子どもの心の病 第三版


第0章 はじめに

 ここで子どもという概念は、思春期までの人を指します。しかし心が辛い状態の人では、二十歳代の後半まで、ここでの説明が当てはまります。心が元気な人では心の病を考える必要がありません。
 心という概念は、ここでは脳の機能を指します。一応読者が持たれている心の概念で良いのですが、読者の持たれている心の概念が脳の機能に基づかないときには、子どもの心に当てはめると間違いになります。子どもの心の病とはまさにその代表例です。
 心の病とは何かという問題を考えてみます。現実に心の病と表現される心の状態(以下心の病と表現する)があります。心の病の症状で苦しんでいる人がいます。しかしあらゆる医学書を見ても、心の病を科学的に客観的に証明した書物はありません(例外として進行性麻痺があります)。もちろん世界中のいかなる人も心の病を科学的に証明できる人はいませんし、方法もありません。つまり心の病という心の状態はあっても、心の病という客観的な実態がありません。人の心が当人にとって好ましくない症状を出すとき、または他の人にとって好ましくない症状を出すとき、その心の状態を病気だと決めただけです。
 子どもの場合、子どもの心は脳の機能をはっきりとはっきりと反映しています。子どもの場合、ある刺激を受けると、素直にその刺激に反応します。子どもで心の病だと診断されても、その子どもに加わる刺激で、その心の病に相当する症状が出ていることがわかります。子どもにその心の病に相当する症状を出させる刺激をなくすると、子どもはその病気に相当する症状を出さなくなります、この事実は、子どもが心の病に相当する症状を出していても、それは刺激に反応して出した症状であり、子どもには心の病の存在を考える必要がないです。
 現実に心の病として治療を受けていた子どもに、その治療を止めて、心の病に相当する症状を出させる刺激を見つけて、その刺激から子どもを守ると、つまり心の病に相当する症状を出させる刺激を子どもから取り除くと、心の病に相当する症状は消失します。心の病と診断されていた子どもは、心の病に相当する症状を出させる刺激に反応して、心の病に相当する症状を出していただけのことでした。心の病に相当する症状を出していても、心の病が子どもは存在していなかったのです。
 この事実は発達障害と診断されている子どもにも当てはまります。ただし発達障害と診断された時点で、既に反応の仕方が子どもを取り巻く環境に不適応を起こして、ている子どもについて、その発達障害と診断される症状を出させる刺激を見つけることが大変に難しいです。また、その発達障害と診断される症状を出させる刺激から子どもを守られたとしても、その症状がその子どもからすぐにはなくならないという問題点があります。


第一章 症例1

 親から見て特に問題なく順調に成長していた女の子です。小学校5年生の一学期から、朝なかなか起きてこない、起きてきても頭痛や腹痛を訴え、学校に行き渋るようになりました。けれど両親が女の子を車に乗せて学校に連れて行くと女の子はその一日元気に学校で過ごして帰ってきていました。そのようにして登校させ続けていたら、女の子は朝学校に行く段になると物を壊したり、両親に暴力をふるったりして荒れ出しました。日中も幻聴や幻覚を訴えだしました。夜には不安や不眠を訴えだしました。
 そこで学校と相談すると、養護の先生から少児精神科を受診するように勧められました。少児精神科を受診すると、医者から統合失調症と診断されてすぐに薬を飲むように指導されました。しかし一年以上の長期に多量の向精神薬を服用しても一向に良くならないので、母親は小児精神科の治療に疑問を持つようになり、当院を受診しました。
 当院では母親だけのカウンセリングを行い、女の子へのあらゆる登校刺激を取り除き、家の中を女の子が楽しめるような場所にして、女の子の要求を全て叶える対応を取るように指導するとともに、具体的な対応を母親に納得がいくように説明して、実践して貰いました。その結果女の子のあらゆる症状はだんだん消失していき、女の子は自分から薬を飲まなくなった。
 この女の子は医者から統合失調症と診断されたのですから、母親もその診断を信用して治そうとして、一生懸命女の子に薬を飲ませ続けました。しかし統合失調症の治療を止めることで女の子は元気になったというその後の経過から、医者の誤診が明らかになりました。子ども達の心の病の問題に対応していますと、全ての症例でこのような医師の誤診が見られています。


第二章 どのようなときに心の病と気づくか

 親や子どもの周囲にいる人たちが、その子どもがどのような状態の時に、その子どもがおかしい、心の病ではないかと感じるようになるかを考えてみます。それはその子どもがとてつもなく怒りっぽい、すぐに酷く落ち込む、行動が普通の人と大きく違う、性格が極めて異常などと感じたときでしょう。
 子ども自身が自分は心の病ではないかと、自分から言い出すことはまずないです。子どもが自分から自分は心の病ではないかと言い出す場合は、親がその子どもをすでに心の病ではないかとしきりに言っている場合です。子どもは自分自身の心を理解できないときに、自分自身の心を言葉で表現するために、親の言っている言葉を用いただけであり、決して自分の判断ではないです。
 親や子どもの周囲の大人が、その子どもがおかしい、心の病ではないかと気づいたとき、その子どもの心が本当に異常なのか、本当に病気なのか、それらの判断ができません。それは正常、異常、病気の間に明らかな境界がないからです。誰か人の心が正常なのか、異常なのか、病気なのかを判断をする人が必要になってきます。それを行うのが精神科医です。精神科医がその精神科医の経験から判断します。それはちょうどある人の行動が犯罪に当たるのか当たらないかを判断する裁判官のようなものです。裁判官は法律に基づいてある人の行動が犯罪に当たるかどうかを裁判官の経験から判断しますが、精神科医はある人の心の状態や反応の仕方を診断基準に基づいて精神科医の経験から判断します。法律も診断基準も人間が多数決で決めた物であり、決して科学的な根拠があるわけではありません。その結果同じ診断基準で判断しても、精神科医によってその判断が大きく異なることがしばしば生じます。しかし最近は脳についての知識が広まってきたので、心の病についても脳の立場から、脳を扱う科学、すなわち脳科学から心の病を理解しようとする動きが精神医学の中でも生じています。


