分かるまで見守っておくのも親切だと思います。

 足の悪い人が転んだとします。転んでも自分で起きあがるのがいちばん良いことは、おわかりだとおもいます。なかなか起きあがれなくて困っているときは、側に行って助けるのが親切でしょう。そのときの状況で親切な行動は変わってきます。

 老人が転んだ場合には、その老人に残っている能力によるので大変にむずかしいです。無難なのは、老人が何か言って来るまで待つか、声を掛けてみれば良いかも知れません。

 以上は私の独断です

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