小、中学校の教師の方々へ

「はじめに」

 ある講演の後、小、中学校の教師の方々と行った懇談会で出た話をまとめてみました。説明が長くなるところは、「辛い子どもの心の本」(赤沼侃史著白日社)を見て頂くようにしてあります。
 心が元気でどんどん能力を伸ばしている子どもについての話なら、教師の方々は理解しやすいでしょうから、積極的に読んで頂けるでしょう。心が元気な子ども達の心を育て教育するについての話(「頭がよい子に育つ」赤沼侃史著風詠社)は他の人たちに任せます。ここでは心が辛い子どもの心を育てる話、教育する話を子どもの立場から述べています。
 教師の方々にとても辛いことが書かれています。教師の方々を責めている、否定していると感じられるかも知れません。しかし教師の方々は子どもを教育するプロです。子どもを苦しめて子どもの将来を失わせることは許されません。どうして学校で子ども達が苦しみ出すのか、どうして学校で子ども達が苦しんでいるのかを理解して頂きたいと思います。教師の方々が大学で習われたことから、先輩達から教わったことから、御自分の経験からだけでなく、子どもの立場から、心が辛い子どもの心を理解しようとなさって下さいますようにお願い致します。
 ここの話は教師の方々が持っていらっしゃいます知識とは、社会常識とは、酷くかけ離れています。教師の方々には受け入れられない話もあると思います。しかし心が辛い子どもの心を代弁しているのです。


「今の教育全般をどう思われていますか?」

 教師が教壇に立たれて、向かい合っている生徒達は子どもです。教師の方々は子どもたちの知識を増やして、能力を伸ばして、進級させて、進学させて、社会に送り出したいと願われています。子どもを植物に例えるなら、水をやり、肥料を与えて、添え木をして、良い花を咲かせ、結実させたいと願われています。しかし子どもは人間の子どもです。苗木や動物の子どもとは違います。人間特有の心を持っています。現実の子どもは、主として知識を増やすために学校に行っています。教師も言葉では子ども達の心を育てると言いながら、現実の教師は授業で、子ども達に主として知識面を増やそうとしています。それ以外の心について、自分たちの学校で問題を起こさなければそれで良い、家庭や次の学校に任せるという形になっています。
 日本でのこのような学校のあり方は一世紀以前から行われ続けて、今も大きな変化がありません。子ども達を取り巻く社会的な変化、物質的な変化から、子ども達は大きく変わってきています。今の学校のあり方が子ども達の心に適さなくなっています。昔の子ども達では考えられなかったようなことが、今の子ども達に生じています。その辺りのことを詳しく述べてみたいと思いますし、教師の方々はその事実を配慮する必要があります。
 昔、人々がまだ貧しかった頃の日本では、子どもたちの心はとても元気で、物質的に豊かになる強い希望を持っていました。ご褒美にあめ玉一つをもらえるだけでも、子ども達は大きな喜びを感じられました。大人の希望する形に子どもは率先して自分を変え(挑戦という意味でよい子を演じる)られました。つまり教育が目指す目的に子ども達の方から合わせられたのです。その様子は、現在でも発展途上国の子どもに見られます。
 日本が未だ貧しかった頃、子ども達は学校に通い、知識を増やすことで社会的地位を得られ、経済的に、物質的に、豊かになれました。ですから教師は子ども達にとって特別な存在でした。欲しいものを得るために、子ども達は辛い(友達と過ごす学校生活は楽しいのです。子ども自身が知りたい知識を教えてもらえるのもうれしいのです。しかし学校という組織を維持するために学校からの要求が子ども自身の内発的な欲求を無視していて辛いのです。それは学校が整備されればされるほど、学校からの要求が多くなりました。子ども達の間で競争が激化していきました。)学校生活に耐えられました。耐えてその子どもなりに物質的に豊かな大人になったとき、辛かった学校生活は思い出話になってしまいます。物質的に豊かになった時、教師は恩師と感じられたのです。教師も自立した大人になった教え子を見ると、自分の存在に満足できました。
 現在の日本は物質的に豊かです。昔の子ども達が欲しがったの物は、現在当たり前の物として子ども達に与えられています。今の子ども達は、普段から与えられている物がなくなると、とても辛くなります。有って当たり前だから、子どもは無意識にそのものに依存をしています。その依存をしている物が突然無くなることに納得できないと、子どもは欲求不満になってしまいます。罰として、または事件などで、今まで与えられていた物が与えられなくなる場合です。現在の子ども達がストレスに弱い原因は、この物質的な豊かさから生じています。
 物質的に豊かな現在の日本で、物質的に貧しいと心が強い子どもになれるかというとそうでもないです。他の多くの子ども達が当たり前の物として持っているのを、自分だけが持っていないし、持っていないことに納得(納得できれば、かえってそれを得ようとするバネになります)できないし、持っていないがとても欲しい。そのような場合にも欲求不満を生じて、子どもはとても辛くなります。欲求不満から問題行動を起こしてしまいます。今の日本で物質的に貧しくて子どもが納得していない場合は、子どもの心についてとても危険な状態なのです。
 現在の日本で、物質的に豊かである事実は子ども達にとって好ましい場合と、好ましくない場合があります。子ども達が欲しがる物を与えないのは好ましくない場合が多いです。勿論物質的に豊かなことは、子どもが大人になって、より豊かに生きるのにとても大切です。子どもにとってとてもありがたいことです。けれどちょっと間違えただけで、子どもはとても辛い状態になり、その辛さから回復できなくて、一生辛い人生を送ってしまう可能性を秘めています。物質的に貧しかった時代の子どもには、心は元気でも身体的な危険が多く潜んでいましたが、物質的に豊かになると、身体的な危険が減少しましたが、心はとても危険に晒されているのです。
 今の子ども達は敢えて物質的な豊かさを求めていませんから、物質的な豊かさを求めるための学習を求めなくなっています。自分から進んで学習をする意欲がありません。学習する意欲がないのに、したくない学習を要求されるので子ども達はとても辛いです。したくない学習のために学校に行かされるのがとても負担になってきている子どもが多くなっています。学習について無気力な子どもが多くなっています。学習以外の学校生活は楽しいのですが。


「私たちが子ども時代の子ども達と、今の子ども達とまるで人種が違うように感じます。私たちが子ども時代を思い出して生徒達に行っても、生徒達に通じなくて戸惑います。どのように理解すればよいでしょうか?」

 大人が子ども時代に感じていたことと、大人になって子ども時代を思い出して感じることと、事柄によっては大きな違いがあります。子ども時代には意識に上ったことや潜在意識で感じたことによって反応し行動していました。大人のように何か理由をつけてするような行動の仕方はありません。子ども時代のことを大人になって思い出したとき、意識に上って記憶に残ったことの一部を思い出して、当時の行動にそのときまでに身につけた知識から理由をつけて考えているからです。つまり大人になって思い出したことは、子どもの時に感じたことと大きく異なっていること考えた方が良いです。
 子どもは大人とは違います。大人はその人なりに子どもの概念を持っています。大人と子どもの間に明確な線引きができないことも大人は知っています。ある年齢までの子どもでは、体は大人を未熟にしたものです。思春期になると大人の体とほぼ同じになります。ところが子どもの心は大人と違います。子どもの心は大人の心を未熟にしたところと、まるで大人のような所があることに、気付く人が多いと思います。大人にはあるが、子どもにはない心の部分が有ることに気付いている人は少ないです。子どもの心は未熟だと考えられたら大きな間違いになります。子どもに知識を教え込めば子どもの心が大人の心になれると思われたら、大きな間違いになります。子どもに教え込まれた知識は、当面のアチューブメントテストには役立ちますが、子どもの心という意味では役立ちません。子どもに教え込まれた知識が心として役立つのは、子どもの心が大人の心になってからです。
子どもの心を大人が理解していなくても、心が元気な子どもは、子どもの方で大人に合わせてくれます。心が元気なよい子を演じてくれます。よい子を演じて自分の能力を伸ばそうとします。心が辛くても、未だよい子を演じる余裕がある子どももよい子を演じています。この場合のよい子を演じる目的は、子どもが受ける新たな辛さを回避するためです。これらのよい子を演じている子どもがよい子を演じきれなくなったとき、大人から見て問題行動を起こしたり、病気の症状を出すようになります。
 教師の方々は、子どもがよい子を演じている姿を、子どもの本当の姿だと理解しがちです。心が元気なよい子を演じている場合には、教師の方々が間違った理解をしても問題を生じる事はないです。時には子ども達が自分の能力を伸ばす動機にもなる場合があります。心が辛くてよい子を演じている場合、無理をしてよい子を演じていますから、どこかでその無理を解消する必要があります。いじめや万引きなどの問題行動をしてしまう場合があります。
 子どもが問題行動を起こしたり、病気の症状を出しているとき、子どもに問題があるから、その問題点を解決しなければならないと考えがちです。それは既に心が辛くて問題行動を起こしたり、病気の症状を出している子どもをもっと辛くします。ますます問題行動を起こしたり、病気の症状を出してしまいます。
 大昔、人間が一カ所に定住して社会活動をするまでは、自然の中で生き抜くことが大切でしたから、体をたくみに動かす能力や情動が重要な能力でした。人間が定住して文明を築くようになりますと、知識に基づいて行動すること(知的行動)が人間の重要な能力になっています。現在の学校教育の目的は、主としてこの点に有ります。しかし最近、知識や知的行動だけでは苦しむ人間が増えてきています。人間の全ての活動の根底にある、情動や情動行動の大切さに目を向けだしています。多くの社会常識は、知識や知的行動について、経験的にできあがっています。大人の心に当てはめられます。子どもでは情動と情動行動が大きな意味を持っていますから、社会常識が子どもの心に当てはまらない場合が多くあります。社会常識が子育てに当てはまらない場合があります。
  子どもについての考え方は、参考として「辛い子どもの心の本」第二章大人と違う子どもを参照下さい。