第三章 心の病を考える前に

 現代社会はすでに心の病があるとして社会体制が組み立てられています。だからといって心の病を考える前に、心の病が本当にあるのかを考えてみる必要があります。つまり現実の人間は心の病の存在を信じているけれど、本当に心の病とは存在するのかどうかです。確かに心の病と呼ばれる心の状態は存在するけれど、なぜそのような心の病に相当する心が存在するのか、誰も証明できていないからです。
 現実の人間は心の病が存在していると信じているだけで、その信じている心の病を他の人に当てはめて、心の病を持っていると考えられる人に治療と称してその人の自由を制限して、薬を飲ませて脳の機能を変化させています。心の病というラベルを貼ることで、心の病を持っていると考えられる人の人権を制限して、その人の周囲の人の生活の便利さを優先している姿です。そのために現在の社会体制では、回復が難しい心の病と見なされると、精神障害者という名前でそれなりの保護が与えられる場合や、社会に大きな被害をもたらすと推測される場合には強制的に治療を行うなどの制約が課せられる場合があります。
 現在社会では心の病があると信じられています。その信じられている心の病があることを誰も証明できていません。また心の病がないとも証明できていませんが、理論的にも内物を証明することは不可能なのです。では心の病があると仮定しても、果たして子どもに心の病が本当にあるのかどうかという問題があります。子どもはまだ成長の過程にありますから、大人と違って当たり前だからです。子どもの行動が日常生活に支障を来すからと言って、その行動を病気と言って良いはずがありません。子どもは成長の過程でその日常生活に支障を来す行動や反応を修正していけるからです。
 子どもはその成長の過程で日常生活に支障を来す行動や反応を修正して大人になって社会に出て行けばよいですが、親や医者から病気だとされて、子ども自信も自分が病気だと信じたときに、子ども自身も信じ込んだ病気を治そうとして、自分を問題行動に駆り立てる原因を正そうとはしなくなります。それは子ども自身の問題の転化になり、問題解決の機会を失うことになります。一生病気として苦しむことになります。また親についても、親は子どもが病気だと信じたときに、病気を治そうとして問題行動の原因を正そうとはしなくなります。子どもを元気にする機会を失うことになります。
 心の病の治療として使われる多くの薬は、脳の機能を抑えて症状や反応をなくするようにする物ですから、子どものようにまだ脳が成長をしている場合、子どもの心の病と考えられる状態から子どもが回復する能力も奪ってしまうと言う事実を親や医者は本気で考える必要があります。

第四章 心とは何か

 心の病を考えるとき、心は目では見えませんから、最初に心とは何かを明確にする必要があります。角川の国語辞典で心の所を読んでみると、心とは「(人間などの)考えたり、感じたりする働きの、一番元になっていると考えられるもの(国語辞典)漠然と心と感じるもの」と表現されています。それをもっと具体的に表現すると、「自分で考えたり 、思い出したり 、感じたり 、行動したり できる。それをするのが心です。」その自分の心を言葉で表現できるし、言葉で他の人の心を知ることができます。それ以外に感情を生じるものが心であり、その自分の心と比較して、他の人の行動(反応や表情も含む)から、他の人の心を、動物の心を推測できるようになります。
 人間型ロボットは人間に似せて作られています。ロボットには一応心がないと考えられています。ロボットはあらかじめその反応の仕方や行動が、あらかじめ人間でプログラムコンピューターで、一連の動きや反応が制御されているからです。基本的には人間が指示を出さないと、一連の動きや反応をしないからです。しかし最近のロボットは簡単な学習ができるようになってきて、その学習した事実から状況判断をして反応や行動をするように進化してきています。しかし依然としてロボット自身には人間と同じ意識(顕在意識)や感情がありません。そこで人間の心とは意識であり、感情であると表現できると思います。動物に意志があるかどうかわかりませんが、感情はありますから、動物の心とは感情であると表現できると思います。その意志や感情を支えるために、感覚(心への入力)、記憶(心の情報)、反応(心の出力)があると考えられます。

