漁師の喜作についてのお話 須藤 透留
昔ある漁村に喜作という若者が住んでいました。喜作は幼い時に母親を病気で亡くして、父親と二人で暮らしていました。二人の生活と言うのは、朝早くに小舟を漕ぎ出して魚を採り、その魚を売って日々の暮らしをたてていました。しかし母親が死んでからというもの、父親は毎晩のように大酒を飲むようになりました。其の父親の酒代に、大そうお金がかかりましたから、魚を売っただけでは生活ができません。漁の無い日には、喜作は裏山にある段々畑を耕して、生活を助けていました。
父親は漁師としてはとても優秀な漁師でした。舟を操るのも上手でしたし、天気を予想するのも上手でした。魚を採るのも、泳ぐのも大変上手でした。その父に鍛えられた喜作も非常に優れた漁師になっていました。
ある日の事でした。その日は朝からよい天気で、何隻もの舟が沖に漕ぎ出して魚を採っていました。どういう訳だかその日は漁の方はさっぱりでした。昼ごろになると多くの舟は漁を諦めて浜に帰りましたが、数隻の舟が漁を止めずに沖に残っていました。
この様なことはよくある事なので、喜作と喜作の父とは漁を続けていました。ところがその日は、突然空が真っ黒な雲に覆われたかと思うと、激しい雨と風が襲ってきました。すぐに漁を止めて浜へ引き返そうとしたのでしたが、その時には既に舟は大波にもみくちゃにされて、どの舟も皆ひっくり返ってしまい、漁師達は皆海に放り出されて、喜作以外の漁師は皆波に巻き込まれて、溺れて死んでしまいました。喜作はもちろん泳ぎが得意でしたが、あのように大きな波に巻き込まれたらどうにもなりません。何回ともなく水中深く巻き込まれて意識が無くなりましたが、いつの間にか水面に浮きだして、意識を取り戻して、また浜をめがけて泳ぎ続けることができました。
嵐は突然襲ってきたと同様に、突然去って行きました。海が穏やかになったおかげで喜作は浜に泳ぎ着くことができました。
父親を失った悲しみで、喜作はしばらくの間、何もすることができませんでした。父親を奪った海が恐くなり、喜作はもう二度と海に出ないぞと心に決めました。
それから一月ぐらいたった頃の事でした。喜作が段々畑に出て野良仕事をしていると、若い女がふらふらとして通りかかりました。女は病人のようでした。今にも倒れそうで、心の優しい喜作には放って置く訳にはいきません。
「そこの人、どうなされました。お見かけしたところ大層お疲れの様ですが。大丈夫ですか?」
「はい・・ありがとうございます・・。旅の者ですが・・、大変・・、疲れまして・・。」と言って女は倒れてしまいました。びっくりした喜作は駆け寄って女を助け起こしました。女が高い熱を出していたので木作は再びびっくりして言いました。
「これは高い熱だ。このまま放って置く訳にはいかない。ともかく私の家にいらっしゃい。熱を下げなくては。」
喜作は女を背負うようにして家に連れて帰り、布団に寝かせると、冷たい水を汲んで来て、冷やした手拭で女の額を冷やしてやりました。喜作が医者を呼びに行こうとすると女は喜作を呼び止めて言いました。
「私は妙薬を持っています。どうかこの薬を煎じてお薬を作っては下さいませんか?」
女は胸元から一服の薬を取り出し、喜作に渡しました。喜作はその薬を急いで煎じて、湯呑に入れ女に飲ませました。薬を飲み終わると女は言いました。
「これできっと元気が出ると思います。もう私の事は気に掛けないで、お仕事に戻って下さい。」
そう言われても喜作は心配で暫く様子を見ていました。まもなくして女は落ち着いたのでしょうか、すやすやと寝込んでしまいました。喜作はこれで一安心と思って、畑に戻って野良仕事の続きをしました。
野良仕事を終えて家に帰ってみると、女は熱もとれて、かなり元気を取り戻していました。女が夕食の準備をするために床から起き上がろうとするのを喜作は制して、
「男の作った飯はうまくはないかもしれないが、薬だと思ってたべてごらん」
といって、喜作は飯を炊いて女に食べさせました。女は涙を流して喜びました。そして自分がこの村に来た訳を話し始めました。
「私は綾ともうします。私は貧しい船乗りの娘でした。私の父の乗っていた船は外国へ荷物を運んでいました。その父の船が大きな嵐にあって沈んでしまったのです。そのため母はすっかり気落ちして、病気になり、私一人を残して死んでしまいました。私は、父が誰かに助けられてどこかに元気にしているのではないかと思い、日本中を捜し歩いているのです。」
「本当にお父さんは生きているのかい?」
「解りません。でももし父が死んでいたら私には全くの一人ぼっちです。誰を頼りに生きて行けばいいのでしょうか。」
喜作は