 「私は教師を二十年以上しています。生徒が学校に来られなくなると、家庭を訪問して一緒に遊んであげると、生徒はとても元気に遊び、クラスの仲間も待っていることを伝えて、明日は必ず学校に来ようねと約束しますが、翌日、生徒は学校に来てくれません。病気でもないですから、怠けているとしか考えられません。」

 教師の立場から子どもを見たら、子どもが学校に来ないというのが不登校です。しかしそれは子どもの姿から見た不登校です。子どもの心から見た不登校とは、その原因はなんであれ、子どもが学校を見たり意識をすると、子どもの体の中から言葉で表現できない辛さが湧き上がってきて、学校に行けなくなる状態です。ですから、子どもが学校を見たり意識をしないと、不登校の子どもは普通の子どもと同じです。普通の子どもと同じように元気で遊べます。しかし翌日学校を意識すると、体の中から辛さが湧き上がってきて、学校へ行けなくなります。決して学校を怠けようとしているのではありません。
 不登校に関しては「辛い子どもの心の本」第三章子どもの辛さ、恐怖の学習、および第四章弱者の論理を参考になさって下さい。


「子ども達が学校を休み出すと、休み癖がつくのではないですか?」

 子どもには大人にない、子ども特有の本能があります。その子どもの本能の内で、子どもは与えられた環境に順応しようとする、自然に湧き出すエネルギーが大きい、新しいもの(刺激)を求める、という性格をどの子供も持っています。子どもの本能に関しては「辛い子どもの心の本」第二章大人と違う子どもを参照なさって下さい。
 学校は子どものこれらの本能を満たすのに適しています。子どもにとって学校は楽しいところなのです。子どもにとって辛いものがない限り、子どもは喜んで学校に行きます。その子どもが学校を休むときには、子どもの体に病気があって学校に行けない場合か、学校にその子どもにとって何か辛いものがあるときです。
 学校は教師の職場です。教師は子ども達のために一生懸命働いています。教師から見たら、学校に子ども達が来られないような問題があるとは考えられません。けれど子どもによっては学校に行かれない辛いものが学校にあるのです。その辛いものに教師が気づかないだけです。
 学校が辛いと言って休む子どもには、学校に教師が気づかない、その子ども特有の辛いものがあります。その辛いものが無くならない限り、子どもは学校に行こうとしません。その学校に行こうとしない子どもの姿を、教師は休み癖と表現しているのです。


「不登校の子どもをクラスから出さないためには、どのようなことを注意したら良いでしょうか?」

 子どもが学校に登校している姿が同じに見えても、学校が楽しくて来ている子どもと、学校が辛いけれど我慢をしてきている子どもと、子どもの心には大きく分けて二通りがあります。学校が楽しい子どもは教師の方々がなさっている今までの対応で大丈夫です。学校が辛い子どもは、学校で受けたいじめなどの問題行動や、何かちょっとした嫌なことで、学校に来られなくなります。学校が楽しいのか、学校が辛いのか(学校が辛いのに、楽しそうに振る舞っている子ども、すなわち良い子を演じている子どもにも注意して下さい。大人は子どもが「学校が楽しい」という言葉をそのまま鵜呑みにします。多くの子どもは「学校が楽しいか?」と質問されたときに、「学校が楽しい」と答えるものだと言う知識を持っています。その知識に基づいて子ども達は答えています。子どもの本心からの言葉でないのです。子どもの言葉をそのまま信じたら、間違いになる場合があります。)を見分けるために、子どもの心を子どもの立場から理解する必要があります。学校が辛い子どもに関しては、「辛い子どもの心の本」第四章弱者の論理を参考になさって下さい。


「学校が楽しいと言って来ている子どもが突然不登校になるのはなぜですか?」

 今の学校に合っている子どもは元気で学校に行き、教師の指導で勉強をし、楽しく遊んでいます。何か困難なことがあっても、それに挑戦をして克服しようとします。子どもが困難に挑戦して乗り越えようとする姿を、心が元気な子どもが良い子を演じていると表現します。
 今の学校に合わない子どもは、学校が辛くても、辛くないように振る舞います。辛くなるものを回避しようとして、回避行動として良い子を演じています。心が辛い子どもの良い子を演じています。良い子を演じている内に辛くなる原因が無くなれば、子どもは普通の元気な子どもに戻れます。しかしいつまで経っても辛くなる原因が無くならないと、子どもによっては良い子を演じきれなくなって、不登校になったり、虐めや暴れるなどの問題行動をしたり、病気の症状を出すようになります。
 教師は子どもが良い子を演じている内に、子どもを辛くする事柄を見つけて、それから子どもを守ると、子どもは不登校になったり、問題行動をしたりするようにはなりません。子どもが不登校になってからでは、不登校の子どもは教師に反応してとても辛くなりますから、教師が子どもの不登校を解決できなくなっています。子どもが良い子を演じることに関しては、「辛い子どもの心の本」第三章子どもの辛さ、恐怖の学習をごらんになって下さい。


「虐めや暴れるなどの、子どもの問題行動は、子どもに問題があるのではないのでしょうか?」

 子どもは何かで辛くなると、その辛くなる何かから逃げようとします。その辛くなる何かから逃げられないときには、子どもは良い子を演じます。良い子を演じきれなくなったら、子どもは虐めや暴れるなどの問題行動をします。子どもの中には良い子を演じながら、一方でいじめや問題行動をする場合もあります。
 子どもが虐めや万引きなどの問題行動をしたなら、それは子どもが何かで辛くなっているからであり、その辛さがなかったら、子どもは虐めや万引きなどの問題行動をしないことを、大人は知っておく必要があります。子どもの虐めや問題行動に関して、「辛い子どもの心の本」第五章子どものいじめについて、第六章子どもの問題行動を参照して下さい。


「良い子を演じるとはどういう意味ですか?」

 良い子を演じるとは、子どもが親や大人が希望するように行動をする事(例えば勉強をとてもよくする、教室内で模範的な行動をするなど)を言います。子どもの本心からの行動が親や大人の希望する行動と一致している場合には良い子を演じているとは言わないことにします。このような子どもは本質的に良い子なのですから。
 子どもの本心と違って、子どもが無理をして親や大人の希望するような行動をする場合を良い子を演じると表現します。多くの心が元気な子どもは、良い子を演じる事で親が喜ぶという子どもにとっての喜びを代償に、良い子を演じ続けます。良い子を演じる辛さを親が喜ぶ(決して教師が喜ぶからでない。但し子どもは教師の後ろに母親を見ているから、教師が喜ぶとそれが代償になる)という代償で解消できるからです。良い子を演じ続けて、子どもは自分の能力を伸ばしていきます。これが学校教育に望ましい姿です。
 心が辛い子どもも、未だ良い子を演じる余裕があるときに良い子を演じます。辛いところに無理をして良い子を演じますから、ますます辛くなっていきます。そして辛さに耐えきれなくなったときに、子どもは教室内で、学校内で、学校外で、親や大人が嫌がるような行動をしてしまいます。問題行動の例としていじめや授業妨害、万引き、非行、病的な症状、自殺などがあげられます。教師の方々が「あんなに良い子なのに何故?」と思われる子ども達です。
 心が元気な子どもが良い子を演じる姿と、心が辛い子どもが良い子を演じる姿と、区別が大変に難しいです。子どもが良い子過ぎると感じるとき、心が辛くて良い子を演じている姿と考えた方がよいです。子どもが陰で何か問題行動をしているという噂があるときも、心が辛くて良い子を演じていると考えた方がよいです。ごくわずかな例外(母親が子どもを責めている時)を除いて、母親の前の子どもの姿は良い子を演じていません。その母親の前の子どもの姿と、良い子を演じている姿と比較して、大きな違いがあるときには、心が辛くて良い子を演じていると考えた方がよいです。
 現在の子どもは学校で勉学に励むように要求されています。子どももそれを知っていますから、教師の前では心が元気な子どもも、心が辛い子どもも良い子を演じてしまいます。そして良い子を演じられない子どもは教師が嫌がるような問題行動を起こしてしまいます。教師の方々は自分たちの目の前の子ども達の姿を、子ども達の本当の姿と考えないで、その子どもなりに良い子を演じている姿と考える必要があります。