第五章 脳と心

 心は人間や動物のどこにあるかという議論があります。脳神経細胞の研究から、脳が非常に複雑な情報処理を行っていることがわかってきています。そのことをもとに現在の心についての考え方は、心には脳が大きな役割を果たしていることを多くの人は認めています。しかし現在得られている脳についての知識では十分に心を説明できないので、以下の二つの考え方が現在存在しています。
1)心身一元論
 心と脳とは同一と考える考え方です。例えば「脳の中に入っていけば、意識の中枢にたどりつける」とF.クリック、C.コッホなどが主張しています。私が主張する、小児脳科学心理学も心身一元論です。医学が占いや祈祷から始まり、現在は科学的な根拠を求めるようになっているように、心の科学である心理学も可能な限り一元論が好ましいことは多くの人が認めるところです。
2)心身二元論
心と脳とは別と考える考え方です。精神世界という心が存在していてそれが脳に働きかけて心の表現をするという考え方です。脳とは関係なく心を考えることができますから、とても分かりやすいですが、客観的な証拠がないことも事実です。例えば「脳の神経作用によって心を説明するのは絶対に不可能と私には思える」とW.ペンフィールドが主張しています。「各自の魂は神の新しい創造による物で、受胎と誕生のどこかの時点で胎児に植え付けられる」とJ .エックルスが主張しています。そして現在の精神医学や心理学 は二元論をとっています。精神世界では魂、霊、念力、心霊現象、宗教が存在可能です。

第六章 病とは、トラウマとは

 角川の国語辞典で病の項を見てみます。「体の調子がおかしくなり、熱が出たりして苦しく感じられる状態」と書かれています。それをもっと踏み込んで医学的な立場から表現してみます。それは「原因が体内にあって、そのために自覚的に体の調子が悪くなること、または将来必ず悪くなること」と表現できます。人によっては、自分がまたは他の人が、自分が普通と感じるもの、平均的と感じるものと比べて大きく異なっていて、生活に支障を来していることを病気と考える人がいます。それは平均から大きくかけ離れている、場合によっては異常にかけ離れているという意味で、異常と表現されることもあるかもしれませんが、病気だと言うことにはなりません。病気と言うためには体内にその異常を起こす、または将来必ず起こす原因がなければなりません。人間では普通と考えられる値から非常にかけ離れていても、その人なりに生きて行ければそれで良いはずです。
 病との比較で怪我について触れておきます。怪我とは一時的なまたは現存する原因が体外にあり、そのために体の組織(心の場合記憶)が直接壊されて、多くの場合体の調子が悪くなることです。体の怪我ですと目で見えるから分かりやすいですが、心の怪我の場合目で見えません。そのために人によって心の怪我の意味が大きく異なる場合があります。現在多くの人が使う「心が傷ついた」という表現は、辛い思いをしたという意味であり、この本で言う「辛さを生じる条件刺激の学習」という意味ではありません、
 この本ではトラウマ(一般の人が使う心が傷ついたという意味と区別するために、心的外傷、トラウマと表現しておきます)は辛さを生じる条件刺激の学習と約束します。この辛さを生じる条件刺激を学習すると、それ以後その辛さを生じる条件刺激に出くわす度に、程度の差はあっても体中に辛さを表現する条件反射が起こります。
 この辛さを生じる条件刺激は、当人以外の人では辛くならないか、かえって楽しくなる物です。ですから当人以外の人は、そして辛くなっている当人ですら、なぜその人が辛くなるのか分かりません。実際には原因があるのですが、その原因がわからないという意味で、原因がないのにその人が辛くなることから、辛さを生じる条件反射を生じているとき、その人は病気ではないかと、当人も、他の人たちも考えるようになります。

第七章 体の病と心の病

 体の病が出す症状については、自覚症状と他覚症状があります。またその病についての検査法があり、その検査所見に異常を来しています。多くの場合体の中にその病を生じる原因があります。例えば脳炎などの脳の病の後遺症があります。この後遺症は心の症状を出しますが、あくまでも脳炎の後遺症であり、心の病とは言いません。
 心の病が出す症状について自覚症状がない場合が多いです。もっぱら他覚症状が強く出て、その他各症状から診断されます。体の病と違って検査法がないか、検査法があってもその検査は検査する人の主観による物がほとんど全てです。ですから検査所見が検査する人により大きく異なります。また心の病を生じる原因が見つからないです。
 この心の病という考え方は、心に病があるという前提で考えています。心身二元論では心に病があるという前提ですから、以上のように病を考えることができます。しかし心身一元論では、心の病と考えられている状態は脳の記憶の問題、脳の機能の問題ですので、脳の記憶異常、脳の機能異常と表現できて、心の病とは表現できないことになります。
 そこで心の病を心身一元論から考えるなら、心の病とは脳内の機能的な変化から、症状を出している状態です。ですから心の病と言われている物は脳内の機能的な変化から考え治療を考えます。特に子どもでは成長とともに脳が社会に適応をするように発達して、心の病と呼ばれる状態を解決しますから、心身一元論で考えなければなりません。心身一元論では脳内、身体内の病体と症状との間に1:1の関係があります。
 現在の精神医学のように心の病を心身二元論から考えるなら、主訴や症状を出す病気があるという前提に立ちます。その際に脳内の変化を問題にしません。症状の組み合わせだけから診断します。心の症状の症候群です。精神世界という心の中に自然発生的な病因があると考えています。精神世界とは仮想の世界ですから、病因を証明することはできません。また心の病の結果その症状に伴って脳内の変化を生じることがあります。心の病ですから、治療を必要としますが、それは症状をなくすように主として薬剤治療をします。心の病の症状と脳内や体内の病態とが必ずしも1:1でないです。また心の病事態が時代や文化によって病気だとされたり、病気でないとされたりする場合もあります。