「ともかく、すっかり元気になるまでここにいなさい。」
と言って、女を又床に寝かせました。
二、三日もすると女はすっかり元気を取り戻しました。女は元気を取り戻すと共に喜作の家の家事を始めたので、家の中はきれいに片ずき、喜作はこの女のおいしい手料理を食べ、きれいに洗ってある着物を着て野良仕事に出ることができるようになりました。そればかりではありません。この働き者の女はその内に、喜作と一緒に段々畑に出て働くようになりました。
やがて二人の間に男の子が生まれました。綾は喜作に向かって言いました。
「喜作様、この子を育てるためには何かとお金がかかります。畑は私が守りますから、喜作様は昔の様に海に出て、魚を取って下さいな。」
「うん、それは考えているところなのだが、そのためには、どうしても舟を買わなければならないよ。舟を買うには結構大きな金がかかるんだ。」
「二人で頑張れば、舟を買う金を借りてもきっと返せます。二人で頑張りましょう。喜作様。」
そこで舟を一そう買って、喜作は昔のように漁師をはじめました。勿論喜作は腕利きの漁師でした。漁に出る度に沢山の魚を取って、それを売ったお金で借金を全て返してしまいました。
喜作はとても幸福でした。毎日がとても楽しく過ぎ去って、子供は見る間に大きくなって行きました。子供が大きくなると、喜作は子供と一緒に舟に乗って漁に出かけるようになりました。特に教えた訳ではないのに、子供は泳ぎが大変うまく、魚と同じくらい早く泳ぐことができるようになりました。漁も喜作に負けないぐらいに上達しました。そのため村人達から、喜作親子は大変うらやましがられました。
喜作一家はこんなに幸せだったのに、子供が大きくなるに連れて、綾は物思いにふける日が多くなりました。喜作には、どうして綾がその様に物思いにふけっているのか解りませんでした。ある日、喜作は思い切って綾に尋ねてみました。
「綾や、なぜそんなに考え込むのかい?何か私に不満でもあるのかい?」
「とんでもありません、喜作様。私はとても幸せです。幸せですから、かえって困っているのです。」
「何も困ることはないじゃあないか。」
「実は、喜作様。私は長い間、嘘をついていました。どうかお許し下さい・・・。
私はここの海の底に住む人魚でした。人魚ですが、喜作様の逞しい姿にあこがれて、喜作様を好きになり、喜作様の御嫁さんになりたいと思うようになりました。でも、人魚が人を好きになることはゆるされません。私は毎日辛い思いをして過ごしていました。その様なときに、あの嵐がありました。あの嵐でお父さまと喜作様の舟は沈んでしまい、お父さまは溺れて亡くなりました。喜作様も溺れていましたが、私は恋しい喜作様を放っておくわけにはいきませんでした。私は溺れていた喜作様を助けてしまいました。このことを知った私の父は大変怒りました。人魚の国の掟を破った私は、本来なら死刑になるところでした。しかし私のことを不敏に思った父は私をそっと、人魚の国から追放して、人間の国送ってくれました。私は少しも後悔をしていません。それどころか、こうして喜作様の妻となれたことを大変幸せに思っています。
しかし、喜作様。私たちの子供は人魚としてしか生きられないのです。子供の内はこうして私たちの元におれますが、成人する迄に人魚の国に帰らなければなりません。そのうち、きっと自分から、人魚の国に帰ると言うと思います。」
「何か、子供を返さなくてもよい方法はないのか?なあ、綾。」
喜作は驚いて尋ねました。
「ありません。ありませんから、どうか快く帰してやって欲しいのです。喜作様の子供を取り上げてしまうことは、私に取っても大変辛いことです。しかしそれがあの子の運命なのですから、どうか許してやってください。」「もしそれが本当なら仕方がない。我が子のため、愛する綾のためそうするしかないだろう。私は自分の子供を手放すのは惜しい。綾だってきっと辛いはず。しかし幾ら私たちが辛くても子供の幸福が一番大切だ。私たちの大切な子供のために二人でこの辛さを耐えて行こう。なあ、綾。」
この後二人は手を取り合って、泣いていました。
其の何日か後の新月の夜の事でした。木作と綾と子供の三人が村の浜辺に明りもつけずに立っていました。
「とっちゃん、かっちゃん、元気で。」
子供は短い言葉だけ残して、一人で海の中へ入って行きました。木作と綾は只手を振るだけで、じっと子供の入って行くところを見ていました。いつまでも、いつまでも、浜辺にたって、子供の入って行った暗い海を眺めていました。
それ以後、木作が海に出ることは有りませんでした。木作と綾は畑を耕すか、二人で海の見える丘に座って、じっと海を見て過ごしていました。