「子どもが良い子を演じているかどうかを見極めるにはどうすれば良いですか?」

 子どもの本当の姿を知るには、教師の居ないところの子どもの姿を見る必要があります。休み時間の子どもの姿が子どもの本心を反映しています。しかし休み時間でも、教師が子ども達に寄っていくと、子どもは良い子を演じてしまって、子どもの本当の姿が分からなくなります。教師は遠くからそれとなく子どもを観察する必要があります。
 教師の前でも、子どもの本心はとっさの表情や行動に表れます。そのとっさの表情や行動を見落として、子どもを判断しようとしても、子どもが良い子を演じているのかどうか分からなくなります。子どもは特別の場合を除いて、母親の前では本心から反応し行動します。母親の前の子どもの姿が、子どもの本心からの姿です。しかし多くの母親は教師が判断した子どもの姿を子どもの本当の姿だと理解して、子どもの本心に気付かないことも多いです。


「子どもを褒めて育てると良い理由は何ですか?」

 子どもは子どもが持つ本能から母親が希望する姿に育ってくれます。子どもに能率良く能力を伸ばしたいとき、子どもが経験してない領域の能力を伸ばしたいとき、母親が子どもにご褒美をあげたり、喜んであげると、子どもは辛い学習に耐えて、能力を伸ばしてくれます。但しご褒美には慣れがありますから、同じご褒美をあげても子どもの方でご褒美と感じなくなります。母親が喜んであげるのが、子どもを学習させるのにとても良い方法です。教師が喜んであげると、子どもは教師の後ろに自分の母親を見ていますから、それも効果的です。
 子どもを叱ると子どもは大人の希望する行動をしますが、それは子どもが辛さを回避するために良い子を演じただけであり、辛さが無くなったときには大人の希望する行動をしないばかりか、時には大人の希望する行動とは逆な行動をしてしまう場合もあります。子どもを叱る事で大人の希望する行動を効果的にさせられますが、それは一時的でその後では逆効果になっている事を教師の方々はよく心にとめておいて下さい。
 褒めると喜ぶとよく似ていますが、違いがあります。褒めるとは褒める大人の心はどうであれ、褒められた子どもを嬉しくさせようとする表現の仕方です。必ずしも子どもが嬉しくなるとは限りません。母親が子どもを褒めようとしなくても、母親が喜ぶだけで子どもは嬉しくなります。褒められたのと同じ効果があります。何よりも効果的なご褒美であり、又尽きる事もなく、慣れもないご褒美になります。


「子どもに勉強をする習慣をつけるにはどうすれば良いですか?」

 子どもが勉強をしたらご褒美をあげるという対応を繰り返せばよいです。ご褒美として母親の喜びが一番効果的です。教師の喜びも、子どもは教師の後ろに母親の姿を見ていますから、教師が喜んであげるのも効果的です。
 多くの親や大人は、子どもが勉強をしていない姿を叱って勉強をする習慣をつけようとしています。叱ると子どもは辛さを回避するために勉強をしますが、見た目の勉強をしただけで、勉強が身に付いていません。辛さが無くなったら勉強をしようとしません。勉強の習慣が身に付きません。


「問題児が居るクラスの運営をうまく行うには、どうすれば良いですか?」

 教師はクラスの子どもを同じように動かそうとします。しかし子どもには多様性があります。教師の希望通りに子どもは動いてくれません。子ども一人一人の多様性を配慮してクラス運営を行うには、クラス内の生徒数を少なくする必要があります。教師一人あたりが担当する子どもの数を少なくする必要があります。その意味で複数担任は良いです。
 日本では、周囲の大人達が見て授業がうまくいっているのがように見える場合、教師の威圧感から、子ども達が無理をして教師に従っている場合をしばしば経験します。教師の威圧感で子どもを従わせるのではなくて、子どもの方から喜んで教師に従おうとさせる必要があります。子どもではそれが可能です。教師が個々の子どもが持つ喜びを大切にすると可能になります。


「学級崩壊を起こしています。どうすれば良いですか?」

 学級崩壊を起こしていて、教師の授業がうまくいかない場合、教師は授業を妨害する子どもをどうにかしようとします。大人の威圧感を与えて、子どもを従わせようとします。子どもを叱ることで、教師に従わせようとした場合、教師が居なくなったとき、子どもは教師がするように指導したことをしなくなり、してはいけないと叱られたことを、輪を掛けてするようになります。教師としては、子どものために必要なことをしたと理解されますが、子どもから言うなら、ますます子どもの問題行動を悪化させています。


「子どもを厳しく躾けることは、子どものために必要なことです」

 社会常識として、問題行動をする子どもを厳しく躾けることは必要なことだと理解されています。それは大人の前で、子どもが問題行動をしなくなると言う意味では、効果的です。大人は子どものためだと考えています。子どもへの愛の鞭だと表現します。しかし大人がいなくなると、子どもはますます問題行動をしてしまいます。そこで大人は新たに厳しく子どもを叱ります。子どもの性格を良くするどころか、かえって悪化させていきます。
 子どもを厳しく叱ることで躾けようとすると、子どもはその辛さを回避しようとして問題行動を強めるだけでなく、恐怖の条件刺激を学習もしてしまいます。恐怖の条件刺激の学習に関しては辛い子どもの心の本第三章子どもの辛さ、恐怖の学習を参照して下さい。子どもへの愛の鞭は大人の一方的な思いであり、子どもには愛の鞭は存在しません。但し、子どもが大人になったとき、自分が厳しく躾けられたことを、愛の鞭だったと感じることはあります。子どもを導く方法は、子どもが喜んで教師の要求に応えたいと思えるようにする必要があります。詳しくは「辛い子どもの心の本」第三章子どもの辛さ、恐怖の学習および第四章弱者の論理を参考になさって下さい。


「親は子どもを学校生活について行けるように育てる必要があるのではないですか?」

 子どもはその子どもなりに素直に育ってきています。その子どもが育ってきた環境は全て異なるので、子どもの性格に多様性が有るのは仕方がないです。またそれが人間として必要なことです。しかし教師が授業を行うとき、子どもの多様性が授業の進行を妨げます。教師は授業を行うことに主眼を置いて、授業がうまくいくかどうかを重要視します。それには多様性がある子どもは不都合です。そこで教師は授業に合わない子どもが悪い、その子どもを育てた親が悪いと考えます。子ども達は製品を作る原料ではないです。子ども達の性格に多様性があるのは当たり前。多様性のある子どもをどうするのか、多様性がある子どもをその子どもの心に沿って育てていくのが、教師としてとして大切能力です。
 日本が未だ貧しかった頃の教育は、教師が子どもの多様性を無視して教育をしても良かったのです。当時の子ども達は多様性を無視した教育に耐えられましたし、耐えられなくて授業についていけなくても、子どもはその子どもなりに大人になって生きていけましたから。しかし今の子ども達には、学校に行く選択しか許されていないのです。学校が辛くても、体だけは学校に運ばなければならないのです。
 今後の学校教育は、マスエデュケーションからインディビデュアルエデュケーションに発想の転換が必要です。そのためにはクラスの人数を減らす、複数担任、点数から子どもを評価するのではなくて、子どもの意欲に注目するような学校の変化が必要です。


「子どもが学校に行かないと、知識が身に付かないし、社会に通用しない大人になってしまう。」

 不登校の子どもでも、心が元気になると、その子どもなりの生き方を見つけようとします。そのために自分から勉強をするために学校に戻る子どもが出てきます。自分の生き方を実現するために、自分から進んで関係する人たちと関わろうとしますから、自発的に学校と関わろうとしますし、社会で通用する大人になって、社会へ出て行きます。学校に行ったこどもよりは遅れる場合が多いですが、元気な社会人になり、社会の中で活動をするようになります。不登校を経験した子どもは、その能力が不登校をしない子どもと、その能力が変わりないか、それ以上の能力を持っていることが多いです。
 現実に教師の方々が見聞きする不登校の子ども達は、心が元気にならない内に学校に戻させられたり、社会に押し出された子ども達です。それは子ども達をますます辛くし、心の元気を失い、問題行動を起こしたり、病気の症状を出したりしている子ども達です。不登校の子ども達でも、心の安全が守られたなら、心が元気になって、その子どもなりに元気な社会人になれます。
 日本が未だ貧しかったことの子ども達は、学校から離れると読み書き計算を含めて、知識を得る機会がありませんでした。学校から離れた子ども達には知識を得る機会がなかったのです。ところが現在は情報にあふれています。学校に行かなくても、心が元気になった子どもは、生活をしているだけで昔の子ども達が学校で学んだことを、自然と学んでいます。社会で生きていく知識を十分に身につけられるのです。社会と隔離されている学校で育った子どもより、生きていく知識を多く持っています。中には自分でどんどん学習をして、学校で学んだ子ども以上に知識を持ったこどももいます。