第八章 精神医学における心の病

 心身二元論の立場を取る精神医学で正式には、心の病を障害と表現します。それは病気と断定する証拠がないからです。日常生活上好ましくない反応の仕方である、日常生活上でいろいろな障害を生じるという意味で障害と表現します。医者は治療の関係上障害を病気と見なしています。例えば発達障害、気分障害、不眠障害などの言葉を使います。それらは病気であるから治さなければならないとしています。治すために薬を投与します。
 心身二元論の立場を取る精神医学では、心の病とはその行動や反応の仕方が日常生活に障害をもたらすことから判断されます。日常生活に障害を来すから病気と判断しているだけで、心の病だという客観的な証拠はありません。ただ単に社会通念上、医師の知識として納得できれば心の病と見なされます。医者は子どもの心に大人の心を当てはめて考えています。大人の心を未熟にした状態を子どもの心と考えています。けれど子どもの心と大人の心とは異なっています。大人の心が当てはまらないところが多いですから、大人の心を当てはめたときには間違いになりやすいです。それどころか私の経験から言うなら、子どもには心の病は基本的にない可能性が高いと考えています。


第九章 子どもの立場からの心の病

 子どもの心の病、精神疾患といわれているものは、大人の都合から考えられて診断されています。子どもを素直に観察する限り、子どもの心の病は子どもの記憶の問題、子どもの反応の仕方の問題です。子どもが心の病の症状を出すにはそれなりの原因や理由があります。子どもの心の病が子どもの記憶の問題であったり、子どもの反応の仕方の問題であったなら、子どもを苦しめる原因を除去して、子どもの成長を待つことにより解決が可能です。子どもは脳の機能が、成長の過程で学習により修正可能だからです。
 成長による脳の機能の修正は、子どもの本能に沿って子どもが主体的に行われなければならなりません。親や大人達にとって不都合でも、子どもが自分から周囲に順応していこうという本能に基づいて、自分の脳の機能を修正していく必要があります。親や大人が子どもの本能に沿わない対応で解決しようとすると、子どもは病的な症状を出したり、強めたりします。
 子どもが辛くて病的な症状を出しているとき、親や大人達は子どもを医療に掛けてしまいます。確かに薬は脳の機能を抑えることで症状の発現を抑えることが可能ですから、薬を使うことで子どもが自分を病気と信じ込み、心の機能を修正しようとしなくなります。また薬自体も脳が学習により脳の機能の修正する能力を抑えてしまう作用があります。


第十章 ストレス刺激とその反応および症状

 人間がストレス刺激を受けたときの反応と症状は、人間以外のほ乳類がストレス刺激を受けたときの反応と症状にほぼ一致します。けれど子どもの場合、大人や人間以外のほ乳類がストレス刺激を受けた場合と異なるところがあります。それを解説してみます。
 子どもがストレス刺激(嫌悪刺激)を受けたとき、子どもはそのストレス刺激から逃げようとします。そのストレス刺激から逃げられないときには、子どもはいわゆるよい子を演じます。親や大人から見て好ましい行動をして、それ以上ストレス刺激を受けないようにするか、親や大人から誉められるという意味で自分を守ろうとします。無意識に、可能な限りよい子を演じ続けます。そのよい子を演じ続ける能力は子どもによって異なります。
 子どもがよい子を演じ続ける限界に来て、よい子を演じられなくなったとき、子どもはそのストレス刺激そのものに、ストレス刺激を与える人や物に攻撃をします。親や大人から見たら子どもが暴れ出したと感じられるようになります。その子どもが暴れる程度は子どもによって大きく異なります。自分を強く表現し訴えることを学習してきた子どもは、親や大人を酷く困らせるような暴れ方をします。自分を表現することができない子ども、強く訴えられない子どもは、あまり暴れることもなく次の段階に行きます。
 ストレス刺激を受けて、暴れるという形で辛さを訴えられない子ども、大人の力で暴れるのを押さえつけられた子どもは、初めのうち自律神経症状を出すようになり、そのうちに精神症状を出すようになります。
 自律神経症状としては、身体症状(頭痛、胸痛、腹痛、嘔気、下痢など)があります。精神症状としては、不安、興奮、不眠、過眠、気分の落ち込み、気分の高まり、こだわり、無関心、食欲不振、過食、幻聴、幻覚(夢と共通点がある)などがあります。
 ここで注意しなければならないことがあります。子どもに加わっているストレス刺激がわかるとき、自律神経症状や精神症状を出しても、ストレス刺激に反応してこれらの症状を出しているとわかります。しかし親や大人達が子どもに加わっているストレス刺激があるとわからなかった場合、気づかなかった場合、自律神経症状や精神症状を出している子どもは原因がなくてこれらの症状を出していると、親や大人達は判断します。そこでこの子どもは病気ではないかと疑い、その子どもを病院に連れて行きます。医者は症状からだけで診断しますから、子どもが出している症状から、子どもが精神疾患だと診断して治療を開始します。薬を投与し始めます。つまり子どもの心の病とは、子どもに加わっているストレス刺激が親や大人達にわからなかったため、子どもが心の病で苦しんでいると判断されただけで、実際には子どもは親や大人達が気づかないストレス刺激で自律神経症状や精神症状を出しているだけなのです。