「なぜ、子ども達の心が元気になれないのですか?」

 ここが一番大切なことなのです。親は「子どもは学校に行くべき」という社会常識に捕らわれていて、子どもが学校に行く姿を求めていています。子どもの心を理解しようとしていません。教師も、相談する人たちも、子どもを学校に行かせる対応をしても、子どもの心を子どもの立場から理解しようとしていません。
 現在の教育学についても、いかにして子どもの知識を増やせるかを述べていて、子どもをどのように教育すべきかが述べられていて、子どもの立場からの子どもの心の理解が進んでいな無いことも事実です。教育学者の見方、研究者、大人の見方で教育が組み立てられていて、子どもの心に沿っていない教育が行われています。子どもの心は大人と違うのですが、現在の教育は大人の心を一部手直しをして子どもの心に当てはめて、教育が行われています。昔も今も、学校では勉学が強要され、それに基づいて、子ども達は評価され、比較されています。それは昔の子どもも、今の子どもも、子どものあり方を否定されてとても辛いことには変わりがないです。それどころか、今の学校は昔の学校より学ぶ内容が増えています。子ども達への要求が増えています。今の子どもは昔の子どもより、学校生活がより辛くなっています。昔の日本では、未だ物質的に貧しかった日本では、それで良かったのです。子ども達は生きて大人になれたら、それで良かったです。今の子どもは生きるのは当たり前になっています。子ども達は希望しない競争や比較から、子どもの心の成長を不完全にしています。
 五十年前の日本では、チョコレートひとかけらを貰えたら大きな喜びになり、その喜びを代償に、子ども同士の競争や比較されるのに耐えられました。また、競争や比較で底辺にいても納得してどうにか生きていけました。しかし今はチョコレートなどおいしい物があるのは当たり前、家族が住む一軒家が有るのが当たり前、綺麗な衣服があるのが当たり前。子どもが学校の辛さに耐えた代償として貰える物がありません。それどころかこれらの物が少しでも不足すると、子どもは大きな葛藤を生じて辛くなります。
 現在の子どもにはその子どもらしさが大切なのです。その子どもらしさを満たされたなら、子どもは必要を感じて自分から学習をします。ところが学校は子どもにとって楽しくない学習を要求して、その子どもらしさを摘み取っています。現在の子どもは、自分がどのように生きるか、その子どもが決める時代になっています。昔の子どもは自分がどのように生きるか決める前に、親や学校の要求に従って、生きていかなければならなかったのです。そうしないと子どもは飢え死するしかなかったのです。


「私達は子どもの頃、学校が楽しかったです」

 子どもには見知らぬことを知る喜び、同年代の子どもと過ごす本能的な喜びがあります。昔の子ども達は、生きていくために家で親の手伝いをさせられるより、学校で過ごす時間を求めました。その意味で学校は子どもにとって必要な場所でした。現在の学校は子ども達にとって絶対に必要な場所ではないです。学校は楽しい場所であると同時に、評価されて、比較されて、子ども達には辛い場所でもあります。昔の学校は休み時間や放課後に、子どもとしての逃げ場が有りました。学校での辛さは休み時間や放課後で解消できて、大人になったときには学校での楽しさばかりが思い出されて、学校での辛さを忘れてしまう大人が多いです。
 しかし現在の子どもは休み時間も管理されていて、子どもらしさを取り戻せていません。放課後も塾や習いことで、子どもらしさを取り戻せません。学校での評価を上げるために、親により今の子どもは寝るまで管理されている現実があります。


「子ども達は休みを喜ぶことから、学校が楽しくないことは分かるのですが、学校の辛さを家庭で解消して、学校に来て欲しい」

 理想は子どもにとって学校が楽しいところになっていることです。しかし学校が辛くても、その辛さを家庭で癒して学校に来られたらそれでも良いです。この教師の意見は正しいです。しかし現実には、子どもが学校の辛さを解消するために、家でだらだらしていたり、テレビを見ていたり、漫画を読んでいるのを、親が好みません。子どもに塾に行かせたり、習い事をさせます。子どもは自分の辛さを解消させるために塾に行ったり、習い事に行ったりしているのではないです。辛いけれど親に向かって良い子を演じているのです。親に辛さを感じています。しかしそれは子どもが不登校になるのを助長していますが、不登校の原因ではありません。子どもの不登校を助長していたと言う点で、親にも子どもの不登校の責任の一端があります。
 不登校の子どもへの対応をするとき、親の責任を責めたら、親はとても辛くなり子どもの不登校に向かい合えなくなります。子どもの不登校問題を解決できなくなります。不登校の子どもの立場から言うなら、子どもは母親を簡単に許しますし、母親も対応の悪さに気付くようになり、反省して対応を子どもの心に沿ったものにしてくれます。


「子ども達のために一生懸命学級運営をしています。私が苦しめて子どもを不登校にしたとは考えられません。」

 教師の学級運営が悪くて、子どもがその教師からとても辛い対応を受けて不登校になる場合があります。しかし多くの不登校の子どもは、子どもが不登校になったときの教師からとても辛い対応を受けたのではないです。不登校の子どもはそれよりもずっと以前に、学校でとても辛い経験をして、学校に行きにくくなっています。子どもは学校が辛くなっても耐えて学校に行き続けています。辛い学校に行き続けていると、他の子どもではたいして嫌なことでなくても、その子どもにはとても辛いこととして感じられるようになります。辛さの相乗効果です。ますます学校が辛くなっていきます。子どもは辛さに耐えて、良い子を演じながら学校に行き続けますが、最終的にはちょっとした辛い事件で学校に行けなくなります。不登校になります。ですから、そのちょっとした辛い事件が子どもの不登校の原因ではないです。不登校になったきっかけに過ぎません。原因はずっと以前にあります。子どもが不登校になったときの担任が自分に責任を感じられなくても仕方がありません。それでも不登校になった子どもは担任を含めて、教師と名の付く人に辛さを感じるようになっています。


「私達教師も子どもの幸せを求めて働いています。子ども達を苦しめようとしてはいません」

 教師も子どもの幸せを望んでいます。子どもの心を理解しようとしています。しかし、教師には子どもの心を理解しようとする時間的な余裕がないことも事実です。教師は忙しすぎるから、教師の負担を減らす必要があります。
 家庭訪問した教師が、不登校の子どもと一緒に、子どもに楽しいと思われることをしてくれる場合があります。教師が考えた不登校の子どもにとって楽しい遊びが、不登校の子どもは必ずしも楽しありません。子どもが楽しそうにしているのは、子どもが良い子を演じているからです。


「学校に行くようにと、不登校の子どもに勧めてみたら、学校に行くようになった」

 不登校の子どもが、学校に反応して辛くなる程度が弱い場合、又は家庭で辛い心が癒されて、学校に反応して辛くなる程度が弱くなった場合、子どもは登校刺激を受けると学校に行きます。それは子どもの本心から学校に行こうとしているのではなくて、良い子を演じているのです。良い子を演じていますから、学校がその子どもを受け入れようと変化をしていると、子どもはそのまま学校に行き続けます。しかし学校の受け入れ態勢が変わっていないと、その後又学校に行かなくなりますし、又強く学校に反応して辛くなります。


「不登校の子どもが人と関わるのが辛そうなので、教師が外に引き出す」

 例えば教師が子どもに「学校に行ってみようか」と誘ったら、子どもが学校に行き始めて、普通に通い出した例があります。学校に誘って動き出す子どもは、学校に対する反応が弱い子どもです。しかし学校が辛いことには変わり有りません。多くの場合、学校に行けても学校が辛いことには変わり有りません。子どもは無理をして学校に行くことになります。やがて無理が効かなくなって、子どもは学校に行けなくなります。
 但し子どもにとって学校に魅力的な物があり、その魅力が学校からの辛さ以上の場合、子どもは学校に行き続けます。例えば運動が好きな子どもは、運動会に出るために学校に行き続けますが、運動会が終わると、学校の魅力が無くなるので、又不登校になってしまいます。運動が嫌いな不登校の子どもが学校に行きだしたとき、運動会を契機に又不登校になってしまう場合もあります。


「子どもはどこで学んでも良いと思うが、人との関わり方を学んで欲しい」

 多くの教師がこのことを言って、不登校の子どもを学校に来させようとしています。しかし子どもが学校で経験する人との関わりは、同年代の子ども同士の関わりであり、大人の社会での人との関わりと大きく異なっています。現実に子ども同士の関わり方が社会に通じません。子どもの集団は、元来なら子どもにとって楽しくて、子どもが自発的に求めていく物です。しかし現在の学校内にある子どもの集団では、そこにあるのは評価と比較ですから、子どもにとっては競争であり、能力に限界を感じた子どもは競争相手の足の引っ張り合いをすることになります。


「勉強は普段からの積み重ねなのに、不登校になるとそれができないからどうすればよい?」

 子ども達が普段の勉強の積み重ねで能力を高めているのなら、それはとても素晴らしいことです。しかし現実の子どもは自分から勉強をしようとしていません。勉強をしないと叱られるから、ゲームをするために勉強をする姿だけを見せているのです。子ども達の勉強はさせられた勉強であり、達成試験のための勉強ですから、試験が終わると忘れてしまう場合が多いようです。知識は断片的で普段からの勉強の積み重ねになっていません。教師の方々が持つ理想の勉強の仕方とは、ほど遠い姿です。
 私達の経験では小学校を不登校をして過ごした子どもが、中学校から学校に行きだして、直ぐに学年一番の成績を取り続けた子どもがいます。子どもがやる気を出して勉強を始めると小学校の勉強は直ぐに追いつきます。中学校の勉強ですら直ぐに追いつきます。大切なのは子どもが勉強をしたいという意欲を持っていることであり、大人達が頭で考えるような勉強の積み重ねではないです。


「不登校の子どもに、教師はどのようにすれば良いですか?」

 不登校の子どもに、必ずしも友達や教師が必要ありません。不登校の子どもの多くは、学校や教師、友達にとても大きな辛さを感じます。教師が家庭訪問をして、不登校の子どもと楽しく遊んであげても、不登校の子どもは、教師と楽しく遊ぶと同時に、教師と言う概念(教師は学校を背負っていると表現した人がいます)に反応して辛くなっています。辛さと楽しさは数直線に置き換えられます。楽しさと辛さが打ち消し合って、より強い方を子どもは表現します。いくら教師が楽しく遊んであげても、不登校の子どもは辛さの方が強くて、教師がいるときには良い子を演じてしまいます。教師がいなくなったときに、不登校の子どもは荒れてしまいます。
 教師が不登校の子どもへの対応をするとき、効率が悪いだけでなく、子どもを苦しめます。教師のレッテルをはずして対応をする必要がありますが、教師のレッテルをはずしたつもりでも、子どもの方でレッテルを見ていますから、不登校の子への対応は教師でない方が良いです。当然不登校の子どもへの対応は、学校の外でなければなりません。


「教師を待つ不登校の子どもがいます」

 教師というだけで、不登校の子どもは辛さを感じます。教師が楽しさを持ってきてくれても、その楽しさが教師から受ける辛さを相殺します。不登校の子どもはその分、辛さが減ります。教師が来るのを待つ子どもがいたとしても、それは良い子を演じているだけであり、決して本心から教師を待っているのではありません。子どもは教師との遊びが楽しいだけなら、子どもの方から不登校を止めて学校に行きます。
 不登校の子どもを作らないためにも、教師は子ども達に喜びを与える必要があります。しかし今の学校では、そのあり方を教師に求められません。教師は忙しすぎです。


「家庭訪問で母親の対応の悪さを見ます」

 家庭が乱れているから、子どもに躾ができていないから、子どもに怠け癖ができて、学校を休むようになると説明する教師がいます。教師の間では、怠学と表現しています。それはあくまでも教師の立場からの判断です。ただし、この場合の家庭が乱れているという意味は、教師から見て教育上好ましくない家庭の姿という意味です。親が積極的に子どもに教育をしようとする姿が見られないという意味です。
 子どもの立場から言うなら、子どもは自分の与えられた環境で一生懸命生きています。いくら家庭が乱れていても、その子どもなりにその子どもらしさを求めて一生懸命生きています。子どもは自分が知らないことを知りたがります。同年代の子どもの集団が好きです。いくら家庭が乱れていても、子どもは学校に行こうとするのです。ですから、教師に子どもから見た魅力があるなら、子どもは学校に行こうとします。子どもが学校に来ないのは、学校が子どもを辛くするからです。学校より家庭を選択しているのは、いくら家庭が乱れていても、学校より家庭の方が良いと子どもが反応しているからです。どんなに家庭が乱れていても、子どもが学校を選択しないで家庭にいるなら、少なくとも子どもにとって学校より家庭の方が良いと反応している事実を示しています。
 常識から言うなら、教師は親に家庭が乱れている事実を指摘して、それを改善する必要があると考えます。それは頭の体操としては考えられますが、現実に親を変化させることは大変に難しいです。それよりも目の前の子どもに魅力的な教師である必要があります。教師にそれだけの魅力があると、不登校の子どもが学校に行くようになりますし、家庭の問題は子どもの方で解決してくれますから。


「ある不登校の子どもの母親についてです。5人の子どもがいて経済的にも大変な家庭です。躾が行き届かなくて、家庭が乱れています。教師が家庭訪問をして、家庭での子どものあり方を母親に注意、アドバイスをしています。母親はアドバイスを受けてから一週間ぐらい実行して、止めてしまいます。その止めた責任を他に求めてしまいます。ある時、教師が子どもと関わっていると、その母親は隣の部屋でうどんを食べていました。」

 母親が子育てに無関心な家庭の例のようです。それでも子どもはこの家庭の中で、その子どもなりに一生懸命生きています。常識的にはこの家庭のあり方を変えて、もっと教育に熱心な家庭にする必要があります。子どもが不登校の場合、この現実を認めながら対応を続ける必要があります。なぜなら子どもはこの環境が当たり前として育ってきていますから、この状態の母親を否定すると、母親が辛くなりその影響を受けて子どもが辛くなります。母親もその様な生き方しか知らないから、教師が家庭のあり方を変えようとして母親に働きかけでも、母親を変えられないです。このような家庭には、教師としてでできる範囲の対応、子どもを守る対応で良いです。母親を動かすにはそれなりの人が関わる必要があります。もし教師に余裕があるなら、子どもへの対応よりも母親を楽にしてあげる対応が良いです。母親の心をほっとさせてあげるような対応が、母親を介して不登校をしている子どもの心を楽にしてくれます。


「昼夜逆転は健康に良くないので、専門家に看て貰う必要があると勧めました」

 不登校で心が辛い状態の子どもは昼夜逆転になりがちです。常識に反しますが、親は不登校の子どもに昼夜逆転を認めてあげたほうが、子どもは早く元気になり、その子どもなりの活動を始めます。昼夜逆転が一生続きませんから。常識に反しますが、今まで不登校の子どもへ対応をしてきた経験から、不登校をしていても子どもの健康や肉体的な成長に影響を与えないようです。但し登校刺激を与え続けている場合は異なります。
 医学は昼夜逆転を認めません。生活リズムを正す必要があると考えます。生活リズムを正そうとすると、子どもは辛くなり元気を失います。昼夜逆転をしていると、子どもは早く元気になり、必要なときには昼夜逆転を止めます。多くの不登校の子ども達は、昼間起きていると辛いです。夜は楽になるから、その子どもなりの活動ができます。子どもは自分の心に素直に生きています。そうなると母親と子どもとの生活リズムが食い違います。母親が昼夜逆転している子どもにつきあわないのは問題ありません。


「ゲームの最中に眠気が来るが、寝るのが怖いという子どもがいました。」

 不登校の子どもは学校を意識するだけでとても辛くなります。不登校の子どもが寝るのが怖いという場合、寝てしまって朝になると、親から学校に行くような対応を受け、自分も学校に行くことを考えなければならないからと言う意味です。


「家庭訪問をすると、寝ている子どもが薄目を開けている。教師が帰るというとぐずぐず言い出します。教師が来るのを待っているようです」

 この子どもの姿から、多くの人は子どもが教師を求めていると判断します。きっとこの教師は子どもに喜びを与えられる教師だと推測されます。しかしそれでも、不登校の子どもはこの教師に辛さを感じています。子どもは良い子を演じているだけです。きっとこれらのことが辛かったことを、子どもの不登校問題が解決したら教えてくれると思います。この教師が来ると嬉しさもあるが、同時にとても辛かったことを、教えてくれると思います。
 同じ対応で、心に傷がある子どもは辛さを感じ、心が元気な子どもは楽しさを感じます。ですから教師が不登校の子どもに近づくときには、教師というレッテルをはずす必要があります。但し教師が教師というレッテルをはずしたつもりでも、子どもは教師というレッテルを見ている場合が多いです。教師が子どもを守るには、子どもが不登校になる前に子どもを守る対応をする必要があります。子どもが不登校になったら教師方には不登校の子どもへの対応が無理だと考えられます。
 教師は不登校の子どもに向かい合わないほうが、不登校の子どもは早く元気になれます。しかしそれでは生徒を教師が放任していると判断されて、社会がそれを許しません。子どもが不登校になってしまうと、不登校を理解する教師なら、不登校の子どもへの対応をしているように装って、その実不登校の子どもが辛くならないような対応をする必要があります。