第十一章 いわゆる”発達障害”も存在しない

 発達障害とは、米国精神医学会によるDSM−IVでは「通常、幼児期、小児期、または青年期に初めて診断される障害」を指しています。それをもっと細かく記述してみます。
*精神発達遅滞(軽度精神発達遅滞 中等度精神発達遅滞 重度精神発達遅滞 最重等度精神発達遅滞 精神発達遅滞 重症度特定不能)
*広汎性発達障害(自閉性障害 レット障害 小児期崩壊性障害 アスペルガー障害 特定不能の広汎性発達障害)
*学習障害(LD)(読字障害 算数障害 書字表出障害 特定不能の学習障害)
*運動能力障害(発達性協調運動障害)
*注意欠陥及び破壊的行動傷害(注意欠陥・多動性障害 得意邸不能の注意欠陥・多動性障害 行為障害 反抗挑戦性障害 特定不能の破壊的行動傷害)
*コミュニケーション障害(表出性言語障害 受容−表出混合性言語障害 音韻障害 一部の吃音症 特定不能のコミュニケーション障害)
 脳の組織や解剖上での構造異常がある子どもは、脳に関する身体障害者であり、発達障害の子どもとして考えることができません。発達障害として考えられる子どもは脳の構造や解剖上の異常がないことが前提です。ただし、脳はその皮質についても、白質についても、その成長段階でいろいろと代わってきます。同じ年齢の子どもでも脳の完成度は大きく異なります。年齢で脳の組織や解剖上の構造が異なっても少しも異常ではありません。それは脳の機能である心の状態が、同年齢の子ども同士の間で大きく異なっていてもおかしくありません。子どもによって、いろいろな性格の子どもがいてもおかしくありません。発達障害と診断されるような、特別に異なった性格を持った子どもでも、その子どもなりに大人になったときには、社会に順応した自立した大人となっていきます。
 わわゆる発達障害とは、その心(=脳の反応)が未だ未発達の状態です。いわゆる発達障害の子どもは、親に守られている限り、必ずしもその子どもにとって不都合な状態ではありません。子ども自身にとってはありのままの自分ですし、そのありのままの自分から成長して、その子どもなりの大人になろうとしています。このような成長の仕方が、その子どもなりの子どもの心に沿った成長の仕方です。いわゆる発達障害と見なされた子どもでも、その子どもなりの成長を認めれば、その子どもなりの成長を続けて、最終的に大人社会に順応して、一人前のいろいろな意味で自立した大人として社会に出て行きます。
 そこには大人が発達障害としてその子どもの心を正そうとする関わりを持つ必要がありません。それどころか子どもの心にとって自然な心のあり方を発達障害だと決められて、子どもが希望をしない関わりを強制されるなら、子どもは自分のあり方を否定されたと反応して、とても辛くなり、いろいろな回避行動を取るようになります。素直に心が育たなくなります。
 その子どもを取り巻く大人には、子どもの年齢から推測される子どもの心の状態を考えます。子どもの心の状態がその子どもの年齢から推測される子どもの状態から大きくかけ離れているとき、そのかけ離れ方が大人にとって好ましいときには、子どもはすばらしい子ども、望ましい子ども、天才的な子どもとなります。その掛け離れ方が大人にとって好ましくないとき、その子どもの心や体の状態を異常だと判断します。正す必要がある、早く追いつかせる必要があると大人は考えます。ただしその対応は簡単でないので、病気として医師に治療という形で解決を委ねています。
 発達障害と診断された子どもに発達障害としての対応や治療を行うことは、その子どもにその子どもなりの成長を認めないことになります。その子どもは自分なりの成長を否定されたと反応して、子どもは葛藤状態になります。その葛藤状態を子どもが大人の前で表現するかどうか、それはその子どもにより異なります。子どもがその葛藤状態を表現しても、しなくても、子どもが辛い状態になり、その対応で回避行動を起こしたり、病気の症状を出すようになります。
 つまり発達障害と診断された子どもがいろいろな問題行動や病気の症状を出したとき、医者や多くの人はそれは発達障害の持つ症状として理解しますが、それは間違いです。子どもが発達障害としての対応や治療を受けることから生じた症状なのです。子どもが発達障害としての対応や治療を受けることで、その子どもが成長して一人前の大人として社会に出られる能力を奪うことになります。