「不登校の子どもに教師が対応をしないと、教師が無視をしていると感じる親が多くいます」

 不登校の子どもの親にこのようなことを言う親が多いです。親は子どもが学校に行って欲しいのです。子どもが学校に行けるように、教師がして欲しいのです。だから教師は家庭に時間割などを教えて、印刷物を持って行っています。しかし不登校の子どもは、その教師の対応がとても辛くて、子どものエネルギーを失わしてします。そこで私達、子どもの立場から不登校問題を考える人たちは、教師に「何もしなくて良い」と断ってあげるように、母親に指導しています。
 教師が同級生を不登校の子どもの家に行かせると、不登校の子どもはとても辛くなります(子どもの中には良い子を演じて、友達と楽しそうに遊ぶ子どもがいますが、後でとても荒れてしまいます)し、行った子どもにも負担になります。もし不登校の子どもの心が元気になって、学校に行くような時があると、虐めの原因なってしまう場合が多いようです。現在不登校の子どもへ、何も教師が対応をしないのは、社会的に認められていません。不登校の子どもに教師が何も対応をしないで貰うには、職業柄無理です。親の方から断ってあげる必要があります。将来、社会常識を変える必要があります。


「教師は一生懸命授業の準備をして、子ども達に教えようとしています」

 心が元気な子どもについて、それはとてもありがたいことです。心が元気な子どもはそれに答えて、知識を増やしていきます。
 心が辛い子ども、不登校の子どもには、教師が持つ知識からの対応が無理です。子どもには大人が既に忘れてしまっている、子ども特有の論理があります。「辛い子どもの心の本」第二章大人と違う子ども、第三章子どもの辛さ、恐怖の学習、第四章弱者の論理を参考になさって下さい。現実の教育ではそれを無視していますから、現場で問題児が増えてきています。心が辛い子どもは、既に学校生活が辛いです。授業も辛いです。無理をして学校に来ているだけだからです。教師がいくら努力をして下さっていても、心が辛い子どもは授業について行けません。ただ辛さに耐えて、時間が過ぎていくのを待っているだけです。ただし、教師の準備が心が辛い子どもの心を楽しませたなら、辛い心が減って子どもが元気になっていきます。しかし現実に教師が心が辛い子どもを楽しませるような準備をすることはまずありません。


「心の教育が始まったのに、子どもの方に改善がないのはなぜですか?」

 最近心の教育が叫ばれています。言葉で心のあり方を教えても、子どもは知識として心のあり方を記憶できます。テストで正解を書けます。しかし子どもは子どもの持つ特性から、知識から行動ができないかとても下手です。子どもの心は大人と違っているのです。「辛い子どもの本」の第二章大人と違う子どもを参照なさって下さい。


「入学当初から不登校になる子どもがいます」

 親が子どもを学校に順応できるように育ててきていないと、大人や教師は言います。しかし親はその親なりに一生懸命子どもを育ててきてますし、子どもも一生懸命、子どもが属する社会に順応しようとしています。その際に親の一生懸命がかえって子どもを学校に行きづらくしてしまう場合と、子どもの成長に個人差があって、学校に入学時点で、学校に順応できるだけの能力の発達がみられていない場合があります。
 親が一生懸命子育てをしたために、かえって子どもが学校に行き辛く成った場合として、保育園や幼稚園で子どもの心に傷を帯びている場合があります。子どもの情動は三、四歳で完成します。保育園や幼稚園で子どもがとても辛い経験をしたとき、子どもは保育園や幼稚園に辛さを生じる条件刺激を学習します。親が一生懸命子育てをしていると、子どもが保育園や幼稚園を見たときに辛くなっても、その辛さを無視して、子どもを保育園や幼稚園に行かせようとします。そうすると子どもに辛さを生じる条件反射の汎化が生じて、保育園や幼稚園に似た学校や教師に辛くなる条件反射を生じてしまいます。つまり小学校に入学した時点で心が傷ついている場合です。
 最近の保育園や幼稚園は、子どもが小学校に入学した後のことを考慮して、勉強や躾に熱心なところが多いです。保育士は子どものためにと思って、一生懸命勉強を教えたり、躾をしたりします。子どもによっては幼稚園での勉強や躾を受ける程十分に心が発達していなくて、死ぬ程辛くなる子どもがいるのです。


「不登校の子どもの将来はどうなりますか」

 不登校の子どもであっても、不登校の子どもの心が元気になると、自分から動き出します。自分から求めて人と関わろうとしますから、人と関わるのが上手になります。不登校をしていても、子どもの心に危険が無くなると、心が辛くなくなりますから、子どもの心にエネルギーが貯まってきます。子どもは大人と違って、じっとしていてもエネルギーが貯まってきます。エネルギーが貯まってきますと子どもは何かをしたくなります。自分がしたいことをするために、子どもの方から自然と社会と関わろうとします。
 不登校、引きこもりの子どもでも、引きこもった場所が安全なら、時間と共にエネルギーが貯まってきて、心が元気になれます。心が元気になれたら、社会と関わって、自分からアルバイトなどの社会活動をするようになります。必要を感じたら、学校に行くようにもなります。学校に行き続けた子どもよりは遅れる場合もありますが、就職や結婚もして、元気な社会人になれます。この時、大切なことはアルバイトをさせられたり、学校に行かされたのでは、多くの場合逆効果です。子どもはせっかく貯めたエネルギーを失ってしまう場合が多いのです。自分から求めたときには、エネルギーを失わないように子どもが行動するからです。


「学校で教師はどうすれば良いですか?」

 心が元気な子どもは点数で計っても大丈夫です。進学を目指して、子どもに積極的に働きかけて大丈夫です。しかし心が辛い状態の子どもを点数で計らない方が良いです。親や教師にとっては、子どもが良い点数を取ってくれると有りがたいです。子どもの立場から言うなら、今の点数はどうでも良いのであって、大人になったときに良い点数を取れる方が良いです。そのために、心が辛い子どもには無理に勉強をさせて点数を取らせるよりも、辛さを打ち消すような喜びを与えて、意欲が高まるような対応が大切です。子どもの意欲を高めるには、休み時間を子どもが好きなように伸び伸びと遊ばせて、教師と子どもとのスキンシップも大切です。授業中も心が元気な子どもと違った配慮が必要です。その意味で複数担任は良いかもしれません。子どもの心を元気にするために、母親の協力も必要です。
 教師が見ている目の前の子どもで心が元気な子どもと、心が辛い子どもとの区別をしてはいけません。殆どすべての子どもが教師の前では良い子を演じているからです。心が元気な子どもと、心が辛い子どもとの区別は、学校の休み時間や放課後の子どもの姿を見る必要があります。その際に子どもに教師の存在を意識させたら、子どもは良い子を演じてしまいますから、教師の存在を意識させないように離れたところから、子どもを観察する必要があります。「辛い子どもの心の本」第四章弱者の論理を参照なさって下さい。
子どもが不登校になって学校に来なくなったとき、教師には子どもの不登校問題を解決できないと考えて下さい。母親と、教師でない人で不登校を理解する人に対応を委ねる必要があります。


「授業を具体的にどうすればよいですか?」

 多くの教師は授業を楽しくするために、予め準備していらっしゃるのでとてもありがたいことです。教師それぞれその教師なりに努力して頂くので良いです。但し子ども達が楽しいであろうと教師が思っても、必ずしも子ども達が楽しいとは限りません。子ども達も教師の前で必ず良い子を演じています。子ども達が楽しそうに授業を受けても、その子ども達が家庭で母親に習った事をどのように話しているか、知る必要があります。
 子ども達に興味を持たせるには、既に子どもが興味を持っている事柄を上手に利用すると良いです。子ども達が授業に興味を持たせるには、休み時間の間は徹底的に子ども達を楽しませる必要があります。休み時間に授業の辛さを発散して、次の授業に向かわせるようにするのが大切です。子ども達と信頼関係を作るには、その教師の方なりに子ども達と遊んだり、スキンシップを取るのが大切です。その際に子ども達に教師という思いをさせない方がよいです。
教師の方々は学校内で子どもがすることに全て意味を付けて、教育と結びつけています。例えば休み時間の遊び、給食、遠足、運動会、発表会などです。これらは楽しければそれでよいのです。意味づけをして、それに基づいて子ども達にそれらの意味の理解を要求したら、子ども達から楽しみを奪ってしまい、授業に耐えられない子ども達が出てきます。これらを行う意味が無くなります。


「不登校の子どもに、友達を迎えに行かせると、学校に来るようになり、それ以後不登校になる事はありませんでした。この事実から不登校の子どもを学校に行かせるようにするのは必要だと思います。」

 不登校の子どもでも、学校に反応する度合いは子どもによって異なります。多くの学校に耐え続けて、耐えきれなくて不登校になった子どもは、学校を意識するととても辛くなり、学校への拒否反応を起こしてしまいます。このような不登校の子どもへは、いかなる登校刺激も悪い結果をもたらします。不登校の子どもでも、学校に反応する度合いが弱い子どももいます。そのような子どもは自分から再び学校に行くようになるか、何かを契機に学校に行くようになります。このような不登校の子どもは少ないようです。
 不登校だった子どもで再び学校に行きだした子どもは、多かれ少なかれ辛さを回避するためのよい子を演じています。学校やクラスの受け入れ態勢が、再登校を始めた子どもを苦しめなければ、子どもは学校に行き続けます。しかし多くの学校では、不登校になる前の学校と、再登校を始めた学校とはそれ程変わっていません。再登校を始めた子どもはその内に再び不登校になってしまいます。
 再登校を始めた子どもがその後もずっと学校に行き続けた場合、辛さを回避するためのよい子を演じ続けられたのです。学校に全く反応しなくなって、心が元気に学校に行き続けられたとは考えられません。そうした場合、子どもはだんだん学校に対する反応を強めていって、進学したときに全く学校に行けなくなるか、それでも辛さに耐え学校に行き続けて、社会に出てから動けなくなっている子どもになります。
 現在ニートフリーターの若者、社会に出てから仕事を続けられなくなって、家の中に引きこもったり、病気の症状を出したりする子どもの増加が社会問題になっています。政府や多くの人たちは、これらの子ども達に問題があると考え、これらの子ども達を社会へ引っ張り出す対応をしていますが、社会へ出るためのエネルギーを失った状態の子ども達である事に気づいていません。そのエネルギーを失った理由は、辛い学校に耐え続けて来た結果である事に気づいている人も少ないです。
 受験競争に勝って有名大学、条件がよい職場に勤められる子どもを、多くの親や教師の方々が願っています。子ども達はその期待に答えようとしてその子どもなりに努力をして辛くなり、それでもよい子を演じ続けて、社会へ出るためのエネルギーを失った姿です。子ども達の将来を与えるための学校が、子ども達の将来を奪った姿です。それでは一生懸命学校に通った子ども達が可哀想です。学校が子ども達の将来を奪ってしまうのなら、子ども達の中には学校に行かないで社会に出ても良いはずです。学校が辛いと子どもが表現しているなら、その子どもが学校に行かない現実を認めて、将来心が元気な大人になってもらって、社会に出て行ってもらう方が、子どもにとって幸福だと思われます。
 ただし現在、学校に行かないで社会に出て行く成長の仕方を、社会は認めていません。子ども達のとっても、その親たちにとっても、予測すらできない生き方です。辛さを我慢して学校に行っている子ども達にとって、又その親たちにとって、学校に行かないで社会に出て行く成長の仕方を選択をできません。不登校の子ども達にとって、又その親たちにとって、社会から許されない生き方を手探りで探しながら生きていかなければなりません。それだけでもとても不安な生き方なのです。しかし不登校の子ども達は、学校を意識しただけで辛くなっていますから、学校に行かないで成長をする生き方を、辛い不安に耐えながら生きているのです。

「不登校という形にはあらわれない非行や問題行動についてお尋ねします。火遊び喫煙、ものかくし、いじめにつながる悪戯、本当に心が痛む出来事が見られます。」

本当に大切なことに気付かれていますね。昔から、これらのことは、これらのことをする子どもが悪いから、子どもを矯正しなければならないというのが常識ですが、お気づきのように、それは間違いです。常識とは違って、子どもたちは辛さを解消するために、これらの大人の嫌がる問題行動をしています。大人はこの事実に気づく必要があります。

「子どもたちの行動が習慣化されている現実もあります。」

それが一番怖いのです。大人になったとき、トラウマがうずかなくても、これらの問題行動をするようになってしまうからです。子どものための学校が、現在、一部の子どもをだめにする学校になっていることに気付いている大人が殆どいないことです。

「それを起こす子どもには発達障害が見られるのではないかという考えに繋がることもあります。」

それは学校を運営する大人、社会を支配する大人にはとても便利な考え方です。本当は大人の方で、大人のあり方、学校のあり方を変える必要があるのに、責任を子どもに求めています。子どもが学校で苦しんだ結果発達障害と思われてしまう症状や行動をしてしまっているのに、問題点を発達障害で説明しようとしています。大人の都合からの、勝手な発想ではないでしょうか?

「不登校の子どもについては引きこもることで傷を癒すという方法を取ることで守り易いのです」

おっしゃるとおりです。ただ、問題行動を起こす子どもは、大人に信頼されていると感じると、(それが特に母親だと効率通いのです。母親でなくても、子どもは無条件で話を聞いてくれる大人を求めています。子どもは話すことで納得できたら)普通の子ども以上にその子どもなりの能力を発揮する傾向があります。楽しみな子ども達なのです。

「非行や盗み、悪戯、喫煙などの問題行動でトラウマを表す子どもの傷を癒す学校現場での具体的な方法がありますでしょうか?」

現在の日本では即効的な方法は無いと言って良いと思います。子ども達は否定されない(当然話の内容は秘密にされます。他の教師にすら漏らすことはできません。)で、自分たちの思いを聞いてくれる大人を求めています。それを満たしてあげるだけでもとても大きな効果があります。
その際に気をつけなくてはならないことは、大人から提案(子どもを諭すなどの)をしないことです。一見提案をして、励ますのが良い対応のように考える人が多いですが、それをすると子どもは大人の前で良い子を演じてしまい、話を聞いてあげたことの意味がなくなります。大人は子どもが良い子を演じた姿を見て、効果があったと考えますが、大人の見えないところで問題行動をするようになります。
子どもが大人に聞いて欲しいことの第一は学校が楽しくないことです。そのような子どもには学力より学校内の楽しさをどのようにして感じさせてあげるかを考えてあげると、それらの子ども達はとても活力がある、勉強もするようになる、子どもになれます。
本来なら親がこれをすべきなのですが、親が子どもの成績を上げることにだけ夢中になっていて、子どもの心を無視し続けていることを簡単に変えられません。学校側がやってみせるしか無いです。

「学校では学級や学年、または全校集会で問題行動のおかしさや痛みを受けることの苦しさを教師が指導を行うのです。」

これは大人の自己満足であり、教師がきちんと対応をしているという社会や親たち、マスコミへのデモンストレーションです。子どもにとってはかえって辛くなり、また問題行動をより強めて行うことになります。

「叱責されることがわかっているのか自分がしたと名乗り出てくることもありません。」

子どもは学校が楽しくないから問題行動を無意識に行っているのです。自分たちがますます辛くなるようなことを子どもはしません。

>問題行動を繰り返し行う子どもが、問題行動に走る原因を見る蹴る方法はどうすれば良いですか?
問題行動をする子どもの話を、上記のように、大人が決して否定することなく聞き続けてみれば、子どもはそのうちに話してくれるようになります。

「親の子どもへの虐待が関係している場合がありますか?」

親の虐待が原因なら、入学前から子どもの心が荒れて、問題行動をしてしまいます。学校に入学してから、子どもが問題行動を起こすようになったのなら、子どもが問題行動を起こす原因は学校内にあります。ただし、親が子どもの問題行動の対処法を間違えて、子どもの問題行動を助長する場合はあります。

「問題行動をする子どもは、学校での体罰が原因になっていますか?」

教師にはその気がないでしょうが、これが大きな要素となっています。但し体罰と言ってもいわゆる体罰、子どもを叩くというような物だけではありません。子どもが納得できない理由で教師が子どもを叱責する、教師が他の子どもを叱責したときの影響を受ける、などが積み重なって、子どもが問題行動をするようになっています。

「問題行動をする子どもになるかどうかを、見分けるよい方法がもしあったら教えてください。」

大人から見て問題だと思われる場合は全て対象になります。問題行動の程度の差に関係なく、大人が子どもを否定することなく、提案をすることなく、聞き続けると子どもが感じているそのままを話してくれるようになります。