第十二章 症例の解説

症例 1
 親から見て特に問題なく順調に成長していた女の子です。小学校5年生の一学期から、朝なかなか起きてこない、起きてきても頭痛や腹痛を訴え、学校に行き渋るようになりました。けれど両親が女の子を車に乗せて学校に連れて行くと女の子はその一日元気に学校で過ごして帰ってきていました。そのようにして登校させ続けていたら、女の子は朝学校に行く段になると物を壊したり、両親に暴力をふるったりして荒れ出しました。日中も幻聴や幻覚を訴えだしました。夜には不安や不眠を訴えだしました。
 そこで学校と相談すると、養護の先生から少児精神科を受診するように勧められました。少児精神科を受診すると、医者から統合失調症と診断されてすぐに薬を飲むように指導されました。しかし一年以上の長期に多量の向精神薬を服用しても一向に良くならないので、母親は小児精神科の治療に疑問を持つようになり、当院を受診しました。
 当院では母親だけのカウンセリングを行い、女の子へのあらゆる登校刺激を取り除き、家の中を女の子が楽しめるような場所にして、女の子の要求を全て叶える対応を取るように指導するとともに、具体的な対応を母親に納得がいくように説明して、実践して貰いました。その結果女の子のあらゆる症状はだんだん消失していき、女の子は自分から薬を飲まなくなった。両親も女の子が元気になっていると判断していた。
 女の子の症状がなくなり落ち着いた日々が続いていたある日の食事時、突然女の子が暴れ出し、食事をひっくり返し、皿を投げました。なぜ女の子が荒れたのか理解できなかった母親は、女の子の病気がぶり返したと判断して大あわてで当院に相談の電話を入れてきました。当院で女の子の心を分析してみると、女の子は何かに反応して荒れたことがわかりました。女の子が反応したと分析することができた。そこで以後その料理を作らないように母親を指導して実践して貰うと、女の子は今まで通りに母親と食事をして元気になっている。

症例 2
 幼いときから母親思いのとても優しい女の子であった。小学校一年の夏頃から学校に行きにくくなっていたが、母親が一緒に登校した
 8歳の時から幻聴幻覚があり、不登校。統合失調症として投薬を受けていた。
一向に良くならないので、当院のカウンセリングを母親が受けるようになった
女の子は雨戸を閉め切った部屋で数年間過ごした後、自分から買い物に出かけるようになった
 現在精神症状は全くなく、児童館で週二回アルバイトをしている

症例 3
 小学3年生より不登校気味。親が無理矢理に登校させる
 小学4年生ぐらいから不登校になり、家庭内で暴れて物を壊すし、母親に暴力をふるう。精神科で統合失調症として投薬。母親が当院のカウンセリングを受け始めた
父親が鬱病として薬を服用。母親が暴力に耐えきれなくて、入院させると大人しくなるが、退院を強く希望
 退院させると親に暴力をふるったり、ネットでとても高価な物を購入する
母親が当院のカウンセリングを受けたが、女の子の暴力と高価な物の買い物に耐えきれなくて当人の希望で入院させてたが、すぐに退院を希望。それを認めないと暴れたので特別室に収容されて、強制的に薬を服用させられて、無気力状態である。親は薬で治るのを待っている

症例 4
 中学3年生より不登校になり家庭内で荒れて、病因からも投薬を受けるが服用しなかった
母親が当院のカウンセリングを受けて、学校という刺激を極力取り除くことで、男の子が荒れなくなった。落ち着いて買い物にも出かける様になった
 昼夜逆転、引きこもり、ネットばかりに時間を過ごすのを、家庭の問題を抱えている母親は体調を崩して、どうしても受け入れられないので、男の子は母親を拒否して、自分の部屋に引きこもるようになった
 現在表情は暗く、母親や家族を無視、食欲もなく、外出することもなくなった。家の窓を開けるのにも不安を示し、自分の部屋の窓には黒い紙を貼っている


第十三章 精神疾患の診断基準について

 精神疾患の診断基準には客観的に測定可能なものはありません、精神科領域には精神疾患の検査法や診断基準があります。精神疾患の検査法を行っても、その検査結果の判断は、検査をした医師の主観的な判断です。そのためにトレーニングを積んだ医師にしか精神疾.患を診断することが許されていません。そのトレーニングをを積んだ医師の判断ですら、大きな個人差があることは、いろいろな事件でその犯人に精神診断を行った場合からも分かると思います、そればかりでなく、一度精神疾患だと診断されると、その精神疾患が一生その人につきまといます。いくら精神症状がなくなってもそれは治ったとは理解されません。単に症状がなくなった(緩解した)とだけ理解されます、
 現在精神疾患を診断する際に使われる診断基準はいくつかあります。そのうちで一番よく使われているアメリカ精神医学会で編集された診断基準、DSMーW(Diagnostic and stastical Manual of Mental disorders Fourth Edition)についてその概略を説明しておきます。
 その第一は、身体に対しての精神(精神ー身体二分主義)です。つまり脳に基づいて疾患を考えるのではなくて、精神世界を想定して、その想定した精神世界の中で病気を考えています。ですから科学的に客観的な根拠は必要ないことになっています、。
 その二は、精神疾患を示す概念ば等価ではないという考え方です。つまり診断する医師により病気の概念は異なっていて良い、病気に対する見方や考え方は医師によって異なっていて良いという意味です。同一の病名について医者によりその病態や考え方は違っていても良いし、同一の患者についてその診断は医者によって異なっていて良いという意味です。
 その三は、精神疾患とは臨床的意味のある行動または心理的症候群または様式(障害と表現されていて、病気と表現されていない)であって、それがある人に起こり、心痛または能力低下(機能不全)を伴っているか、その危険性が増大している場合をいいます。この症候群または様式は、文化的に容認される反応であってはならない(日常生活に不都合なだけで精神疾患とはいわない)となっています。つまり精神疾患とは、病因が何であろうと、患者が訴える症状お組み合わせで診断されます。またある人の訴える症状が精神疾患だと判断されても、その人が属する文化で容認されていれば精神疾患とは診断されないのです。
 その四は、診断は、適切な臨床研修と経験を持つ人によって行われるのであって、適切な臨床研修を経験していない医師が診断してはいけないとなっています。適切な臨床研修とは精神医学会が容認する病院で該当する医師が精神科医として診断治療をした場合をいいます。現在の精神科が持つ概念を変えてはならないし、その概念を受け継いだ医師により診断されるのであり、その他の医師には、例えそれが科学的に正しくても、診断してはならないのです。
 その五は、精神疾患の患者と考えられる人が症状や不都合を訴えなくても、その精神疾患と考えられる人の反応や行動が他人にとって不都合な場合には、精神疾患として診断してよいとなっています。例えば子どもが特に症状を訴えなくても、その親にとってその子どもの反応や行動が不都合なときには、医者はその子どもを精神疾患だと診断してよいという意味です。親の都合で当人の医師を無視して良いという意味です。


第十四章 薬について

 心の治療に使われる薬の内で科学的にはっきりと作用機序が解明されている薬物はベンゾジアゾパム系とSSRIです。そっらの薬でさえ、その薬が本当にわかっている機能だけで作用をしているかどうかの検討は全くなされていません。現実に投与してみると、本来考えられている効用以外の作用があります。心についても副作用が非常に多い事実があります。また理由は分かりませんが、本来作用があると認められている薬物でさえ、その効果を感じられない場合も多くあります。医師として本当に薬胃効果があるのか疑問を持つ場合も多いです。
 薬の効果とは、二重盲検法(double blind test)で統計的に処理されて判断されています。対象疾患の患者にも、治療を行う医師にも分からないように、二つのグループに分けて、一方のグループには薬を投与し、他方のグループには偽薬を投与して、その臨床効果を第三者(この検査に関わらなかった医師)が判定して統計的に有意性があるかどうかを判断します。
 こころに関する対象疾患の選別には客観的な基準を決めることができません。医師の主観で患者と判断された人についての二重盲検法ですから、統計処理をする母集団が客観的でありません。医者が病気だと判断しても病気でなくて症状を出している人も多いです。ですから選ばれた母集団自体が統計処理の対象とはなりません。また、薬の効果の判断についても、客観的な尺度はありません。あくまでも治療を行っている医師の主観的な判断です。医師によってその判断は大きく異なりますから、薬の効果についても統計処理の対象とはなりません。つまり現在の心に関する薬については、医師が効果があると信じているから使われていると表現しても大きな間違いではないです。
 臨床で薬が効果的かどうかの判断は、実際に投与した医者が判断する場合と、投与された患者が判断する場合があります。薬が投与された状況は一様ではありません。薬に明記された薬効とは異なった効果を期待している場合もあります。ただ単純にある目的を持って薬を投与してみたら効果があったと投与した医師が主観的に判断したときに、その目的についてその薬は効果的だったと判断されます。またその薬を投与された患者がその薬には効果があったと判断したときにも、その薬には効果があったと判断されます。その代表例が偽薬です。
 薬には目的の脳への効果の他に、人が気づいていない脳への効果があります。その薬が持つ副作用です。現在の医学は薬の効果ばかり注目していて、その副作用に関しては、無視する傾向にあります。副作用が無視できないときには、他の薬でその副作用を消失してしまおうとしています。その副作用を消す薬の副作用をまた他の薬で消そうとするために、多くの目的とは直接関係ない薬を飲まされることになります。
 子どもの場合、心の問題に薬を使って良いかどうかの問題点があります。子どもは基本的に薬による治療を求めていません。子どもは自分の辛さを両親に理解して守って欲しいと潜在意識で願っています。そのような子どもの潜在意識からの願いに対して、親が子どもを病院に連れて行き、薬を飲ませようとすることは、子どもはその潜在意識で親から否定されていると反応します。それは病気の症状をより強くしています。子どもは周囲から責められるから、仕方なく薬を飲むという治療を受けています。つまり薬で症状が軽くなる場合もあるでしょうが、薬を使うことでますます症状を強化して固定してしまっているという経験例が多いです。