「問題行動のある子どもについて学校を休ませることなどの対応は現実不可能ですが、問題行動を起こす子どものトラウマをどうやって癒すべきなのか知りたいです。」

問題行動を起こす子どものトラウマを癒やせるのは親だけです。親が子どものトラウマに気づかないなら、トラウマを癒やす方法はないです。親を説得しようとしても、聞く耳を持っていないことが多いです。
学校と関連がない大人が、子どもの話を無条件で聞き続けると、子どもは問題行動をしなくなり、トラウマも癒えてしまいます。しかしそれにはとても長い時間がかかるという難しさがあります。本来なら親がすべきなのです。
小さな子どもの場合、学校内に子どもの居場所を与えるのも一つの方法です。但し大人が子どもへの居場所だと考えても、子どもの方で居場所だと感じないなら、学校と同じことになってしまいます。一人一人の子どもがその子どもなりに楽しいことが必要です。

「不登校とか引きこもりではない問題行動を起こす子どもへの親の関わり方、学校の教師の関わり方をどうか教えて下さい」

不登校問題が社会的に生じる前からこの問題はあったのですが、以前は不良グループに子どもが収容されて、悪い子どもとして処理をされていました。今はその不良グループもなくなるか変質してしまい、辛い子どもの問題行動が目立つようになっている可能性があります。学校や教育者が理解して欲しいことは、今の学校制度が好ましい子どもも多いけれど、今の学校制度で辛く感じている子ども達がいて、それらの子どもが不登校という形、問題行動という形で、学校が辛いことを表現しているのです。子どもに矯正すべき問題はないことに気付かれるべきです。子ども達は今の学校制度の被害者であり、学校への加害者では無いです。子ども達に合わせた学校制度が必要な時代になっているのに、依然として昔からの子どもを学校制度に合わせようとしています。昔はこれらの問題行動をして学校から排除されても、肉体労働やいわゆる社会の底辺と言われそうな仕事があったのですが、現在はそれも少なくなり、また子どもの方でも耐えられなくなっていて、社会的な事件にまで発展する場合もあります。

「小学校の教師は子どもの心の立場からの考え方を伝えると本当に共感されることが多いです。」

直に同じ生徒と長時間接触する機会が多いので、子どもの辛さを感じ取りやすいのだと思います。

「中学校の教師にはなかなか受け入れられがたい感じがあります。」

中学校は管理が前面に出てきていますから。

「恐怖で生徒を指導していく場面が多々あります。その指導に間違いがないという雰囲気があります。」
大人の管理ではそれで良いのですが、子どもでは逆効果になることに気付いて欲しいです。教師の方達に”良い子を演じる”子どもの姿をしっかりと認識して欲しいと思います。目先の姿だけで全てを判断してしまっています。子どもの心が分かっていないという意味なのでしょう。

「問題行動が繰り返されるならば指導方法が間違っていると考えていくべきだと思います。」

問題行動を起こす子どもに原因があると考える限り、指導法を工夫してもその場しのぎになってしまいます。
脳科学からの原則があります。楽しければ将来が広がりますが、辛い、恐怖には逃げしかないという事実です。大人では心に余裕があると辛さ、恐怖を逆手に解決する方策を見つけられますが、子どもでは辛さから逃げられないと病気になったり、問題行動をするようになります。

「小中一貫の学校にいるからこそつっぱっている非行に走りがちな中学生が可愛い1年生と一緒に遊び笑顔になり癒されている場面も日々見られます。」

楽しいと、辛さを打ち消すことができます。これも大切な脳科学的な事実です。学校が辛くても授業が辛くても、それを打ち消す楽しさがあると、子どもは病気の症状や問題行動を起こしません。その子どもなりに成長をして行ってくれます。

「心の癒しがいかに大切かと思います。社会でおきている事件でも犯人にならざるおえなかった人のトラウマの重大さを考えています。」

心の癒やしを先生が与えることは大変に難しいです。心の癒やしは当人の性格や母親に任せるしかないです。先生としてできることは、学校で辛くなった子どもの話を、制限時間をつけないで、否定をしないで、提案をしないで、聞き続けるだけで、子どもがその子どもなりの解決法を見つけてくれます。もちろん母親の協力も必要です。
 以上はある意味で理想論です。現実には教師が一人の子どもに関わり続ける時間的な余裕がないでしょう。でも時間がないというのは許されないことです。教師なら、身をなげうってでも子どもを守るべきなのでしょうが。それも理想論になりますね。
 学校を楽しくしようとしても、学力ばかりを問題にする父兄も多いです。子どもへのスパルタ教育を求める父兄も多いです。そのような父兄への対応も先生を苦しめます。余裕をなくします。子ども達の話を聞いている余裕をなくしてしまいます。先生が時間や心にもっと余裕があるような教育制度に、日本がなる必要があります。

「多くの先生の間では、子どもが休んでいて元気が出てくれば登校刺激をしていくべきという考えを持っています。」

子どもを信頼していない人たちに、子どもを信頼しなさいと言うのは大変に難しいです。教師は自分の子どもに対応をするのではないから、信頼して待つことは教師を放棄すること、責任放棄をしていることと理解してしまうようです。場合によっては子どもの親から突き上げられてしまうこともあるでしょう。
子ども論の28ページから34ページまでを理解できない人には、いくら説得してもかえって先生方が非難されてしまうと思います。

「子ども達の辛いものを打ち消す楽しさを見つけるために、不登校の子ども達を学校へ引きださないと、子ども達は楽しいことをみつけられないのではないかという迷いがないわけではありません。」

学校に反応するトラウマを持った子どもが、学校に反応をしなくなるのは、最後の最後です。子どもが元気に動き出してもまだ学校に反応します。今までの私の経験ですと、”不登校になって荒れたり、病気の症状を出した子ども”は、ほとんどすべて義務教育年代の学校に戻っていません。高校年齢でも数が少ないです。私が知る限り、義務教育年代の学校に戻った子どもは、ほとんどすべて”よい子を演じて”いました。親や教師はこのよい子を演じている子どもを、子どもの本当の姿だと考えて、不登校を克服したと考えてしまいます。しかし学校に戻った後、再び不登校になり、もっとひどく荒れたり、病気の症状を強めて、病院に入院させられたりしています。今の学校のあり方が変わらない限り、これらの子どもが学校から楽しさを見つけることは大変に難しいです。
 不登校になっても、荒れたり病気の症状を出さなかった子どもはある期間学校を休むと自分から学校に行くようになっています。その際に教師が子どもに登校刺激を与えても、大丈夫な場合と、その後もっとひどく不登校になり荒れたり病気の症状を出すような子どもの場合もあります。
 私のところでは、殆どどうにもならなくなって、最後の救いとして相談に来られる親が多いので、殆ど全ての子どもが荒れたり病気の症状を出しています。義務教育年代の学校に戻った子どもは、安心して不登校ができた結果、勉強をしたくなって親が止めても学校に行き続けた子ども、家の中が退屈で学校で友達と遊びたくなった子どもが各々数名いただけです。

「保健所の研修会では、待っていても何十年も引きこもっている人を見たとき子どもを動き出すまで待つといっていられないという人もいました。早く助けなければと言われます。」

これは多くの大人が間違えることです。恐怖の条件刺激である学校を忘れて引きこもられた子どもは、割と早く引きこもりを止めて元気に動き出します。親や周囲の大人が、子どもが動き出すのを待っていられない気持ちで待っていると、それは子どもに伝わります。
 一部の子どもはよい子を演じて、無理をして動こうとして、その後ひどく荒れたり、病気の症状を出すようになります。一部の子どもは子どもは周囲の大人の期待に応えられない自分を自己否定して、辛くなり引きこもりになります。荒れたり病気の症状を出すようになります。ますます動けなくなります。年齢が進んで大人の年齢になっても、いわゆるニートフリーターとしての社会活動しかできなくなります。

「外に出そうと居場所をやよりどころを見つけようとする活動についてどう伝えていったらよいのか教えてください。」

それは子ども自身が決めることです。親や他人から与えたら、子どもはよい子を演じてしまい、その後また子どもは荒れたり病気の症状を出すようになります。子どもが外に出るかどうか、居場所を必要とするかどうか、よりどころを見つけようとするかどうか、それは子どもが十分に納得して決めないと、逆効果になります。今までの経験ですと、子どもが元気になってくると、自分から外に出て行きます。外に出そうとする必要がないです。外に出て行ったとき、子どもは居場所やよりどころを求める子どももいます(どちらかというとよい子を演じている場合が多い)が、多くの子どもは自分のやりたいことをさせてくれるところを自分で探して、出て行きます。

 先生方に是非理解していただきたいことがあります。それは“よい子を演じる”という反応の仕方です。子ども論の22ページから23ページにかけてです。先生方は子どもがよい子を演じている姿を見て、その姿を子どもの本当の姿と理解した結果、子どもと心がすれ違うことになります。子どもの心が分からなくなっています。子ども達が先生は自分たち子どもを理解していないと反応する原因になっています。子ども達が先生に不信感を持っていても、先生の前では先生の気に入るようなことを言い、行動をします。

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