第十五章 既に治療を受けている子ども

 既に発達障害と診断されて治療を受けている子どもでは、親が子どもに治療を受けさせなければよいです。子どもが学校などの社会に適応できないけれど、適応できるようになるまで家で成長を待ってあげればよいです。子どもが希望すれば子どもを不登校にして、家の中を楽しくして、子どもが安心して成長できる場所を作ってあげればよいです。親は子どもが出す希望を丁寧に聞いて、可能な限りその要求を実現していけばよいです。
 その際に、待つだけでよいと知識で分かっていても、実際に待つ親は大変に辛いです。待つだけで何もしないことの親の不安、周りから何もしないことについて責められる親の不安、学校などに関わらないと子どもの能力や心の発達が得られないのではないかという不安を、親は乗り越える必要があります。必ず自分の子どもは社会に適応できるようになる、元気な大人として社会に出られると信じきる必要があります。信じて待っていると、子どもの方で変化してきます。子どもの心の成長を感じられるようになってきます。そうなると親は安心して、子どもの心の成長を待てるようになります。
 既に精神疾患と診断されて治療を受けている子どもでは、親が子どもの病気を信じないけれど、子どもが治療を受けている現実を認める必要があります。そのために、親は子どもに病院へ行くようにとか、薬を飲むようにとか、言ってはいけません。子どもが飲みたいように薬を飲ませて、子どもが病院へ行きたいように行かせる必要があります。もし親が子どもが希望する薬を飲ませないなら、子どもが希望する病院へ行かせないなら、その時まで薬で治ると、病院で治して貰えると教えられ、信じ込んでいる子どもの心を否定することになります。子どもの症状を含めた状態が悪くなります。子どもが納得して薬や病院を辞めるようにさせてあげる必要があります。
 医者の中には「薬を勝手に止めるとかえって症状が悪化するから薬を勝手に止めてはいけない」という医者がいるようです。確かに薬で症状が軽くなっている可能性が高いですから、薬を止めると薬を飲まなかったときの状態に戻ることは事実です。だからといって止めてはいけないという理由にはなりません。親の対応が悪かったために子どもが苦しんで病気の症状を出していると気付いて、親が子どもを守る対応を始めるだけで子どもの心は楽になってきます。症状が軽くなってきます。子どもの方で薬を飲まなくなってしまいます。子どもの方で病院に行きたがらなくなります。しかし年長の子ども(思春期以後)では、子どもが強く自己否定をしていて、その自己否定をしている事実を、直ぐに変えられません。
 年長の子どもでは、子どもが自己否定を止めて、自己肯定感を高める努力を、親は必要とします。これは大変に難しい、根気がいる、時間がかかる作業です。「辛いだろうけれど今の子どもの状態でよいと親は思っている」ことを、子どもに根気よく伝え続ける必要があります。その親の言葉を証明するための行動を親は取る必要があります。
 年長の子どもでは、既に何年間も病気だと信じ込んでいます。その様な子どもに、ありのままの自分の姿でよい、症状を出していても良い、辛くてもそれでよいと言われても、なかなか納得できません。その子どもなりに何か楽しみを見つけて、それに没頭できたら、それだけで病気の症状が取れてくるのですが、その子どもなりの楽しみがないから、そして親を信頼できなくなってきているから、病気の症状を出すようになって来ています。病気として治療を受けざるを得なくなっています。


第十六章 子どもには心の病はない

 子どもは持って生まれた能力を精一杯用いて、一生懸命生きて、成長をしています。その子どもが持っている能力で、子どもの周囲の社会と一生懸命関わって(周囲の大人にはその様に見えないかも知れませんが)、それが周囲の大人達の希望に沿わなくても、それは仕方がないです。成長の過程で学習した知識や反応の仕方から、子どもの周囲の社会と一生懸命関わって(周囲の大人にはその様に見えないかも知れませんが)、それが周囲の大人達の希望に沿わなくても、それは仕方がないです。
 子どもが子どもの周囲の社会と関わりにくい時には、親に守られて、子どもの周囲の社会から責められないで、その子どもなりに成長して、社会に順応していけばよいです。目先の病的な心の症状にとらわれないで成長を続け、最終的に心が元気な大人になって、社会に出て行けば良いですから。またそれが可能なことは、私の多くの経験かが物語っています。脳科学的にも説明できます。
 子どもが病的な心の症状を出すのは、子どもが辛い状態にあって、その辛さから逃げ出せないから、その辛さから守られていないから、その辛くする物へ反応しているからです。その辛くする物から子どもが守られたなら、子どもは病的な心の症状を出さなくなります。
 今の医学常識に反しますが、子どもには心の病はありません。子どもに心の病があると信じている大人が、病的な心の症状を出す子どもを病気と決めつけて、薬を投与したり、治療と称する療法を行い、子どもの本心を無視し続けて、子どもをますます辛くしています。その結果として症状が軽くなっても、それは一時的で、その後薬や療法ではどうにもできない、辛い病的な症状に悩まされ続けます。
 親にとって、病的な心の症状を出す子どもに、常識に反した対応を取る不安はとても大きいと思います。常識で固まった社会からも大きな圧力が加わり、その圧力に耐えるのも難しいです。けれど大切なのは子どもの心です。子どもの人生です。目先にとらわれないで、子どもの本心に沿った対応(子どもが病的な心の症状を出さないような対応)を続けていけば、後は子ども自身が解決してくれます。それが一番早くて確実な方法です。
 親が気をつけなければならないことがあります。社会常識では、社会とうまくつきあえない子どもを、幼稚園や学校に行かさないで、家の中に守っていると、それは治療をさせないという、幼稚園や学校に行かさないという、親の育児放棄として虐待と理解されやすいです。病的な心の症状を出している子どもを病院に連れて行かないで、家の中で守っていると、これも養育放棄として虐待と理解される場合があります。その様な社会の誤解から子どもを守る難しさが親にあります。
 親が子どもの心を守りきれないと、子どもはその辛さから病的な心の症状を出し続けます。子どもの心に辛さが続いていると、その辛さから分泌されたストレスホルモンや脳神経活動から、脳内に変化を生じてきます。病的な心の症状を出しやすい脳に変化をして、心が元気になるのが大変に難しくなります。子どもを守ろうとする対応にも病的な心の症状が無くなりにくくなりますし、薬や療法にも症状が軽くなりにくくなります。良くなったり悪くなったりの波があるでしょうが、心の病を持った人として一生を過ごさなくてはならなくなります。


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